ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

挨拶

2013-04-17 16:34:36 | 日々の暮らし・思い出
娘が来てる時、一緒に食堂に入った。

席に座り、ウエイターの人と話してるとき、

「あれぇ!こんな所で遇うなんて(^^)」とニコニコと近所で仲良くしてる友人。

ちょっとだけ話して、彼女は自分の席に戻った。

彼女は連れと一緒で私たちより少しだけ後でそこに来たよう。

食事が終わり、娘と外へ出た。

その日の夜になってからだと思うけど、娘が言った。

あそこを出るとき、お母さん、友だちに声も掛けずに出たね~と。

それを聞いてびっくり。

食堂を出るとき、私は彼女がそこに居たことなど全然意識に無かった。

いわゆるすっかり彼女の存在を忘れた。

昨日だか、夫がその友人宅に筍掘りに出かけ、そこで彼女も言ったという。

あーいうとき、一言挨拶するのが常識でしょうと。

全くあんたの奥さんは・・・悪気はないことはわかっているんだけどね~

彼女のこの発言にも悪気はないことが私にはわかる。

悪気がないから言えるわけで。

彼女はメールの返信をしない私のことも文句を言う。

私もそれにへへと笑うだけだ。それで二人の間に何の問題もない。

もし、その食堂で遇った人が近所のちょっとうるさいKさんだったら、

その人の存在を忘れることはなかったと思う。

いわゆる気を使わないと許してもらえないような人には、

ちゃんと自動的に無意識的に気を使うわたしだ。

物事は相互作用で、なる、もんだとつくづく思うし、

キメツケを持っててもなんの問題もないと思う。
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自分優先 ⑤

2013-04-17 16:12:23 | ひとの幸福
自分の気持ち・自分だけのことをいつでもどこでも何よりも優先・大事にしてる人は、

オウム真理教に遇っても、あのような展開に引き込まれなかったろうと思う。

社会というものを自分と離れた存在だと認識してる場合に、

社会をよくしよう、変えよう、という発想になる。

自分と離れた「社会」なんて無い。

社会は自分。在るのは自分。
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どうしてマインドコントロールが起こるのか?

2013-04-17 15:47:26 | ひとの幸福
「洗脳」と「マインドコントロール」はどう違うのか???

マインドコントロールとは、広辞苑によれば、催眠法によって、

個人や集団を“被暗示性の高い状態”に導き、

暗示によって特異な記憶や思考を生じさせること。

・・だという。(“ ”は私がつけた。)

される側で云うと、

意識的な繰り返し教え込まれる体験(洗脳)とは違うと思う。

タレントのオセロの中嶋さんという人がマインドコントロールされ、

それがまだ解けてない・・と精神科医の香山リカさんが言ったとかの、

記事を週刊誌でさっと読んだ。真面目に読まなかったので、

中嶋さんは催眠を受けたのか、受けてないのか知らないけど、

催眠など受けずにもそのような状態になるのではないかと思う。


自分の経験でも後になってあの時のあの感じは、

マインドコントロールされてる状態だったのではないかということがある。

けど、その時の相手側は悪意も、マインドコントロールしようという意図も一切なかったと思う。

オウム真理教の信者に起こったこともそうだったと思う。

そうしたことが起こるのはどういう意識プロセスによって起こるのか、

観察し、考えたい。

マインドとは心。心は表面意識の思いや考えではない。

心とは状態を示す言葉である。

状態をコントロールさせられるとはどういうことか??

広辞苑には、被暗示性の高い状態に導き、とある。

この被暗示性の高い状態とはどういうことかというと・・

3,4才?くらいまでの小さな子供の脳波は大人の脳波と違って、

非常に暗示を受けやすい脳波だという。

(この研究発表はどの本にあったか、今はっきりと名前は記憶にないけど、

このブログにも以前載せたことがある。科学誌に発表されたものだったと思う)

その頃の子供はそう在ることで正常に成長できるのだろう。

こういう表現も出来る。子供の真っ白な心はなんでもそのまま受け取ってしまう。

虫を指して「これは花だよ」と言えば、「そうか、花なのか」となる。

それは疑うことなどできない意識の状態である。

疑ることが出来るのはそれ以外の知識や情報が潜在意識に既にあるからこそ出来るものだ。

それ以前の知識がない状態の子供の意識(脳)には

どんなものでも「あー、そうか」と入るようになっている。

三つ子の魂百までも、という諺はこの頃入った知識はずっと百までも持ち続ける、

というようなことを云っているのかと思う。

マインドコントロールがなかなか解けない、というのもなるほどという話だ。

虫を「花だ」と教えられるということは、

それは「これは花というものである」という見方が身に付くということである。

そのもの(事実は虫)を見て、「花」と捉えるようになる、ということ。

見方、捉え方、解釈(ほとんどこれは無意識的に働いている場合が多い)を持っていたことに何らかのキッカケで気づくと、

(キメツケが外れるという言い方をしてもいい)

