令和とふ天皇祝ふ春北風
天皇の誕生日を祝う
国民の祝日。
1960(昭和35)年2月23日、皇太子浩宮徳仁親王(今上天皇)が誕生した。
陛下ももう61歳です。
日本の天皇家も地球の環境の変化のせいもあり、多難な時代に入りましたが、何かを変えないといけないように思います。
日本の愛し子の愛子さまがその大役を任されるのでしょうか?
女性天皇は日本が変わるきっかけにもなるのでしょうか?
天皇は国の象徴であることを一番に考えて欲しいですね。
令和とふ天皇祝ふ春北風
天皇の誕生日を祝う
国民の祝日。
1960(昭和35)年2月23日、皇太子浩宮徳仁親王(今上天皇)が誕生した。
陛下ももう61歳です。
日本の天皇家も地球の環境の変化のせいもあり、多難な時代に入りましたが、何かを変えないといけないように思います。
日本の愛し子の愛子さまがその大役を任されるのでしょうか?
女性天皇は日本が変わるきっかけにもなるのでしょうか?
天皇は国の象徴であることを一番に考えて欲しいですね。
外に出ぬペットのモコはひとり猫浮かれもせずにただ眠りをり
英文学者の柳瀬尚紀氏らによる「猫の日制定委員会」が1987(昭和62)年に制定。
ペットフード工業会が主催。
「ニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)」の語呂合せ。全国の愛猫家からの公募でこの日に決まった。
我が家の「もこにゃん」
吹き抜けに上がってます。最近はこんなやんちゃな事はしなくなりましたね。
東西(ひがしにし)南北(みなみきた)より吹雪かな ・・・愚陀仏
(前後左右さえもわからなくなるほどの吹雪の激しさを、ストレートな驚嘆を交えユーモアたっぷりに詠っています。)
1911(明治44)年2月21日、文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない」として辞退した。
菫ほどな小さき人に生まれたし・・・愚陀仏(漱石の俳号)
この句は漱石が最も鬱々とした時分に詠まれたものでした。
国から経済支援を受ける官費生としてイギリスに留学するも、経済的困窮と孤独によって精神的に衰弱し自室に引きこもる日々を過ごします。
半ばノイローゼの状態で帰国した漱石は、日本人初の英文科講師として教鞭をとります。
しかし実父の他界や妻とのすれ違い、流産など悲惨な出来事に見舞われます。
こうした背景を踏まえると、この句に詠まれた「菫ほどな小さき人」とは、面倒な人の世を離れ、菫のようにひっそりと生きる人を表現していると詠みとれます。
漱石の親友は正岡子規で、子規の指導のもと俳句を自分のものにしていき、小説同様、洒落をきかせた句風が特徴的でした。
そうだったのですね~。
ますます漱石さんが好きになりました。
夕月や梅ちりかゝる琴の上・・・正岡子規
1607(慶長12)年の2月20日、出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露した。
出雲の阿国は、出雲大社の巫女となり、出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったとされている。
1600年に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の1603年に「かぶき踊」を始めたと考えられている。
当代記によれば京で人気を得て伏見城に参上して度々踊ることがあったという。
1603年5月6日に女院御所で踊ったという記録があり、文献によって踊ったものの名称が「ヤヤコ跳」「ややこおとり」「かふきおとり」と異なっている。
この事と記述の内容から考えて、あまり遡らない時期にかぶき踊というあらたな名称が定着したと考えられている。
内容面でもかわいらしい少女の小歌踊と考えるややこ踊から、傾き者(かぶきもの)が茶屋の女と戯れる場面を含むようなものに質的に変化したと考えられている。
お国のかぶき踊りは、名古屋山三郎役の男装したお国と、茶屋の娘役として女装したお国の夫・三十朗が濃密に戯れるものであった。
一座の他の踊り手も全て異性装を特徴としており、観客はその倒錯感に高揚し、最後には風流踊りや念仏踊りと同様に出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円となった。
このように、お国がかぶき踊りを創始するに際して念仏踊りを取り入れたとする記述が一般向けの解説書や高校生向けの資料集により一般的であるが、この従来説に対して、ややこ踊の一座やお国が念仏踊りを踊った可能性は低いと主張する者もいる。
出雲の阿国は400年以上前に活躍していたんですね。
歌舞伎は見たことがありませんが、昔、筝曲をやっていた時、出雲の阿国を題材にしていた曲を弾いたことがありました。
懐かしい
大鉄球打ちつけ壊す時のあり見る者すべてに後遺症残し
1972年(昭和47年)2月19日、連合赤軍のメンバー5人が、管理人の妻(当時31歳)を人質にあさま山荘にに立てこもった。
山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警機動隊が人質救出作戦を行うが難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。
10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。
人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。
2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分には民放、NHKを合わせて視聴率89.7%に達した。
同日のNHKの報道特別番組は、平均50.8%の視聴率を記録した。
これは事件から49年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
私も夫の兄弟たちとテレビにかじりついて見ていました。衝撃的な事件でした。
こういう衝撃的な事件は誰にも負の気持ちだけ与えていて、嫌なものですね。