みかぐら歌作成について(第1節~第3節)
;資料比較
目次
1;調べるきっかけ
2;各うたの成り立ち
2.1;「あしきはらひたすけたまひ天理王命」
2.2;「ちよとはなし … なむてんりわうのみこと」
2.3;「あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい」
2.4;第1節・第3節の変更
3;おうた作成の年表
補足;朝夕のおつとめと本づとめ
1;調べるきっかけ
「続ひとことはなし その2」p81に
…要するに、明治十四年の私刊本以前の写本にあっては、第五節のみを内容としていたもののようである。
明治十四年刊行の天恵組版に至って、はじめて、第四節が第五節の頭首に加わり、末尾に第二節と、第一節及び第三節を合せて一つとした二節が一枚(第廿六枚)加わり、他に木火土金水風の附表一枚を加えて、全二十七枚の木版本として発行されている。
(この本の中には、この第二十六枚を巻頭にして、廿六、一、二、三、……廿五、廿七の順序で綴られているものもあるが、この姿は後日の改綴と思う。)
この第一節と第三節を一つにされたのは、
あしきはらいたすけたまい
いちれつすますかんろふだい
のおうたであって、これが第一節及第三節の古い形であったのが、明治十五年の所謂“模様替”の史実の結果、上の句、下の句にそれぞれ下の句上の句が加わり、語尾も多少変更されて、
あしきをはらうてたすけたまへ
てんりわうのみこと 第一節
あしきをはらうてたすけせきこむ
いちれつすましてかんろだい 第三節
の二節になったものと考えられる。…
と、記載され、第一節、第三節の成り立ちについて、調べることにした。
2;各うたの成り立ち トップへ
「おかぐらのうた」上田嘉成著・「みかぐらうた語り艸」桝井孝四郎著より関連する事項を書き出す。
2.1;「あしきはらひたすけたまひ天理王命」 トップへ
「おかぐらのうた」p21より
あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと
このお歌の最初の文句は、小泉不動院の山伏が白刃を抜いて暴れ込んできて、提灯を切り落とし、太鼓を切り裂いて帰った後、教祖のお口から「あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみこと」とお教え下され、同時にお手もお教え下されて、それまでのただ、
なむてんりわうのみこと
と、繰り返し繰り返し唱えて拍子木を叩いていたつとめが、このお願いの言葉を唱えて朝夕礼拝することとなったのであります(注・この「あしきはらひ」のお歌は、明治十五年のかんろだい取り払いに伴う模様替えによって、第三節とともに「あしひをはらうて」と変更されますが、それについては第三節のところで詳説します)。
ここのところを、初代真柱様の『教祖様御伝』について窺いますと、
○慶応二年秋の頃、小泉不動院入り来り、教祖ニ難問せしも、御明答ありし故、理ニツマリ太鼓二個ヲ切り破り、提灯を切り落とし、乱暴を極めて帰へれり、夫れより豆越村へ行き山中忠七氏ニて暴行し御幣ニて忠七氏の頭を叩けり、而して古市役所へ訴へ出でたり。(中略)
○此乱暴ある迄ハ只南無天理王命と連呼せり、然るニ此時より神様を拝するニ始めて、「あしきはらひたすけたまひ天理王命」と手を御つけ遊ばされたり。
と、右のようにお記し下されています。
同じくこのくだりを記した辻忠作先生の「ひながた」にも、その頃は世の中が次第に騒がしくなって鳥羽伏見の戦いがあった頃だということを書いておられますから、この「あしき」には相当荒々しい騒がしい狂暴なものという意も含まれているようにも思われます。……
「おかぐらのうた」p26より
てんりわうのみこと 現在のおつとめの中で、一番古いのが、この「あしきはらひ」のおつとめで、その中で最も古くからある部分はといえば、この神名であります。
即ち、ただ今の陽気づとめの全体、かぐらづとめもてをどりも一切を含めて、その元はと申しますと、
「なむ天理王命」
