ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

私意 と 公意 ☆

2012-08-28 09:15:15 | 実例体験観察
この前、人のある行為を嫌と感じることがあった。

その時、その人のその行為を邪険に扱うことが出来ず、

冗談で済ませようと咄嗟に思った。

その人がそうしたいという気持ちになるのもわからなくはなかったので、

私はそういう行動をとったのだろうと思う。

その行為が私に関係ないことなら、

あー、そういう感じにこの人はなっているんだな、で済むんだけど、

直接私にかかわって来ることなので、考えた。どうしたもんかと思った。

その人の希望に副おう、と思った、決心した。

けれど、実際そうしようとした時、どうしても出来なかった。無理だった。

ご希望に副えなくて申し訳ありません。どうぞご勘弁ください。

というようなことを手紙に書いた。

その人からわかってくれたような感じを受けた。


私が嫌と感じることは「私意」なんだろうと思う。

そしてその人がそうしたいという気持ちもその人の「私意」なんだろうと思う。


「私意」の意味は自分の意見。私見(自分一人の意見)

私欲をむさぼる心。私心(自分の考え。私人としての考え。私欲をはかる心)。

私情(個人としての情け。個人的感情。私欲を遂げようとする心)をまじえた公平でない心。

偏頗(かたよること。不公平。えこひいき)な心。


気持ちは起こってくるものだし、

プロセスを経てなって来たものだから、否定などしようがない。

それが「私意」尊重ということなんだろうと思う。

この件でいえば、その人の行為が起こる前の気持ちを尊重できたのかと思う。

けれど、私がとった行動はその人の希望通りではなかったので、

その人にとっては不本意だったかもしれない。

けど、その人は私の希望通りにすることを受け入れてくれた。


世間的には、その人の希望を尊重するなんてとんでもないと言われるものだったかもしれない。

その人の行為は非難糾弾されて当然のことだったかもしれない。

けど、そのことがダメだから、私がそれをしない、というのじゃなく、

その人と仲良くしたいから、それをしない(その人のその意志通りのこと)

という自分の心だったのかと思う。

それが「公意」を行なうということなんだろうかと思った。

公意という言葉は広辞苑にはなかったよ。

夏みかんの木 と 引越し

2012-08-27 12:50:40 | 日々の暮らし・思い出
午前中は畑でオクラ、ゴーヤ、つるムラサキ、しし唐なんかの収穫と、

夏みかんの木の剪定をした。

みかんの実に日光が差すように、葉っぱが多いところを切った。

こういうのはやり始めると止まらない。

途中で大雨が降って来たけど、かえって面白い。

木の下から覗くと見えなかった空が見えるようになった。

夫はそんなに切ったら、実がむき出しみたいで痛々しいというようなことを言った。

そうかなぁ、切りすぎたかな・・と反省。

私の癖なんだろうか・・ちょっと整理なんかでも始めると、

片っ端から捨てたくなって来る。

この前、講演会に行って開場から開演まで一時間も待つことがあって、

本は持ってこないし、何しようかと夫と言って、

引越しの話しをした。引越しやリフォームの事なんかを考えると楽しいので、

すぐするわけでも無いけど、その話を楽しんだ。

新しい住まいに何を持っていくか?について。

この家に物は置いておけるので。

冷蔵庫と洗濯機とテレビとパソコンとダイニングセットと布団3組と・・

少しの食器と衣類入れのケースと少しの衣類と、

少しの本と・・・二人でそれくらいしか浮かばなかった。

実際にやったらもっとあるかもしれないけど、

二人でたいして無いもんだね~と話した。

思い返せば二人でお金も何も無いところからやって来たんだものね~

今日はなんだか一人でドライブしたい気分なので、

これから行ってきま~す。

何かで在る・・ようになるために ☆

2012-08-27 12:32:09 | ひとの幸福
まず、“何かで在る”という方法をやってみましょうよ・・・

ということを彼は云っていたのかと思う。

と、昨日書いた。

青い本には、今までどうして幸福な社会が実現しなかったか?についての、

彼の見解が載っている。

その?に対して、

「その第一に揚ぐべき(揚げるべきかと思う)ものは、

仮定に結びつける非現実的“説き方”です。・・・

・・仮説は仮説に過ぎず、一時的仮の幸福は与え得ても、

必ずや脆く崩壊することは必然であります。

・・・又中には、・・・死後に希望を持たせる“説き方”や、・・・」

・・と、なんたらかんたらとある。

文脈からすると、幸福な社会が実現しなかった要因というか、

わけが書かれてあるはずだけど、

こういうのはどう読んでも「社会」が実現しなかった理由としては相応しくないように思う。

そういう社会が実現しなかったのが説き方によるものとはこれ如何に?


