ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

神宮とおおやしろ

2013-03-17 17:02:42 | 新聞を読んで
今日の毎日新聞、日曜版です。出雲とは何か7。

大国主神と高天原との関係は対立関係ではなく、協調関係という見解がある。

大国主神は国は譲る代わりに自分の宮を高く作ってくれと言って、

出雲大社が出来た。国譲りの条件はそれだけでなく、

日本書紀によれば、

今後、目に見える現実世界(顕露事・(あらわのこと))は高天原が治め、

見えない世界(幽事(かくれたること)・神事(かみのこと)は大国主神が支えるという取引も成立していたという。

見えない世界とは、神々の世界であり、死後の世界であり、

広く精神世界のすべてを意味している。

この広大無辺の世界を手中に収めたのは大きい。

・・・とそれには載っていた。

確かに、天皇が目に見える現実世界を治めて来た、という歴史はある。

高天原とは天上の国で天照大神が支配してたわけで、

それが日本の皇室の祖先ということになっているんだから。

日本は神さんが人間になった国だということも古事記は云っているわけだね~。


地上のことは天皇が治め、

目に見えない世界はオオクニヌシノミコトが支える。

これはどういうことなんだろう・・・???

この話はどういうことなんだろう???

何を私たちに伝えたいんだろう???


何の用?

2013-03-17 16:13:10 | 日々の暮らし・思い出
夫が何かの用で車で30分くらいかかる町の施設に行った。

夕方に帰宅すると言っていた。

昨夜ともっと前にも、コレコレの用事で日曜日に出かける、と言っていた。

だが、その用事を憶えてない。

出かける、ということだけは憶えていた。

あまり忘れても夫に失礼かと思い、知っているふうに送り出した。

帰って来たら、どうだった?とか聞けば、

何の用事で出かけたかわかるだろう、と思っている。

これは老齢化による健忘症なのかというと、そうでもない気がする。

昔、今よりもずっと若い頃、職場でまとめ役みたいなのをしていて、

職場の人が明日ナニナニで休みたいとか言ってきたとき、

そのナニナニを殆ど聞いていなかった。

明日休む、ことだけ聞いていた。そうかと思って、

それなりの手配をとったりした。

この二つの例でも、その人に何か用事が在ることだけわかればよかった。

どんな用事でもその人には必要な用事なわけだ。

けど、それは私にわからなくてもいいからだろう。

聞いても忘れてしまう。

私に必要なのは、その日、その人がその場所に居ないことさえわかればいい。

居なかったら居ないでそれなりにやることが違ってくる。

夫が居ないなら昼飯をその分作ることないし。

職場のその人が居ないなら、それなりに仕事を考えなければならなかったし。

居ないという事が“ある”、用事が“ある”、それがわかればいい。

その理由はどうでもいい。

こういうのってどういうことなんだろう?

その人が何の用があるのか、何に関心を持っているのか、

それにあまり関心がない、ともいえる。

けれど、それを楽しんでいるとかの話しになると、

関心がないわけじゃない。


夫は一日もかけて一体なにをしてるんだろう??

ちょっと興味が出てきたよ。







おとうさん

2013-03-17 14:10:10 | 日々の暮らし・思い出
96才の義父は今年、夏みかんを食べる。

例年は食べてなかった。酸い(すい)と言って食べなかったけど、

今年はどういうわけか、美味い、上等や、と言って、

私のためにも皮を剥いてくれる。

その果汁がテーブルに散った。いつも台拭きが置いてあるんだけど、

昨夜はなかった。ちょうど私も居間にいなかった。

義父は洗面所に行き、そこに下げてあった私の顔拭きタオルを持って来て、

それでテーブルを拭いたらしい。

夫が話してくれた。

前は下流し(魚の下処理などをする半ば外空間の流しのこと)に置いてある雑巾を

持って来て、テーブルを拭いた事もある。

彼には台拭きも顔用タオルも雑巾も区別がない。

多分、わかってない。普段の彼を観るとそんなふうに観える。

タオルは雑巾にもなるし、布巾にもなるし、顔拭きにも、なるものではある。

大きさや幾分か材質、汚れ具合なんかが違うんだけど。

それらを区別してるのは私であって、彼ではない。

なので彼はなんでも使える自由なひとなのである。

言葉・考え

2013-03-17 13:54:28 | 言葉
起こるとは“潜在してる力がおのずと活動し始める意”・・そういう意味。

コレ、広辞苑に出てた奴。

「言葉」って意味。

そして、辞書・広辞苑に出ているというのは、

意味であると同時に用法・使われて来方。

こんなふうに人々はこの言葉を使って来ました、ということ、

でもある。

考えるということは言葉無しには出来ない、

という事実が云っているのは、

どういうことなのか??と考えると・・・

言葉を頼りにしてこのブログでも考えて来た。

言葉と共に、と言ってもいい。

tokokoという私が考えているんだけど・・

言葉が考えている、と言ってもいい。

起こる、という言葉ひとつをとっても、その意味・用法は言葉が持っている。

物事は相対的だということも・・・

「在るもの」は「無い」ではないことも・・・

言葉が教えてくれる。

全部、言葉が知っている。

うーん・・・これって何???