と神名を呼び出して、繰り返し繰り返しお祈りしたということに帰着するのです。また、この神名をお唱えする事から始まって、だんだんとみかぐらうたも出来、数々の手もお付け頂いたと言うこともできます。従って「天理王命」と神名をお唱えすることは、すべてのおつとめの源泉であり、核心であります。……
「みかぐらうた語り艸」p28
さて、このお勤めの最初は、どういう具合であったか。文久三年ごろから、いわゆる道の子供が、ぼつぼつおやしきに引き寄せていただかれたのである。この当時には、もちろんまだお勤めというものも定まっていなかったのである。ただ親神様の前で線香を立てて、口では「南無天理王命々々々々々々」と唱えながら、拍子木を叩いてお願いをするというのが、いわゆるお勤めであった。だから、その唱える数も定まってはいない。立ててある線香の消えるまで続けるというのであった。こういう具合であったので、ある先生のごときは、線香を短く切って立ててお勤めをしておられた。すると教祖の目に止まって、それでは勤め短い、と注意された方もあったという話である。
用事が忙しないから、早く帰らねばならんから、というように、わが身勝手な勤めをしているようなことでは、受け取ってはもらえない。心からの勤めでなければならん。心の勤め・身の勤めである。親神様は役を受け取られるのではない、つくす心を受け取ってくださるのであります。
ところが慶応二年の六月、小泉村の不動院の僧がおやしきに乱暴に来たことがありました。その時のことを、あとになって、こうおさしづに仰せになっています。
「元々はなあ、何処の坊主やら分からん者が、門口さして暴れくさって/\、どうしょうや知らんと思た事もあったなあ。そら六月頃やあったなあ。その時の事を思えば、夢見たような事に成ったなあ、偉い事になったなあ。」(明治31.12.31刻限)
「六月頃の話、坊主来よったのがあら古い事、畳へ刀を抜きやがって、ぐさと差しよった事もあって、どうしょうやなあ、こうしょうやなあ、その時の事第一思う。」(明治31.12.31刻限)
こうした乱暴ごとがあったので、
「あしきはらいたすけたまへ天理王命」
とのお歌及びお手をおつけくだされたのであるが、もちろん、これとても神のなされていることであった。すなわち慶応二年に、このお歌及びお手をおつけくだされたのであります。
そして、この時に今一つの理由をいわれています。「南無天理王命」の、天理王命は神であるが、南無は仏である。これは神仏混合であるからと、やかましくいうので、こうなされたとの話もあります。そうしたお勤めをお始めくだされる一つの機縁になったというだけで、これはまた親神様の思わくの上からなされていることであります。と申しますのは「なむ」の「な」というのはくにとこたちのみこと、「む」というのはをもたりのみことと聞かせていただいておりまして「なむ」とは決して小さく仏法と限ったものではないのであります。教祖のお教えくだされるこの天理の道は、もっと大きいのであります。…
2.2;「ちよとはなし かみのいふこときいてくれあしきのことはいはんでな このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと」 トップへ
「おかぐらのうた」p31より
このおつとめのお歌と手は、明治三年にお教え下されました。ここのところは梅谷四郎兵衞先生の手記に、次のように記されています。
「明治三年、一寸はなしとよろづよの御神楽歌を教へ給ふ」
また、諸井政一氏の『道すがら』の中には、この辺の史実についておおよそ次のように記されています。
「ちよとはなし、よろづよ始め、明治三年、よろづよ、十二下りのだし。一寸はなし、かんろだいのつとめのだし」
また、山中彦七先生のお話によったものに、次のような史料もあります。
「明治三年、御年七十三才の御時一寸はなしよろづよの御神楽をお教えになりました」(『天理教教祖実伝の御噺し』)……
「みかぐらうた語り艸」p31
このお歌は明治三年にお作りくだされたものであります。
「かみのいふこときいてくれ」……(以下は歌の解釈)
2.3;「あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい」 トップへ
