先日のブログで、教祖や教祖の周囲の先生方が、多大な弾圧を受けた事は書いた。
それにより、親神様の求められるおつとめ(人間の心を澄ましたい、心のほこりを払いたいとの思いから教えられたおつとめ)をつとめられなくなっていた。
親神様は、「つとめないなら、つとめないでいいよ」と人間任せにされたのではない。
何とか、つとめる心を出してほしい。と、人々が一番大切に思う教祖に身上を見せて、もう明日にも息が止まるか、という状態にさせて、神と人との問答が始まるのである。
これが、『稿本天理教教祖伝』の第10章「扉ひらいて」に書かれてある。
私たちは、困難に直面して、初めて考え出す。
今、日本で、新型コロナの第3波が起こり、病床が足りないと大騒ぎになっている。
第1波の時に、寒くなれば絶対にまた広がる。と多くの人が言っていたのに、それに対する対応をしていなかった。と多くの人がテレビなどで言っている。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。とよく言うが、正しくそれだと思う。
この事は、親神様の不思議を見せてもらった事についても言える。
「人間というものは、その時だけは覚えている。30日たち、60日たてば、コロッと忘れてしまう」と神様から言われているのである。
これが、その時だけの神頼み。という事だろうと思う。
これを防ぐのには、記録をしておくことが大切で、そしてその時々に読み返して、当時を思い出すことが必要だと思う。
こうした事が出来るのは、「文字」を仕込んで頂いたからである。
そして、これを繰り返すことで、神様の不思議なお導きを体系的に感じる事が出来ると思う。
そしてさらに、記録された事は、後世の人も読むことが出来、困った時の道しるべともなる。
昨日は、大教会で130周年の準備を進めた、今日は、講社祭である。
親神様、教祖どうぞ、大難は小難にとお守りください。