ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ぶらぶら

2013-03-30 13:41:47 | 日々の暮らし・思い出
泊りがけで夫と二人一緒に出かけられたのは、夫の弟が我が家に滞在中だからなんだ。

そうだ、じゃあ、行って来ようかと急に決まった。

二人で京都に出かけてくる、と夫が話したら、

義父は「何しに行くんじゃ?」と言ったそう。

出かけるのは用事のため、というのが義父にはある。

私たちが出かけるときはだいたい人に会いに行く、用といえば用なんだけど。

そのせいか、知り合いでもおるんか、とも。

ただの旅行だと話してもすぐにはわからない風だったそう。

ぶらぶらして来るんか、と最後には納得したよう。

まことその通り。ぶらぶらして来た。

義父にとって旅行なんてのは人生で関係ないものだったのかもしれない。

働いているのが一番気楽だったようだ。そんな感じがする。

私たちの友人が家に来ると、必ずどんな仕事をしてるのかと聞く。

60才を遠くに過ぎているような人にでも仕事は何かと聞く。

仕事をしているとわかると安心するみたい。

仕事をしていないことを引け目のように感じるような日々だったんだろう。

そんな素振りを感じることがあった。

朝寝をして、雨戸をいつまでも閉めておくといったことを嫌う。

寝ていたくても、雨戸を開けて、それからもう一度布団に入る・・そんな感じ。

仕事するのがいい、朝寝坊なんかするもんじゃない、

・・そういった気風のなかで暮らして来たんだろうなと思う。

三つ子の魂百までもというけど、百歳近い義父を見ていると、

そういう受けて来たものをずっとしょって来たのだなぁと思う。

そうするもんだ、と思いこんで。

義父一人に限らない。ずっと義父よりは若い私だけど、

長い期間、そういう思い込みをしょって来た。


天気のよい日、早起きするのはとてもいい気分のモンだし、

元気に仕事できるのは楽しいもんだけど、

休みたい時、仕事するのがいいという思い込みは、ひとを苦痛にする。

自分が見る世界は、人生は、自分そのものだから、

変えたい部分があるなら、変えられる。


民宿

2013-03-30 11:18:59 | 日々の暮らし・思い出
一昨日は嵯峨の民宿に泊まった。

一泊2食付で7500円。大正時代誰かの別荘だったという民宿。

私たちの部屋は回り廊下付きの角部屋の庭に面した部屋で、

庭にはしだれ桜やらなんやらかんやら古い感じで庭木が植えられ、

灯篭あり、水がめありの風情あるものでした。

障子もガラス戸ももちろんアルミサッシではなく、木製の奴で、

その障子を開け放すために動かしたら、あら、大変、止まったまま動かなくなった。

ありゃ、これはこのまんまで・・元通りにならないか・・?

強く押して、壊れてしまわないか・・などと躊躇したけど、

なんとか大丈夫、動いたので、元の位置に戻した。

庭に出ようと思ったけど、

ガラス戸を開けるのは止めておこうと決めたよ。

この価格で夕飯は部屋に運んでくれた。

翌朝、泊まった部屋よりずっと小さな部屋で、

幾つかの座卓をくっ付けたテーブルで宿泊客7人が同時に食事した。

初めて会った人たちと同じ釜の飯を食った、というわけだ。

7人が黙ってご飯を食べるということになんだか、不自然な感じがしたもんで、

前に座っていた若い人に、テーブルのホットプレートの用にかこつけて話しかけたら、

待っていたように、ニコニコとしながらいろいろと話してくれた。

すると、その隣に居た老夫婦?もなんとなく話を聞いていたのか、

頷いたり、笑ったり、して。

そのうち、隣の一人旅?らしき中年男性も、

会話に加わり出し、老夫婦も聞くだけでなく、発言したりして。

テレビもある部屋でNHKが低い音量でかかっていたんだけど、

老夫婦が普段見ているので、朝の連ドラを見たいとなり、

若い人たちもいつも観ていると言い、夫も見ていると言い、

音量を大きくしてみんなで見た。

大きなホテルとは違う味わいで、なかなか面白く楽しかった。

袖擦り合うのも他生の縁ということで、これは袖擦り合うより深い縁かなと思った。


嵯峨 化野念仏寺

2013-03-30 10:26:52 | 日々の暮らし・思い出
京都に夫と二人で行って来た。

昨日は朝から嵐山の天竜寺、常寂光寺、落柿舎、二尊院、祇王寺と周り、

化野念仏寺まで歩いた。

この地に来たのは45年ぶりくらい。

いや、まぁ、驚いた。浦島太郎みたいな気分。

念仏寺の辺りはさびれた山道を歩いて行った記憶があるのだけれど、

石畳みたいな道に造りは昔風だけど、新しい当世風の店が幾つも並び、

きれいな新しい民家が整然と並んでいた。

建設中の住宅があり、4700万円とかの看板があった。

私の中のあの化野があの化野じゃなくなっていた。

そんなこと当たり前なんだけど、びっくり。

念仏寺も、なんだか様子が変わっていた。

45年前の記憶では、

並んでいた石仏以外に幾つもの石仏やら墓石が無造作にごろんごろんと山になっていて、

凄く、なんというか、殺伐というか、寂寥というか、

そんな雰囲気を感じたものだったけど、

そういうものは今回全然感じなかった。

きれいに整理整頓され、きちっと収められ、

周りは砂利が敷き詰められ、無造作というような雰囲気は一切なかった。

お客様を迎える為にきれいに整えています、みたいな感じだった。

どこでも観光地と言われるところはこんなふうになっているよう。

何年か前に倉敷に行ったときも、40年振りくらいで、

やはりまるで雰囲気が違っていたのでびっくりしたし。

それはそれでいいことなんだけど、なんだろう・・・この受ける感じは。

自然なものを不自然に美しくしてる・・・そんな感じ。

私の思い込みがこんな思いにさせるのか・・なぁ・・

観光に力を入れるのは経済効果を狙っているため。地域にお金を落とすため。

観光事業としてやっている、というのを感じてしまうからなのかな。