「おかぐらのうた」p31より
「あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」
このおつとめは、初め「いちれつすます」という文句で、明治八年、かんろだいのぢば定め直後にお教え下された後、明治十五年五月の、二段まで出来ていたかんろだいの石の取り払いという迫害干渉があって、神意により「いちれつすまして」とお変えになったのでありますが、このおつとめについての神意は明治二年頃から現われ始めているのであります。……
「おかぐらのうた」p60より
このおふでさきのご指示のままに、明治八年五月二十六日、かんろだいの「ぢば」をお定め下さいました。この時、教祖はこの前日の二十五日に「明日は命日やから綺麗に掃除をしておくように」とお命じになって屋敷の掃除をおさせになり、いよいよこの日、こかん様をはじめとし、高弟の方々数名と共にお屋敷の庭に下り立たれました。その時、お傍に居た人々は、こかん様をはじめ、仲田儀三郎、櫟枝村與助、松尾市兵衛、辻ます、同留菊等の面々です。
まず、教祖が身も心も軽やかにお歩きなされますと、ピタリとある一点に足が吸い付いたように止まりました。その地点はお屋敷の門を入ってから、四、五間北へ行ったところのちょっと西、元治元年にお建てになったつとめ場所の南にあたる所です。そこで、教祖は、お傍の者に命じて、そこへ印を付けさせなさいました。それからこかん様をはじめ次々と目隠しをしてお歩かせになりましたが、いずれもその地点にまいりますと、ピタリと足が地に付きました。
こうして、お屋敷のしん、また、この世初まりの由緒も深い「ぢば」をお定め下されました。そして、その直後「いちれつすますかんろだい」のおつとめをお教え下されたのであります。
辻忠作先生の「ひながた」には、このかんろだいの「ぢば」定め及びかんろだいづとめについて、次のように記されています。
二十四年以前即ち明治八年、教祖様、小寒様御二人指図にて甘露台の地場おためしになりました、そこを歩るいて向へも横へも一足も行けぬ所へ標しをつけ、他のものならずに信心の者、目をくゝりて歩るき、中田、松尾、市枝與助、辻ます子を負ふて歩るけば皆な同じ所で立ち止まりました。それが甘露台の場所となりました。それより甘露台一条の様め(註・勤め)となり、御手一通り教へなされました。日々の勤めは「悪しき払ひ助け給へ、一列すます甘露台」と云ふお勤めでありました。
こうして、かんろだいの建設される場所も定まり、かんろだいのおつとめもお教え下されました。
即ち、
あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい
のおつとめであります。そして、朝夕のおつとめにも、このかんろだいづとめの理にならって、勤めさして頂くことになりました。そして、本づとめの完成の日をさらにお急き込み下さることとなったのであります。……
「みかぐらうた語り艸」p36
……「あしきはらいたすけたまへ天理王命」というお歌は、前に申しましたように、慶応二年にお教えくだされたのでありました。ところが明治八年のこと「天理王命」というのは無い神である、ということで差し止められたのであります。それで、この年にかんろだいのぢば定めもありまして、おつとめもかんろだいづとめ一条になったと聞かせていただいております。すなわち「あしきはらいたすけたまへ いちれつすますかんろだい」とのお手をおつけくだされたのであります。そして、この明治八年におつとめもかんろだいづとめ一条によって、「をびやづとめ」「ほうそづとめ」「ちんばのつとめ」「一子のつとめ」「肥のつとめ」「はえでのつとめ」「みのりづとめ」「虫はらいのつとめ」「雨乞いづとめ」「雨あづけのつとめ」「むほんづとめ」の十一通りのつとめを教えてくだされたのであります。……(以下は2.4;第1節・第3節の変更に記載)
2.4;第1節・第3節の変更 トップへ
「おかぐらのうた」p71より