それが解かれた状態になる。

所謂、その事に関して意識が真っ白な状態になる。

そこに新しい知識を示されると、被暗示的になっている意識にスコーンという感じで、

それが入る。

新しい「これは~こういうことなのか」が新たな見方、捉え方となって固持される。

マインド、心は、アレが美味しい、これは不味いなどというその場だけの思いとは違う。

それはものの見方、物事の捉え方である。

自分を産んだという人のことを「親」というのも、ものの見方、捉え方である。

例えばの話しだけど、

「親」として付き合っていた人のことを、

その人は「親」ではないという証拠のような材料を目の前に次々に出され、

それが事実のように思ってしまうような内容だと

その人は自分の親である、という捉え方が揺らぎ、

この人は他人であるという見方に変わる可能性もある。

すると、さっきまで「親」と見ていた人が「他人」に見える。

すると人生が変わってしまう。

これを作為的にやるとしたら、マインドコンロールする、と言うんだろう。

ひとの見方を変えようとするのをマインドコントロールする、というのだと思う。

でも、悪意作為無しの場合でも、頑迷な窮屈な不自由なものの見方が何かのキッカケで外れると、

それまで在った見方が何も無くなり、

何もないところにその直後入った考え・見方がでんと居座る。

以前の見方をしていた時は不自由だったという発見もあったことによって、

新しく入ったものの見方に「この見方が正しい」という判断もガーン!と入る。

そしてそれ以後、その正しさに目がくらみ、それ以外を排除しようとすることになる。

ひとはみな正しさに惹かれるものだから。

善を求めるものだから。

オウム真理教の信者の意識に起こったことはこういうことだったのではないかと思う。

東大出や京大出なんかの頭のいい、心優しい人がそうなった。

麻原彰光さんも決して悪意はなかったと思う。

サリンを撒いた人も悪いことをしようとしてしたのではなかった。

それはそのひとにとっては“よいこと”だった。

けれど、その瞬間一抹の思いの揺れはあったという。

それを優先すればあんなことにはならなかった。

瞬間の自分の気持ちを優先せずに、

これは世の中をよくするためという人の考えを優先した。

自分の気持ちと世の中をよくすることが一致していたら、

揺れる思いなど生まれない。

自分の意識にほとんど無自覚状態だとこういうことになりやすいのかと思う。

自分はそんなマインドコントロールなんか絶対されない、と表面的に思っていても、

結構みんな危ない。

目を瞑って歩いているような人は危ない。

無意識的に生きていると危ない。

実際いろんなものの見方が崩れるようになくなると、

行動の指針を失って、精神に異常をきたす場合があるから、

そういう時は特に気をつけないといけない。

きちんとフォローする人が傍に居ないと危ない。





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洗脳

2013-04-17 10:57:04 | ひとの幸福
「洗脳」という言葉の意味を調べてみると、

新しい思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること。

第二次大戦後の一時期、中国の思想改造を brain washing と評したものの訳語か。

・・と広辞苑にある。

日本の第二次大戦後の学校で教科書に墨を塗らせたのも、

民主主義思想を繰り返し教え込んで、それまでの思想を改めさせること・・

・・だった、と云えるだろうと思う。

あれも「洗脳」である。

いや、あれは正しい思想に・・云々の意見もあるのだろうけど、

意味からすれば「洗脳」には違いない。

「考えが変わる」ということがその人の中で自然に起こるのは洗脳とは言えないんだろう。

他者が意図的に「改めさせること」・・これが「洗脳」で、

自然に自ら考えが変わるのはただ「変わる」。

「洗脳」がよいとか悪いとか、

戦後の墨塗り教育は正しかったのか、間違ってたのかなんて言えないのだろうと思う。

せざるを得なかった、苦肉の策、だったのかと思う。

その時点ではそれより他に仕方がなかったのだろうと思う。

けれど、これは言えるんじゃないかな。

「洗脳」って、不自然。
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