只今7月9日、朝、詰所で朝食を頂いて、教庁が始まるまで時間があるので書いている。
昨日、神殿奉仕であったのだが、やはりおぢばはありがたい。
色々と学ばせて頂く事があった。
すこし紹介したい。
結界内に座らせて頂くと、参拝者のようすが良く分かる。
昨日は、平日なので、参拝者がことのほか少なく感じた。
朝5時がおつとめである。
6時頃はほとんど参拝者がなかった。それが、7時を過ぎて8時ごろになると、ボツボツと参拝者が増えてくる。高校生は良く分かるのだが、出勤前の方のように思える。
9時過ぎになると、教養掛のハッピを来た人が増える。修養科生を送り届けた教養掛の先生たちが参拝に来られるのだ。
その後は、静かな参拝場になり、その中真剣におつとめをされる方が、ちらほら見受けられる程度になる。
そして、お昼になると、昼の休憩時間だからだろうか、また参拝者が増える。
最近思うのは、一人での参拝者以外に、男女のカップルでの参拝者も結構見受けられることである。
お昼を少し過ぎると、修養科生の参拝者が増えてくる。詰所へ帰る途中での参拝か、ひのきしんの合間の参拝だろうか。
そして2時ごろから夕方まで、また一般の参拝者がちらほらと見受けられ、5時ごろまた少し参拝者が増えてくる。仕事帰りの方々だろうか。
コロナ前ならば、朝8時ごろと夕方の4時頃に、学校のおつとめがあったが、それは今ない。
そして夕づとめとなる。今は7時半で、一番遅い時間ある。
この朝づとめから夕づとめまで、だいたい7回ほど結界内に座る。
それ以外の間は、本を読んだり、調べ物をしたり、休憩したりして過ごす。
とてもゆったりとした時間が流れる。
今回、結界内に座りながら、「いわんいえんの理を聞き分けよ」という言葉が思い浮かんだ。
人間は様々なしがらみの中に生きている。その中で調和を取って進めようとすると、この言葉がとても大切だと思う。
人はそれぞれに心が違う、考え方も違う。それを知った上に、調和を考えて物事をすすめる。これはとても高度で重要な事だと思う。
ところが、これがなかなか分からないのである。
言われた事だけが、本当の事、本心だと思うとそうではないのである。
ある先生がこんな話をして下さった。
京都では、人に頼みごとを言われて「そんな至らぬ私が。。。」と答えることがあるが、これはOKという事なのだ。という話しである。
ある奥さんが、人に講師を依頼された。その時に「こんな至らぬ私が。。」と返事をされた。その奥さんは、違う地方から嫁に来られた方で「こんな至らぬ私が。。。」を断りの返事だと受け取り、違う方を探されていたところ、ある方から、「それは違います。講師のための勉強をされてますよ。」と聞き、初めて言葉の使い方の違いを知ったとの事である。
これはその習慣や性格を知らなければ、人の真意は分からないという例であり、誤認してしまう例だと思った。
ちゃんと意思を確認すること。「はい。いいえ。またはどのどちらでもない」と。
「いわんいえんの理」という言葉はとても奥が深いが、人間の生活をするためには、人間の都合の良いように使われてしまう言葉のようにも思った。
日本人の結論をはっきり言わない習慣。
多くの人がするならば、自分の考えなしにそれに従うという習慣。
これをしっかりと考えなければならないような気がした。
自分自身を振り返って、これが出来ていなかったとすごく思っている。
「私はこう思う。その理由は。。。」と話したり、「その言葉の意味は?」は「そう思う理由は?」と尋ね返すこと。
ただ、その理由は?と問われた時に、理由が言えない場合がある。それは考えがまとまっていないのである。
そうした時にどうするか。これもとても重要だと思う。
まだまだ勉強が足りない事を感じた神殿奉仕だった。
これから、部屋を片付けて、出かける準備をする。
今日も一日頑張りましょう。
親神様、教祖、どうぞよろしくお願いいたします。