……右のように「ぢば」定めの完了をお喜び下され、またかんろだいの寸法まで詳しくお示し下されて、さらに同月続いてご執筆の第十号には、前掲のごとくっとめ人衆の数までもお示し下され、勇みに勇んでかんろだい建設の日の来るのをお待ち下されました。そうしてその日は一度来たかのように見えました。即ち、明治十四年五月から着手せられたかんろだいの石普請です。この時、神意を受け教内の力を一つにして、その工を進めておられましたが、石工の不都合から二段目まで出来て、そこで停頓してしまいました。時に同年も暮れのことでした。しかし教祖は、なおもこれが完成の日、近き将来にあるべきを待望しておられたのでしたが、翌明治十五年五月十二日、当時本教の何たるかを理解しなかった人々の手によって、怪しき祈祷の対象として没収されてしまいました。この時の事は、初代真柱様の『教祖様御伝』に次のように記されています。
○明治十五年五月十二日、石造甘露台二重没収せらる。(中略)
差押物件目録
一、石造甘露台 一個
但シ二層ニシテ其形六角上石経二尺四寸した経三尺二寸厚八寸、(以下略)
この思いがけない、否、人間の目にこそ思いがけなかったにしろ、親神様には何もかもご承知だったのでしょうが、神意の意図外に出たと見える出来事によって、世界たすけの神業は大きい予定変更に遭遇せざるを得ませんでした。親神様はおふでさき第十七号において、この弾圧に対する激しい残念立腹をお述べになると共に、然らばまず世界中の心を速やかに澄ます、そのために世界中の掃除を急ぐと仰せ下され、世界中の人間の心を澄ましたその上でかんろだいをお建て下さることに模様替えとなり、この時からおつとめのお歌も、
あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい
とご変更になり、世界一列の人心を澄まして、然る後にかんろだいをご建設下さることとなりました。
これぞいたずらに天佑をのみ頼る甘えた心から、一躍、自らの精進努力によって人心浄化を完遂して後、天よりのお恵みを頂けよ、との親神様のお慈悲であり、信仰的に申して一つの大きい躍進であり、飛躍向上でありまして、既成のかんろだいに非ずして、待望のかんろだいである。拝み信心、呪術的魔力的なものの一切をなげうって、真の道徳的な覚醒と、浄化の上にこそ、真の甘露が降るぞという、まことに本教信仰に画竜点睛された一大発展であります。
当時のご変更の模様を古老の先生方の聞書について見まするに、高井猶吉先生の談として次のごとく記されています。
「かんろだい没収とおつとめの手の変わったことと関係がありますか」
との問いに対して、先生は、
「すますだけではいかん。すましてかんろだいと願え、とおっしゃったので、一れつすましてかんろうだい、と願うようになったのや。手は前と同じことやが、言う事だけが変わったのや」
と語られています。
即ち、一列を澄ますべきかんろだいを取り払われたから、やむなく澄ましてから建てようという消極的な変更ではなくして、ただ天の恵みにのみ甘えて、手を拱いて一列をお澄まし頂くのを待つというのではなく、天意のあるところ人力の最前を尽くし、一手一つの全力を挙げて一列澄ます聖業を完遂さして頂いてから、かんろだいを建設さして頂くという、まことに力強い積極的な意義強調の変更であります。……
「みかぐらうた語り艸」p37
……ところが明治十五年に警察が来て、二段目までできていたかんろだいを取り払い没収いたしましたので「あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい」と改められたのであります。
以上のおつとめの変遷がありまして、明治二十一年十月二十六日の本部開筵式から、朝晩のお勤めも、ただいま勤めさせていただいているように「あしきはらい……」二十一ぺん「ちよとはなし……」から「あしきをはらうて……」のかんろだいづとめとなったのであります。ところがまたまた「あしきはらい……」の二十一ぺんのお勤めも、明治二十九年の内務省秘密訓令によって再び止められることになりました。そして現在のように、二十一ぺんの「あしきはらい……」を勤められるようになりましたのは、大正五年の秋の大祭からであります。こうしておつとめにおいてすらも、道のふしと共に変遷をたどってきて、今日のおつとめとなっているのであります。……
