ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

技術・こころ

2013-03-23 13:34:24 | ひとの幸福
技術的に出来ないことって、私なんか数限りなくある。

昔は所謂、肉体労働がかなり出来たけど、そういうことをしなくなったら、

身体はそれなりの身体になってしまって、今は出来ない。

やったとしたら、後が大変な状態になるだろう。

体力と共にそういう技術もなくなってしまう、ということになるんだろうな。

そんなふうに何かの願いを実現したい気持ちはあっても出来ない、ということもこの世にはある。

だから、年をとってもジムに通ったりして体力づくりに励んでいる人がいるんだろうな。

病身にならないように身体を鍛えておこうとか。

私も歩いたりラジオ体操したりしてる。やらない日もあるけどね~。


願ってもそれが叶わないという状況の時に、それでも、ひとはそれをナントカしたいと願い、

それがキッカケで技術革新・・みたいなことが起こる。

・・んじゃないかと思う。

情熱が何かを起こす。情熱はキッカケになる。

医療現場でも病人をナントカ治したいという情熱で、

革新的な手術方法が生まれたり、薬の発達にもなるのかと思う。

けど、医療が発達して来てるのにちっとも病気が減らない、増えている、

ということがよく言われている。


ナントカ治したい・・という願いは・・・

“病気が在る”という前提から始まっているから、じゃないかと思う。。

いま、予防医学が言われるようになっているらしいけど、

ガン検診とか健康診断とか位みたいだ。早期発見を狙っているだけ。

在るだろう、出てくるだろう、と待ち伏せしてるようなもんじゃないのかなぁ。

あるものを探そう、という考え。

出てくることは間違い無いという考えがそこにはあるような気がする。

出なく“なる”ように、病気が生まれなくなるように、という考えはそこにはない。

あるとしても、今のところ、食事だとか運動だとか、目に見える身体のことばかり。

ストレス云々はよく言われてるけど、

どうもそういうことに本腰入れてる人は少ないように見受けられる。

ストレスもあって当然、あるストレスをどう誤魔化すかという方向にしか考えが行ってないように見受けられる。

日本には「病は気から」という非常に的を得た諺があるのに、

そういうことを仮説にしてでも研究する人が

たくさんいてもいいだろうと思うのだけれど。
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快適・幸福 ②

2013-03-23 11:31:38 | ひとの幸福
ひとがするどんな行為も快適になる・幸福になるという目的につながっている。

そんな汚いこと、とても出来ないと思ってそれをしない人は、

自分が快適で居たいという願いを実現する方法として、

それをしないという行為をとるわけだ。

それはそれでいけないことではない。

自分の願いがその行為で実現しているのだから。

ただ、こういう場合は、

上の例で書いた赤ちゃんや老人の願いは自分の願いになっていない。

けど、泣いている赤ちゃんや、苦しがっている老人を目の前にして、

他に誰も居ないとき、

その人はきっと、何かを出来る人を探すかもしれない。

何もしないで居ることはないかもしれない。

その時空で何もしなくて自分だけ快適に居られる人って居る・・んだろうか・・?


喉が渇いたので自分で水を飲むという行為も、自分が快適で居たいからだし、

その人が水を持ってない時に、自分が持っていればそれを差し出したくなるのは、

その人の願いが自分の願いでもある、ということだろう。

けど、窮地で水の量が絶対的に少ないとき、ひとにやりたくないと思うこともあるだろう。

それがいけないことじゃない。

けれど、そういう時、やりたくないという自分の願い通りにしていても、

心はすっきりしないんじゃないか。

とても快適!ってなっていないんじゃないか・・・

そういう時、ひとの心というものは快適で居られないのはどうしてなのか・・・?


その人の心が快適な時、自分も快適。

自分の心が快適なとき、その人も快適。

そういう時、何故か、ひとは心から快適だ。

ひとの心はそうなっているとしか思えない。


他者の幸福、快適さと自分のそれが一致してる、こういう状態の時って、

心にその事以外なんの気がかりもない、他になんにも気になることがない、

状態かなと思う。一心、という言葉が相応しいな。

上で書いた、自分はとてもそんなこと出来ないと思っている人が、

誰か出来る人を探すという行為のときも、そのことだけを考えて、

他に何の気がかりもない、という状態かと思う。

何かやれることないかな、そのことだけを考えている・・・

どうだろう???






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快適・幸福

2013-03-23 10:42:08 | ひとの幸福
トイレ掃除や自分で出来なくなった老人のお下の始末やら、

汚物を持って行ってくれるバキュームカーの仕事やら、

そういった所謂汚いものを見たり触ったりする作業がこの世にはある。

福島原発で爆発があった時なんかも、危険な仕事を名前も知らない誰かが後始末をしてくれた。

誰かがそういうことをやってくれるのでこの世はそれなりに動いていく。

一人で排泄できない老人の肛門に指を突っ込んで大便を掻き出す行為が必要なこともこの世にはある。

技術の問題ではなく、気持ち的に、

自分にはそんなこととても出来ないと言う人もこの世にはいる。

自分に出来ると思うことは人それぞれなのだから、

それで別に構わないと思う。

汚いものを触るのが大好きな人は多分あまり居ないと思うけど、

汚物を触る、見る、匂いをかぐ、美しくない言葉を聞く、

危険物を扱う、そういう行為をイヤだと思わない場合はこの世にある。

汚物に触りたいから触る、その匂いをかぎたいからかぐ、

危険な目に遭いたいからやる・・・そういうことじゃないのは勿論だ。

その行為が目的ではないことがわかっているから、やれるわけだ。

ひとつひとつの行為は目的ではない。目的を実現するための手段だ。

自分で排泄できない老人の便が出るように、快適な状態になるように、

それを願ってやる。

そういう願いが自分にあるから、汚い、なんてことが“気にならない”。

臭い匂いだ、とは思うだろう。いい匂いではない。

けれど、だからその行為がイヤだと“ならない”。

“老人の願いがそれをする人の願い”でもある。

赤ちゃんのオムツ替えなんかもそうだろう。

子供に快適で居て欲しいと願うのでやる。

快適でいてほしい、そのための具体的な方法がこの場合、

オムツ替えをすることではないかと思うのでそれをやる。

その時空で、赤ちゃんが快適、幸福になるだろうための具体的な方法・具現方法の一つだ。

赤ちゃんは快適で居たいなんて意識的に思っているわけじゃないけど、

快適ではない時に泣くことが、そう願っている証しなのかと思う。

“赤ちゃんの願いが母親(誰でも・それをする人)の願い”でもある。

・・続く。




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