訪れるもの

2012-08-26 13:05:27 | ひとの幸福
「存在の理法」というタイトルでも書いた湯川博士の言葉に、

「造物主は他を動かす手を持たない」というものがあるけど、

私たちは造物主であり、身体の手は持って当然だけど、

他の心を動かす手を持つ・・のはナンセンス。「動かす」というのは他動詞。

他である自は自らの心で動くもの。

「動く」は自動詞。

それを多くの人が本当に自分のものしたら、当然、世界は自然に、無理なく、

相互関連的にいい循環になっていくのかと思う。

幸福社会は造るものじゃなく、訪れるものだと彼も云ってた。

「どうもわからない、疑問だ」 ④

2012-08-26 11:00:57 | ひとの幸福
自分でひとの考えを決めている、ということでもある。

・・と書いたけど、そこをもう少し・・

そう発言した人の意識の状態が[その会場を使うこと=良くないこと]になるには、

その前に、その人はそこの会場を使うと考えた人のそのわけや思考が、

「わかっている」と云う状態になっている。

これは他者の意思にまで踏み込んでいる、という現象だ。

けれど、自分が他者の意思をこうだと「わかっている」状態だとわかっていない。

他者がどういう思考をしたのか聞いてもいないのに、

その人はわかっている状態に在る。

人情社会になるための3条件の一つとして彼が云っているのがコレかと思う。

「他を侵すことの浅ましさ、愚かしさに気付くこと」

それが「他の二案は欠いても、この一法だけは外すことは出来ないと思う案が第ニ案で、・・」

案だけど、一法である。

「一法」って日常使う言葉じゃないなと思って、調べたら、

一法という項目が二つあって、一つは「一つの方法。或る方法。

もう一つの一法が仏教用語で「一事。一物。」

うーん、この解釈より、ひとつの法ということで、

その「法」というのは真理。道理。正しい理法。存在の法則性。

・・という解釈がぴったりなのかと思っている。

「どうもわからない、疑問だ」 ③

2012-08-26 09:00:42 | ひとの幸福
さっき書いたような発言をするように“なった”には、なっただけのプロセスがある。

周り中がそういう人ばかりの中に居たり、

テレビや新聞でもそういう思考の人ばかりを見ていたら、

そう“なる”のは当たり前すぎること。

そういう発言をする人をダメとする見方は、

[その会場を使うこと=良くないこと]というキメツケと全く同じだ。

住みにくい世界へのキッカケだと思う。

悪循環に一役も二役も買うことだろうと思う。

世界がよい方向へ変わるために、“何かをする”という方法は散々やってきた私たちだ。

やって来ての結果が現状の世界であるわけで、

もうその方法はいい加減にして、

まず、“何かで在る”という方法をやってみましょうよ・・・

ということを彼は云っていたのかと思う。

「どうもわからない、疑問だ」 ②

2012-08-26 08:45:06 | ひとの幸福
例えば、「そこの会場を使えなんて、どうもわからない。疑問だ」

という言葉で考えてみたけど、もう少し・・・

この例の場合、そこの会場を使うという案があったということは、

そこの会場を何らかの理由で使いたいという考えが他の人にあった、ということで、

そう考えている人がどんなふうなプロセスでそう考えるようになったか、

そこをこの発言したをした人は全然観ていない。

自分は~こう考えるけど、

使いたいと言っている人はどんな考えの元でそう言っているんだろう?

どうしてそういうことに“なったんだろう?”