註;上記「みかぐらうた語り艸」p37の明治二十一年以降の事柄で、『「あしきはらい……」二十一ぺん』と記載されているのは「あしきをはらうてたすけたまへ てんりわうのみこと」の事と思われるが、これが変更された事についての記述はない。
また、「みかぐらうた語り艸」での、ここまでの歌に変遷については「朝晩のお勤め」として記載されている。
3;おうた作成の年表 トップへ
「おかぐらのうた」p644・645~と「みかぐらうたの世界をたずねて」p21から関連事項を年表とし、「改訂天理教事典」より参考として「おふでさき」執筆事項を加えた年表を作成した。
註;「改訂天理教事典」の「みかぐらうた」の項(p853)には明治八年までの記載はあるが、明治十五年のお歌の変更に関する記載は無い。
また、同書の「年表」(p980)には、明治15年・かんろだい石没収(5/12)と立合って、みかぐら歌の一部改まる(「いちれつすまして」)。としか記載されていない。
「お」は 「おかぐらのうた」上田嘉成著・「み」は「みかぐらうた語り艸」桝井孝四郎著・「天」は「改訂天理教事典」より関連する事項を示す。
年号 | 西暦 | 立教 | 教祖年齢 | 作成お歌 | 「みかぐらうたの世界をたずねて」p21;記載事項 | 「おかぐらのうた」p644・645~;記載事項 | 天;記載おふでさき事項 |
嘉永6年 | 1853 | 16 | 56 | こかん、浪速の街で拍子木をたたきながら神名を流す。 | |||
文久3 | 1863 | 26 | 66 | 辻忠作、妹くらの病に拍子木をたたきながら神名を唱えて平癒を祈る。 | |||
元治1 | 1864 | 27 | 67 | 10月26日のつとめ場所棟上げの翌日、大豆越村の山中忠七宅へ向かう一行が大和神社の前で、鳴物を打ち鳴らしながら、神名を唱えた。 | |||
慶応2 | 1866 | 29 | 69 | あしきはらひたすけたまひてんりわうのみこと | 5月7日、初代真柱、櫟本村梶本家の三男として出生。秋、「あしきはらひ……」の歌と手振りを教えられる。 | 10月・あしきはらいのおつとめ ○秋、小泉村の不動院の山伏乱入。直後、あしきはらひのおつとめ始まる。 |
|
慶応3 | 1867 | 30 | 70 | 一下り目~十二下り目 | 十二下りの歌と手振りを教えられる。 | 正月~8月・一下り目~十二下り目 ○正月より八月にかけてみかぐらうた十二下りを制作し、以来三年間にお手を付けられる。 |
|
慶応4明治元年 | 1868 | 31 | 71 | お手振りの稽古中、多数の村人が乱暴を働く。 | |||
明治2 | 1869 | 32 | 72 | おふでさき第1号(正月)第2号(3月)御執筆。 | |||
明治3 | 1870 | 33 | 73 | ちよとはなし かみのいふこときいてくれあしきのことはいはんでな このよのぢいとてんとをかたどりて ふうふをこしらへきたるでな これハこのよのはじめだし なむてんりわうのみこと | 「ちよとはなし」を教え、よろづよ八首を十二下りの歌の初めに加えられる。 | この年・ちょとはなし この年・よろづよ八首 |
|
明治6 | 1873 | 36 | 76 | 飯降伊蔵に命じて、かんろだいの雛形を製作。 | |||
明治7 | 1874 | 37 | 77 | 前川宅に「かぐら面」を受け取りに赴かれる。月の26日(旧暦)には、お面をつけてかぐら、次にてをどりと、にぎやかに本づとめが勤められる。 | おふでさき第3号(1月)第4号(4月)第5号(5月)第6号(12月)を御執筆。 | ||
明治8 | 1875 | 38 | 78 | あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい | 6月29日(旧暦5月26日)、ぢば定め。「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りを、また、をびや以下11通りのつとめの手を教えられる。 | 6月・いちれつすますかんろだい ○六月二十九日(陰暦五月二十六日)、かんろだいのぢば定め。直後、いちれつすますかんろだいのおつとめ教えられる。 ○この年、をびや・肥・萌え出・雨乞い・雨あずけ・一子・むほん等十一通りのおつとめの手を教えられる。 |
