今日は朝づとめ前に、お墓地の掃除に行きました。
朝づとめは子供たちに頼んで。。。
熱田分教会としてのお墓地と長谷川家のお墓地がある。
熱田分教会の信者の墓は、私が会長になり数年後に、「子供がいない家があるので、その墓じまいをしたい」と信者さんから言われたのがきっかけで作らせて頂いた。
墓じまいをした信者さんのお墓の土を少し入れて、墓誌に名前を刻んであるのだけなので、お骨は入っていない。また、その後に墓じまいをした家があり、同じようにして、墓誌を置いてある。
長谷川家の墓は、私の父親が入っている。
私の父親は次男で、大教会で住み込みをしていた。長男は別にいて、その家が長谷川家歴代の墓を継いでいるだから、大教会の墓苑に新しく「長谷川家」として建てたのだった。
熱田分教会の墓より長谷川家の墓の方が早く作った。
お墓地の掃除に行くと、とてもきれいにしている墓もあるが、草ぼうぼうで全く参りに来ていない墓もあり、墓石が傾いている墓もある。
その傾いているお墓を見ていて、墓地を作る時の石材店の言葉を思い出した。
「お墓を作る時には土台が大切です。」との言葉である。八事霊園は山の斜面にお墓は作られている。
だから、場所によっては結構土台の石を積み上げなければならないところもある。
そこで、石材店の言われるように、既設のブロックを取り払って、土台から石を積んで作ってもらった。
上物の墓石は本当に小さなものである。
けれども、建ててから25年以上たったが、全く傾いていない。
「熱田分教会の墓」も同じようにしてもらった。
こちらも全く傾いていない。
見えないところをしっかりとつとめる事。これの大切さを改めて思った。
そして、この見えない所とは、心だと私は思う。
この心、その心の持ち方、動かし方。これがとても大切で、それによって、その先が変わってくる。
昨日アップした逸話編、『自分一人で』
自分一人で。。。逸話編 116 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
は、正しく心のあり方を教えられたものだと思う。
「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで。」
とのお言葉は、ただ話を聞きに行くだけの事ではない。
人が言うから、人が、人が、、、と人を当てにしていてはならないと思う。
人の中に神様を見て、神様が言うとするならば、自分で決めた事である。
または、ご恩があるからと「人は行かずとも、私は行く」という心も自分自身の心である。
ここでは、「真実に聞かしてもらう気なら」と言われ、また「自分一人で、本心から」と言われているのである。
そして、「真実の心」「自分一人で、本心から」の結果は、親神様から大きなものを頂戴できるのである。
ところが、
人は皆、親神様からの与えばかりを望む。与えをもらうためには、「真実の心」が必要なのだが、それを知らずに、欲しい欲しいという心ばかりが先に立ち、もらい損ねるのではないだろうか。
もし、すでに与えがあったとしても、考え違いをして「真実の心」を出せずに、その与えを失うのではないかと思う。
これは、逸話編『身上がもとや』
身上がもとや。。。逸話編 178 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。]
から、本当にそう思う。
身上が元であり、その元は心である。この心が金銭に囚われてはならない。
金銭はあくまでも、人と人または、人と物をつなぐためのもの、つなぐための道具である。
ここを勘違いするから、おかしくなってくる。
「真実の心」があるから、人と人は信用出来てつながるのである。
この真実の心が無いと分かれば、人は離れる。
信用できないから離れる。
これは当然のことである。当然の事、つまりは理である。
「真実の心」がないのに、あるように見せようとするから「ウソ」をつく事になる。
ウソによって人々の同情を得ようとするのも同じ事だと思う。
「真実の心」を培いたいと思う。
今日も一日頑張ります。