悲しかったし、寂しかった。
ある事で非難された気がした。
全く不当だと思ったし、抗議したい気持ちも出てきた。
昨日はこれを彼に言おうかと、思ったけど、しなかった。
するとしても、ちょっと自分を観てからにしようと思って、
今こうして書いている。
何故私は非難されたと思うと悲しくなるのか?
非難されて嬉しいひとはいない。
非難したと観ると悲しくなるのは当然だ。
非難というのは解釈。
けど、明らかにそれは非難だった。この前書いたようなのとは違った。
それを非難と解釈しないでどういう解釈があるのか・・・?
彼の癒されてない部分がそうさせる、ぱっと今、それが浮かんだ
私の僻み根性と一緒だ。
今回の例みたいに、非難されなくてもいいことを、彼はたくさん非難されてきた。
“されて来たからするようになる”
そうだ。
たくさん非難された悲しみがまだ癒されてない。うん、そういうことだ。
あ~したら怒られた、こうしたら非難された、悪い成績をもらったら怒られた・・・
子供時代、親の未熟な解釈の元での誤解曲解をたくさん経験して来た。
親に限らないけど、親の影響が一番かと思う。
非難され傷ついたことはとっくの昔に忘れているけれど、
それは潜在意識にちゃんとある。消えない。そのまま残っている。
それが癒されるのはどういうふうにか???
周りである私がそれを在るがまま受け入れることだ。
非難せず。悲しまず。
そうなるには、自分の癒されてない部分が癒されてからだ。
だって、そういう自分でなきゃ非難してしまう。
悲しくなってしまう。
始まりはわたし。私が幸福になることが彼が幸福になることに直接つながる。
“わたし”って云ってるけど、全ての“わたし”だよ。
誰でも自分のこと、私 っていってるでしょう。
ある事で非難された気がした。
全く不当だと思ったし、抗議したい気持ちも出てきた。
昨日はこれを彼に言おうかと、思ったけど、しなかった。
するとしても、ちょっと自分を観てからにしようと思って、
今こうして書いている。
何故私は非難されたと思うと悲しくなるのか?
非難されて嬉しいひとはいない。
非難したと観ると悲しくなるのは当然だ。
非難というのは解釈。
けど、明らかにそれは非難だった。この前書いたようなのとは違った。
それを非難と解釈しないでどういう解釈があるのか・・・?
彼の癒されてない部分がそうさせる、ぱっと今、それが浮かんだ
私の僻み根性と一緒だ。
今回の例みたいに、非難されなくてもいいことを、彼はたくさん非難されてきた。
“されて来たからするようになる”
そうだ。
たくさん非難された悲しみがまだ癒されてない。うん、そういうことだ。
あ~したら怒られた、こうしたら非難された、悪い成績をもらったら怒られた・・・
子供時代、親の未熟な解釈の元での誤解曲解をたくさん経験して来た。
親に限らないけど、親の影響が一番かと思う。
非難され傷ついたことはとっくの昔に忘れているけれど、
それは潜在意識にちゃんとある。消えない。そのまま残っている。
それが癒されるのはどういうふうにか???
周りである私がそれを在るがまま受け入れることだ。
非難せず。悲しまず。
そうなるには、自分の癒されてない部分が癒されてからだ。
だって、そういう自分でなきゃ非難してしまう。
悲しくなってしまう。
始まりはわたし。私が幸福になることが彼が幸福になることに直接つながる。
“わたし”って云ってるけど、全ての“わたし”だよ。
誰でも自分のこと、私 っていってるでしょう。