デザイナー

2013-03-17 13:42:10 | ひとの幸福
この自然界、宇宙にデザイナー、設計者なんか居ないのに、

生命は全体で一つかのような動きをする、コレ、福岡ハカセの考え。

そうなっているんですね~、と。

そうなっている、とはそういう現象が起こっている、という表現も出来る。

起こるとは“潜在してる力がおのずと活動し始める意”・・そういう意味。

そうなっている基?元?には、潜在してる力というものが在る、ということ。

それがデザイナーとも設計者とも言えるんじゃないかなぁ。

潜在してるということは潜んでいるということだし、

「力」なので目には見えない。

「力」は直接目に見えるものじゃないからね。それは働き。

電力も目に見えないもので、見えるのはその力で動いた物が見えるということで。

デザイナーとか設計者というと人というような個という感じがするけど、

昨日だか書いた、愛 とか、愛という意志 とか・・

そういった目に見えないけど確かに“存在の意志”というようなものが在る、

ということかなぁ。

“保ち合いの理”とも表現できるかなと思う。

相互作用の理。動的平衡という理。

「つながり」の進化生物学

2013-03-17 10:40:00 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の書評欄にこの本のことが載っていた。

見出しは、「生物の行動から導き出す「こころ」の効用仮説」。

著者は岡ノ谷一夫さんという人。動物行動学の立場から、

「こころ」あるということの意味を生徒に考えさせようと様々な事例と現象を紹介していく内容らしい。

書評してるのは村上陽一郎さんという人。

「著者の一つの結論はこうである。生物のもろもろの行動を見ていくと、

進化の過程で、他者に『こころ』があるという前提で社会生活をやっていく方が

明らかに適応度が高まる。

そのことは自分の『こころ』の問題を切り離して

はっきりとさせることが出来るはずだ。

この考え方は「こころ」の効用仮説とでも名付けるべき興味在る性質のものである」

・・という一節があった。

他者に『こころ』があるという前提で社会生活をやっていく方が適応度が高まる・・

それはそうだろうな、と思う。

他者に『こころ』が在ると観るのは自分の『こころ』だしね。

そういう生物が他という環境である他の生物と適応でき、

進化できたということなんだろうなぁ。

他とのやり取り、相互作用で宇宙はなっているし、それで進化しているのだろうから。


見ず知らずの隣の生徒がどんな人か、生徒に他者紹介させるという経験をさせて、

「こころ」は外見と振る舞いを生み出すもの、ということを

生徒に気づかせたいというのが著者にはあるんじゃないか、みたいな文章もあった。


デカルトの「心は機械の中の幽霊に過ぎない」という見方から、

山川草木一切が「こころ」あると考えるアニミズムまで、

「こころ」を巡っての議論は果てしなく続いている・・・

これもあった一節だけど、果てしなく続いている、ということは

まだまだ明らかになっていない、ということの表れだね~

お楽しみはまだまだ続く。


「アニミズム」って広辞苑では、

「自然界のあらゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、

それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有するとみなし、

諸現象はその意思や働きによるものと見なす信仰。」


「信仰」と聞いただけで、すぐそれを無視したがるのは戦後の教育のせいなんだろうかね~

原始時代、いろんな情報など無い頃、

学問も発達して無い頃、在るのは自分の直感・直観・感じることだけ。

それを基にするのはかなり確かなものだろう。

自分の外部である情報などに振り回される現代人より、

そういうもののなかった頃はそれらに邪魔されず、

ずっと豊かな感性だったのかと思う。







存在

2013-03-17 09:04:09 | ひとの幸福
幸福を希求してしまうという状態が在る、ということが変わらない。

在るものは無いものになれない。

「常態」という言葉も在る。それは、いつもの状態。普通の状態。と広辞苑。

時計の針はいつも違うところを指している。

デジタル時計はいつも文字が変わっている。

いつもその状態。その状態が変わらないものが時計。

そういう状態でなくなったら時計は時計でなくなる。

幸福志向性という状態は万人に在る、それがいつもの状態。

そういう状態でなくなったら、人間が人間でなくなる。

そう、息が絶えるということ。

身体という目に見える状態のものはそんなふうに変わってゆくけれど、

その身体に宿っていた?幸福志向性、自主志向性、自立志向性、

自律志向性、共に在ろうとする志向性・・

・・そういう生命の意志は、

どこにどうなっていくんだろう??

在るもの、存在は存在でなくなることはあり得ない。

だって在るから存在なので。

目に見える在るものはどんな物でも形を変えて存在し続ける。

目に見えない在るものは形を変えようが無い。だって、形がないんだから。

ということはどこかにそのまま在り続けるということになる。