北京五輪が開幕してから始まった朝日新聞3面の「看看北京」が面白い?。
どうしたらこんなに捻じ曲がった国家観やスポーツ観になるのか。論理と感情、スポーツと政治がごちゃ混ぜになった怪作である。
11日に登場した前論説主幹、現コラムニストの若宮啓文は『「革命」はどこへ消えたのか』のタイトルで次のように書く。
《そういえば、この国には「四大発明」があったんだな、と思い出させてくれる五輪の開会式だった。
(中略)それにしても、と感じたことがある。過去から現代へ。では、間をつなぐ革命中国はどこへ行ったのか。国じゅうの歴史博物館で描かれる「毛沢東の革命」が、その片鱗すらのぞかせないとは。
若宮氏は「革命中国」を高らかに歌い上げるのを期待していたのだろう。残念でした。でも、少し考えれば、そんな演出はあり得ないことぐらいすぐ気づくはずだ。それこそ、五輪の政治利用であり、共産中国のプロパガンダだからだ。
「革命、毛沢東の中国から小平の中国への歩み」、その叙事詩が謳いあげられるの若宮氏はを待っていた。そして、その演出にこうケチを付けるつもりだった。《鳥の巣で演じられた革命中国は、一歩街に踏み出せばいくらでも見聞できる。チベットでは抑圧が続き、報道統制は相変わらずだ》
開会式の演出に政治体制が出てこないといぶかったり、出てきたら出てきたで文句をつけようと身構える若宮氏は、尋常な感覚の持ち主ではない。このように書かねばならないと思い込んでいるとしたら、悲しむべきことだ。
さらに傑作なのが、翌12日に掲載された西村欣也編集委員の「ダルビッシュと日の丸」だ。
《13日から野球の競技が始まる。12年のロンドン五輪では種目から除外されることが決まっており、「最後の五輪」と出場国は力が入る。日本を含めて国家主義的なにおいが立ちこめるなか、一人のアスリートの言葉にすくわれる思いがした。ダルビッシュ有投手だ》
思い切り思い入れだけで書いている。「最後の五輪」と力が入っているのはどこの国か、またその国の誰か。日本の朝日新聞、とりわけ、西村氏がそう思っているということではないのか。「ジョン損」監督率いるアメリカは相変わらずマイナーしか送り込んでいない。韓国は「打倒日本」が目標だ。この記事は前提そのものが間違っている。
さらに西村氏は五輪憲章の「(五輪は)選手間の競争であり、国家間の競争ではない」を引用しつつ、《現実は国家間のメダル獲得競争の場になろうとしている。(中略)選手が国家の重みにつぶされて力を出し切れないシーンだけは見たくない》と書く。
2008年の朝日新聞の記事でこのようなご高説を拝読できるとは思わなかった。西村氏はスポーツ記者一筋と記憶している。現場感覚がなくなった記者が頭で記事をひねり出している様が伝わってくる。
「国家の重みにつぶされる選手」とはどんな選手か。要するに精神的にも実力的にも弱い選手ということだろう。選手が背負うものはそれぞれだ。その重みがばねになり、エネルギーに転化する。これまでの取材でそれぐらいのことはとうに承知しているはずではないか。
《自戒もこめて、メダルの数だけを数える五輪にしたくない》。ぜひ、後輩たちを指導してそんな紙面を作らないようにしてほしい。
それにしても、西村氏はナショナリズムとスポーツの関係をどう考えているのか。スポーツの現場で発露される「国家主義」は「郷土愛」や「母校愛」とつながっている。国家至上主義の「国家主義」とは意味合いが違うはずだ。甲子園賛歌を謳いあげる西村氏が、そのことに気づいていないとは信じられない。
スポーツ記事までが「社風」に染まってしまうとすれば、それこそ悲しむべきことだ。無残なコラムをいつまで掲載するつもりですか。
どうしたらこんなに捻じ曲がった国家観やスポーツ観になるのか。論理と感情、スポーツと政治がごちゃ混ぜになった怪作である。
11日に登場した前論説主幹、現コラムニストの若宮啓文は『「革命」はどこへ消えたのか』のタイトルで次のように書く。
《そういえば、この国には「四大発明」があったんだな、と思い出させてくれる五輪の開会式だった。
(中略)それにしても、と感じたことがある。過去から現代へ。では、間をつなぐ革命中国はどこへ行ったのか。国じゅうの歴史博物館で描かれる「毛沢東の革命」が、その片鱗すらのぞかせないとは。
若宮氏は「革命中国」を高らかに歌い上げるのを期待していたのだろう。残念でした。でも、少し考えれば、そんな演出はあり得ないことぐらいすぐ気づくはずだ。それこそ、五輪の政治利用であり、共産中国のプロパガンダだからだ。
「革命、毛沢東の中国から小平の中国への歩み」、その叙事詩が謳いあげられるの若宮氏はを待っていた。そして、その演出にこうケチを付けるつもりだった。《鳥の巣で演じられた革命中国は、一歩街に踏み出せばいくらでも見聞できる。チベットでは抑圧が続き、報道統制は相変わらずだ》
開会式の演出に政治体制が出てこないといぶかったり、出てきたら出てきたで文句をつけようと身構える若宮氏は、尋常な感覚の持ち主ではない。このように書かねばならないと思い込んでいるとしたら、悲しむべきことだ。
さらに傑作なのが、翌12日に掲載された西村欣也編集委員の「ダルビッシュと日の丸」だ。
《13日から野球の競技が始まる。12年のロンドン五輪では種目から除外されることが決まっており、「最後の五輪」と出場国は力が入る。日本を含めて国家主義的なにおいが立ちこめるなか、一人のアスリートの言葉にすくわれる思いがした。ダルビッシュ有投手だ》
思い切り思い入れだけで書いている。「最後の五輪」と力が入っているのはどこの国か、またその国の誰か。日本の朝日新聞、とりわけ、西村氏がそう思っているということではないのか。「ジョン損」監督率いるアメリカは相変わらずマイナーしか送り込んでいない。韓国は「打倒日本」が目標だ。この記事は前提そのものが間違っている。
さらに西村氏は五輪憲章の「(五輪は)選手間の競争であり、国家間の競争ではない」を引用しつつ、《現実は国家間のメダル獲得競争の場になろうとしている。(中略)選手が国家の重みにつぶされて力を出し切れないシーンだけは見たくない》と書く。
2008年の朝日新聞の記事でこのようなご高説を拝読できるとは思わなかった。西村氏はスポーツ記者一筋と記憶している。現場感覚がなくなった記者が頭で記事をひねり出している様が伝わってくる。
「国家の重みにつぶされる選手」とはどんな選手か。要するに精神的にも実力的にも弱い選手ということだろう。選手が背負うものはそれぞれだ。その重みがばねになり、エネルギーに転化する。これまでの取材でそれぐらいのことはとうに承知しているはずではないか。
《自戒もこめて、メダルの数だけを数える五輪にしたくない》。ぜひ、後輩たちを指導してそんな紙面を作らないようにしてほしい。
それにしても、西村氏はナショナリズムとスポーツの関係をどう考えているのか。スポーツの現場で発露される「国家主義」は「郷土愛」や「母校愛」とつながっている。国家至上主義の「国家主義」とは意味合いが違うはずだ。甲子園賛歌を謳いあげる西村氏が、そのことに気づいていないとは信じられない。
スポーツ記事までが「社風」に染まってしまうとすれば、それこそ悲しむべきことだ。無残なコラムをいつまで掲載するつもりですか。