・・というような他の人の考えに耳を傾けてみようというのが全く無い。

全く無いのはこの場合尤もなんだけど。

何故って、この発言をした人の頭には、

他の人には他の人なりの考えや思いが在る、そのことに自覚が無いので、

どんな考えでそう言っているんだろう?なんて疑問は浮かびようが無い。

最初から[そこの会場を使うこと=良くないこと] になっているので、

そういう自分の考え以外は「間違っている」になっている。


その会場を使うという、ひとの考えには疑問だと言っているけど、

自分の考えを絶対としてることには気づいていない。

いま、ひとの考えには疑問だと言っている・・と書いたけど、

自分が思うところのひとの考えを疑問だと言っているに過ぎない。

ようするに自分の考えは疑問だと言っているのと同じこと。

自分でひとの考えを決めている、ということでもある。

われ一人の世界に住んでいるとはこういうことなんだろうと思う。


魯山人の言葉

2012-08-25 18:43:49 | 新聞を読んで
何日か前の天声人語に魯山人の言葉が引用されてあった。

「魚という奴は面白い

食通の魯山人は言う

じっと目を放さずに見つめていると、なかなか焼けない

ちょっとよそ見をすると

急いで焦げたがる」

こういう感想世の中に多いんだろうな。

でもなんとなくそのことはどういうことなのか?って思う人がいないんだろう。

「どうもわからない、疑問だ」

2012-08-25 15:35:13 | ひとの幸福
「・・他の人を非難したり・・・することは、

殆どの場合、自分の程度の低いことの証明であり、

自分たちの住みよい世界実現の足下を自らくずしていくもので、

非難しないまでも、批評するさえも、また、

『どうもわからない、疑問だ』という言葉を使うさえも、

聞く人にはほとんど非難しているようにとられがちで、

もっとも気づかない・・・への大きな反逆であることを、

静かに、反省してみよう」

・・・青い本のこの文章は最後の方にある。

前の方の文章に比べるとだいぶわかりやすく書かれてあるように思う。

でも、上の文章も深い。

「どうもわからない、疑問だ」という言葉が幸福への大きな反逆だということ。

何故これが全ての人が幸福になることへの反逆なのか・・・

或ることがどうもわからないと、言えるということは、どういうことかといえば、

その、或ることがなんだかわかっている、という前提がある。

例えば、「そこの会場を使えなんて、どうもわからない。疑問だ」

という言葉で考えてみるとわかりやすい。

そこの会場を使うということがどういうことだか、その人にわかっていなければ、

こういう発言はしない。

例だけど、そこの会場を使うということはこの場合相応しくないとか、

そこの会場を使うのは普通A地区の人だけだとか、

(自分たちはB地区なので使えないに決まってるとか)

