夕月や梅ちりかゝる琴の上・・・正岡子規
1607(慶長12)年の2月20日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露した。
出雲の阿国は、出雲大社の巫女となり、出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。
1600年に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の1603年に「かぶき踊」を始めたと考えられている。
当代記によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。
1603年5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
この事と記述の内容から考えて、あまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したと考えられている。
内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊りや念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。
このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが、この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。
出雲の阿国は400年以上前に活躍していたんですね。
歌舞伎は見たことがありませんが、昔、筝曲をやっていた時、出雲の阿国を題材にしていた曲を弾いたことがありました。
懐かしい