ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

畑・山・庭

2013-04-14 15:37:07 | 日々の暮らし・思い出
畑に行き、サヤエンドウと葉タマネギと菜花の収穫。

サヤエンドウは出始め。菜花はもうおしまいの頃。

冬の畑からすっかり春の畑になった。

スナックエンドウも段々太って来た。採るのはもう少し太ってからにしよう。

一昨日買って来たブーゲンビリアの苗も、

畑のガーデンと呼んでいるコーナーに植えた。

薄ピンクの花?がきれいに咲いている。

ここらは暖かいから外で大丈夫かな?と思ってるんだけど、どうだろう。

近くの家の山側の庭でその斜面にこの花がびっしり咲く。

山側で風が当たらない場所だから咲くのかもしれないけど。

植えてしまったけど、冬になる前に移動した方がいいのかもしれない。

もう少し調べてみよう。

畑の後、山沿いのバイパス新国道を歩いた。新緑で山がモクモクと太って来てる。

すごく美しい!

そんな山を満喫しながら歩いて家に。

庭は今、モッコウバラが咲き乱れている。なんて美しいんだろう。


さぁて、今晩はなににしようかなぁ・・

エンドウで卵とじしようかな・・

葉タマネギは一昨日豚ばら肉と炒めたら美味しかった。

又それにしようかな。

続いてもいいや。

それにしても最近の食卓の野菜は全部我が家の畑出身だ。

酢漬けの大根、里芋煮、菜花の煮びたし、茹でブロッコリー、

味噌汁のわけぎ、キャベツの即席漬け、ポテトサラダ、

我が家出身の野菜なんてことが意識ではまだ当たり前になってないから、

こんなところで書いてる。

生まれてからずっと、うちで採る野菜を食べてる人は、

全部我が家のもの!なんて意識しないだろうね。

毎瞬毎瞬一日中一年中幸福だったら、そんなこと言語化しないだろうね。

世界中のひとがいつも全員幸福な時がやって来たら、

小説なんて消えるんだろうかね~。

まぁ、でもそれまでは小説も含めて必要なものは多いだろうなぁ。

それを楽しんで生きていこう。
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友人

2013-04-14 15:00:59 | 日々の暮らし・思い出
昨日のブログを読んだ友人がメールをくれた。

この友人はいつもこのブログを読んでくれている。

これを書くのは書くことで考えることをしたいからしてる。

わざわざ公開することないといえば云える。

けど、公開したくてしてる。

昨日の文章がすっと入ったって、友のメールの文。

とても嬉しい。

一人でもそんなことを思う人がいると思うと、公開しててよかったなぁと思う。

反対にこんなの読んだばっかりに嫌な思いをするという人もなかにはいるかもしれないね。

それもしかたない。
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自分優先 ④

2013-04-14 12:49:26 | ひとの幸福
自分を大事に出来なくてどうして他者を大事に出来るだろう・・・

自分を愛せなくてどうして他者を愛せるだろう・・・

自分が幸福でなくてどうして他者を幸福に出来るだろう・・・

みんなみんな・・

他者と自分は一つのものだという前提があることを窺わせる言葉だ。

けれど、自分のことしか自分では出来ない。

他者のことは他者がやる。


聖書の大文字の神GOD・ヘブライ語のYHWEの意味は

「すべてのものにわたしはなる」。

ひとが“すべてのものにわたしはなる”状態になったときが、

至福という瞬間なのかなぁと思う。


人間はひとであって、神ではない。

私は私であって、誰某さんじゃない。

誰でもが“すべてのものにわたしはなる”そういう瞬間、そういう意識状態が

一日24時間のうちどのくらいか在る。


そういう“状態”が神ではない人間にもあるということだろうと思う。


山岸さんが云った「条理と相対者を切り離して・・」の言葉がどういうことなのか、

折に触れ、いろいろ浮かんで来たけれど、

たった今はこう思う。

相対者である人間は相対者であることから抜け出すことは出来ない。

暑さも寒さも感じられる。空腹にも満腹にもなれる。

絶対者にはなれない。

けど、絶対的境地になる瞬間はある。

そういう“とき”が増えるといいなぁとそれなりに努力したくてしてる自分だ。


さっき、湯川博士の文章を載せたけど、その中にちょうど、

こんなのがあった。

「常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される」
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自分優先 ③

2013-04-14 10:52:44 | ひとの幸福
結婚式で面白くない話の長い人は鬱陶しがられる。

けれど、聞いてる振りをする人が居る。

話す方は聞いてもらってると思うから話し続ける。

今までがそうだったんだろうと思う。

そしてあの人ホントに空気読めない人でイヤになるよ、と悪態つかれる。

気の毒だと思う。

悪態つく方は自分を優先してないから、

悪態つくことになる。

聞きたくない話を我慢して聞いている(ホントは聞いてない)から。

聴きたいと思わない時は席を立つことにしてる人もある。

そういう人はイヤだという空気は発さない。

我慢しないから。

我慢することで発生する、イヤだという空気を自分から発し、

その空気を読めない人を馬鹿にする空気を発する人もある。

結局悪口の多い人は自分を優先していない。

これも気の毒なことだ。
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自分優先 ②

2013-04-14 10:32:37 | ひとの幸福
何かしてる時、誰かに「そこに居るんなら、ついでにアレやっといてぇ」なんて気軽に声かけられる。

気軽に声かけてもらうことは嬉しいことだ。

あの人になんか言うと後が恐ろしいなんて思われるよりはね。

けど、その時、今コレやってるんだから、アレは出来ないよ~って瞬間思っても、

その次の瞬間に、ついでといえばついでだしなぁ・・とか、

あの人にこの前よくしてもらったしなぁ・・とか、

あの人にこの間、迷惑掛けたしなぁ・・とか、

そんな心理が働いたり、して

今やってるコレを置いて(自分を優先しないで)、

相手のアレを自動的みたいな感じでやってしまうことがある。

けれど、そのとき、相手のアレをやることにした自分の意識に自覚・納得があれば、

そうすることを納得してやるのだから、

後でそれをしたことが“キッカケ”で不都合が起きても、

自分が納得してやったことだから相手を恨むこともない。

けれど、無意識的に自動的にやると、

相手がアレやってと言ったから自分のやるつもりのことが出来なくなった・・

とかの思いになりやすい。


でも、歴史、社会の中でそうなって来たんだから、それはそれで仕方のないこと。

否定する理由なんかないよ。

そんな自分を慈しんで受け止めてあげたいね。
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