そういうような考えが既にあるので、そこを使うということは良くないとか、

常識外れだとか、

その人は既に一人で決めている、ということだ。

この文章があるタイトルは、

「みんなの知恵と力と心を一つにして」。

この例がタイトルのようじゃないことはすぐにわかる。

全ての人が幸福になるのに反逆するものであることは、当人にすぐにわかる。

誰が当人でもわかる。

こういう言葉をある種の気分で発するとき、

人は誰でも必ず、ハッピーな気分じゃないので。

崖の上のポニョ

2012-08-25 13:56:44 | テレビを見て
昨夜テレビでポニョやってた。

前に見たことあるけど、その時もテレビでだったから、

真面目に見ず、編み物かなんかしながらだったんだと思う。

大きな魚の上をぴょんぴょん走るポニョの姿だけしか憶えてない。

なので、昨夜は真面目に見ましょうと思って、見た。

真面目に見るとやっぱり面白かった。

宮崎駿さんはいいなぁと思った。

魚でも半漁人でも人間でも、ポニョのこと好きな宗介くんのもとにポニョは居られることになって、

めでたしめでたしで終わった。

めでたしめでたしで終わる奴好き。

共感が何故? ②

2012-08-25 13:26:29 | ひとの幸福
人が共感されることで癒されると感じるその共感とは・・・

上の「あいつぶっ殺してぇ!」の例で考えると、

殺したいとか、憎いとかの気持ちに共感するというより、

その言葉の奥に潜んでいる悲しみや寂しさに対して、共感することなんじゃないかと思う。

殺したくなった気持ちの元は憎しみよりもっと深いところにある愛を求める気持ちだ。

さっき書いたけど、共に悲しみ、喜んでくれる人を一人もみつけられない位、

人として辛いことはないんじゃないかと思う。

独りぼっちが嫌なのは人間がそう出来ているからなんだろうと思う。

勿論、一人になって考えるとか休むとかいうのはある。

それは独りぼっちとは言わない。

また、いつも一人がいいという人は一人がいいというより、

傷つきたくないからという場合が多いと思う。

人と居ることで傷ついた記憶が多くて。

それが嫌で一人で居たいという欲求が生まれるんだと思う。


同感は行動を同感することで、

共感は悲しみ寂しさ喜びという気持ちを共に感じること。そう思う。

全人類共通の感覚が喜び・悲しみ・寂しさなんじゃないか・・・

喜怒哀楽というけど、「怒」は考えによるもので、

全人類共通の感覚じゃない。

ただ、「怒」の奥には必ず悲しみや寂しさを見つけられる。

大切に“思っている”もの・ひと・ことを失った悲しみ、

美味しく“感じた”時の楽しさ、この世で一人っきりだと“思った”ときの寂しさ、

人として扱われない悲しさ、辛さ、

・・・こういうのは人類共通の感情なのかと思う。

だからこそ共感してもらえるのは誰にとっても嬉しく、

また、癒されるものなんだと思う。


共感が何故・・?

2012-08-25 13:04:00 | ひとの幸福
「共感」という言葉はよく聞く。

共感してもらう、わかってもらえる、そういうことを嬉しく感じる私たちだ。

何かのことを誰一人として共感してもらえなかったらかなり辛いんじゃないかと思う。

「・・が痛い」に対して無視、「あーしたい」に無視、

「・・・で悲しい」「・・だから寂しい」に無視・・

・・そんなんだったら、ホントに生きるのが嫌になってしまう。

でも、共感してもらっても、

嬉しさというより当惑を感じるという現象もこの世にある。

「あいつぶっ殺してぇ!」なんて言ったとして、

「そうだそうだ!やっちまえ!いつやるんだ?えっ?」なんて対応を受けたとしたら、

わかってもらえた嬉しさだけだろうか?

当惑してしまう場合もあるんじゃないかな。

ぶっ殺してぇ、と思っただけで、殺すという意志など無い場合だってあるから。

「共感」って“気持ち、感”をわかってもらえることで、

“行動”をわかってもらう事は「同感」というんじゃないかと思うんだけど、

共感の意味を調べると同感とも書いてあり、

英語のシンパシィ(sympathy)の訳語とある。英語の意味は共鳴ともある。

元々の日本語には共感という言葉はないんだろうね。

日本語ではもっと別の表現があるのかな。

ま、それはどうでもいいんだけど。



義父の歯科行き

2012-08-24 14:05:32 | 日々の暮らし・思い出
昨日義父が歯医者に行きたいと言ったので、

さっき一緒に車で行って来た。

義父は総入れ歯なんだけど、造ってから何十年も経っているので、

歯茎も痩せてきて、ぴったりしないのだけど、

ドクターが言うには、この年では新しく造るよりは、

今の入れ歯が身体としっくり行っている面もあるので、

クッション剤を貼り付けて定期的にそれを交換する方がいいのじゃないか、

ということでそうしている。

だいたい3ヶ月はそれでいけるんだけど、痛くなったらすぐに来て下さいと、

言ってもらっている。

今回は付け替えてまだひと月経っていないけど、痛みが出てきたよう。

クッションの具合が良くないのだろうと思った。

治療が終えて、昼ごはんのとき、義父は野菜の和え物を食べて、

噛めるようになって嬉しいというようなことを言った。

それを聞いて、はっと思った。

最近少し食欲が落ちているな、暑いからかな~と思っていたけど、

食欲のせいじゃなく、歯が痛くて食べられなかったのか!!?

それで野菜の和え物なんかを食べられなかったんだぁ~と思った。

いつ頃から痛かったのか聞いたら、

なんと2週間以上になるらしい。

その理由で食べられなかったんですか?と聞いたとしても、

今までの義父を観ると、yesであってもなくてもnoと言うことはあるみたいだし、

「はぁ~」と言ってもそれがyesの意味ではなかったりすることもあるので、

彼の意思はわからないことが多い。

どこまでこちらが察せられるかにかかっている。

赤ちゃんに対する母親みたいに、どう感じているのか、何をしたいのか、

身体の様子や顔つきを観察することを求められている感じはする。)


そんなに我慢しないですぐ歯科に行けば、いつだってすぐに良くなっているんだからと、

つい「早く言ったらよかったのに~」と言ってしまったら、

「はぁ~」とか言って微笑んでいる。

その時は、はぁ~じゃないでしょ・・みたいな呆れる気持ちになった。

「痛くなったらすぐに言ってくださいね」と言ってもいたし、

言いにくいような雰囲気は作っていなかったつもりなんだけど・・・

2週間といえば・・そうだ!今回はお盆で来客が多かったし、

それで言い出しにくかったんだ!

(そんなことが無い時でもだいたいいつも痛くなって暫くしてから言うということはあるけど)

義父は痛みをずっと我慢して来たようだ。

勿論痛いも聞かなかったし、痛そうな顔も見なかったけど、

私の観察不足と解釈違いだった・・・食欲無いのを暑さのせいだと独り決めしていた。


実際の所はよくわからないことではあるけど、

義父は痛みを取り去りたいという気持ちの重さより、

来客で忙しくしてる私を見て、痛いけど我慢しようという気持ちの方が

重かったんじゃないかと思う。

それなのに早く言えばよかったのに、なんて、呆れてた私だった。

おとうさん、ごめんね。ありがとう。

プロセスを納得・・

2012-08-24 12:27:21 | ひとの幸福
プロセスを納得すると、答えに導かれるのは当然‥というようなことを昨日書いた。

プロセスを納得って「なるほど」という言葉で表わせる意識状態と思う。

昨日私が「プロセスの力?」とネーミングした文章だけど、

あれも少年の話しの発端を思いついて、物語を作ってずーっと追って行った。

あの物語の途中でこの時点でこういうふうにも考えられるはず、と思った人もなかにはあるかもしれない。

自分でもそんなふうに思うところはあったけど、省略した。

あんな物語を作らなくてもいろいろなことをわかる賢い人は世の中にたくさん居ると思うけど、

私は順を追って考えないといろいろなことがわからない。

でも、いま書いてて思ったけど、順を追って考えるということ自体が、

プロセスを明らかにすることなので、

だからこそ「あー、そういうことなのか」という点に着くのかと思った。

物事を分解して(空間的に)順を追って(時間的に)・・

というのはプロセス・過程を明らかにすることだ。

どんなこともわかる(理解・会得・了解・納得)という意識状態は、

意識が、なるほど=成る程 となることで、

成る程 とは なる+ほど(過程の程)。

日本語というのは凄い!

なるほど!とわかるのはそうなったプロセスに了解!となること。







プロセスを知る力 ☆

2012-08-23 19:33:35 | ひとの幸福
「わかる」ということは本当に何度考えても面白い。

小学1年の子供は小学5年のお兄ちゃんの算数の答案を見て、

それに書かれている答えを見ても、

それがどういうことなのかわからないのは勿論、

正解なのか、不正解なのかわからない。

けど、それが先生から戻って、○だのペケだのと赤いペンで採点してあるのを見ると、

○は正解でペケは不正解を示しているとはわかるけど、

その答えが何故正解なのかはわからない。

ある少年が世界的な数学者しか解けないような問題を解いた時に、

それを見る家族や学校の先生がその数学者程度の頭脳でなければ、

それが正解なのか不正解なのか、そもそも何が書かれてあるのかもわからない。

じゃあといって、その学校の先生は地域の一番賢い数学者に見て貰いに行った、とする。

その先生にもその問題は解けなかった。

解けないということは少年の解いたその答えが、

正解か不正解かはわからないということだ。で、考えた。

その数学者が解ける程度の難しい問題をその少年に出してみたら、

少年はそれを解いた。

数学者である自分にはわからない問題を解いたという彼を、

もしかしたら天才かもと思って、世界的な数学者に見てもらったら、

それが正解とわかった。

少年とその世界的数学者二人がそれを解くことが出来た。

けど、少年が解いた問題を、その少年以外世界で一番といわれる数学者も、

解けなかったら、どういうことになるんだろう?

それが正解だとわかるのは少年一人ということになるのか??

もしかして正解ではないという可能性もあるかもしれない・・・?

一人しかわからない正解・真理っていうのが世の中に存在するんだろうか。

でも待てよ・・解けなくても、その答えが出るまでの式というプロセスを見ると、

それが解けなかった数学者でもその式のプロセスには

「なるほど」となって、当然その答えに導かれることになるんじゃないだろうか。

小学1年生や私には無理だろうけど。

ある程度までの頭脳があれば、プロセスを納得できると答えに到達できるはず。

高校の物理も数学も赤点すれすれだった私にはとても理解不能だけど、

アインシュタインのE=mc2という式も、

その答えに行く着くまでのプロセスである途中の式をわかる人がいたから、

この式・理論は素晴らしいということになったんだろうか?

プロセスを踏んでいくという具体的道を示されると、

人は納得する力を持っているということか・・・?