おふでさき第7号(2月)第8号(5月)第9号、第10号、第11号(以上6月)第12号(初2首)を御執筆。 |
明治9 | 1876 | 39 | 79 | おふでさき第12号御執筆。 | |||
明治10 | 1877 | 40 | 80 | 琴、三味線、胡弓の女鳴物を教えられる。2月5日(旧暦9年12月23日)、中山たまへ出生。 | おふでさき第13号御執筆。 | ||
明治12 | 1879 | 42 | 82 | おふでさき第14号(6月)御執筆。 | |||
明治13 | 1880 | 43 | 83 | 9月30日(旧暦8月26日)、初めて鳴物をそろえておつとめ。この年、初代真柱は中山家へ移り住む。 | おふでさき第15号(1月)御執筆。 | ||
明治14 | 1881 | 44 | 84 | おふでさき第16号(4月)御執筆。 | |||
明治15 | 1882 | 45 | 85 | あしきをはらうてたすけせきこむ いちれつすましてかんろだい | 前年の春以来、2段まで出来ていたかんろだいの石が、官憲によって没収、手振りはもとのまま、「いちれつすます」のお歌が「いちれつすまして」と、「あしきはらひ」が「あしきをはらうて」と改められる。 | 5月・いちれつしましてかんろだい ○五月十二日、奈良警察署長村上行業が来て二段まで出来たかんろだいの石を取り払う。その直後より「いちれつすます」が「いちれつすまして」と変わる。「あしきはらひ」は「あしきをはらうて」に |
この年、おふでさき第17号御執筆。 |
補足;朝夕のおつとめと本づとめ トップへ
「ひとことはな志 その3」p1
……御承知の様に教祖様は御昇天になります迄おつとめに早くかゝれとお急き込みになってゐたのであります。而しておつとめによって傍の人々との間に色々と問答されてゐる事がおふでさき、おさしづを通じて窺はれるのであります。教祖様は親神様の御命のまゝに其の本筋からおつとめをお急きになるのでありますが、傍の人々は、やゝもすれば人間心からそのために教祖様の御身にふりかゝる御苦労をおそれ、或は又おつとめの深い意義を悟り得ずに、兎角いづみ居る様も否めない事実であった様に思はれるのであります。
此のおつとめを中心とした教祖様と傍の者との間に生じた解釈の相違、そこに教祖様が「ざんねん」「りっぷく」と仰言ってお急き込み下さるに至った経緯がある様に思はれます。
然らば、教祖様がお急き込みになったおつとめとは何を意味されてゐるのか、又どんなものであるのかをお話申したいのでありますが、それに先立って、言葉の上につき一寸お話申しませう。
私達はよく本勤のことを申します。これは常識から申しますと朝夕のお勤と区別して、かぐらつとめと十二下りの手踊りを合したお勤、言ひかへれば、今日祭日に神様の前でつとめさせて頂くお勤を指すのであります。が此の本勤の言葉はおふでさきには見出されないのでありまして、言はば傍々の者から、朝夕勤に対して本勤と称へさせて頂く様になったものゝ様にも思はれます。
尚本勤の内わけとして、常識では、かんろ台勤と十二下り手踊りとよりなると申しましたし、又この二つは切りはなせないものである様にも考へる向もありますが、実際親神様の思召は、その間に判然とした区別がある様に思はれるのです。……
「みかぐらうた語り艸」p26
「あしきをはらうて……」「ちょとはなし……」「あしきをはらうてたすけせきこむ……」
右三首のお歌は、朝晩のお勤めのお歌であり、また、これはかぐらづとめのお歌であります。本づとめについては、あとで説かせていただきますが、まず朝晩のお勤めについて話させて頂きます。
朝晩のお勤めは、暮らしむきの上から考えますならば一番に肝心なことであります。日々にはご飯を食べなければ生命をつなぐことができない。だから、ご飯をいただくことは忘れられない肝心なことでありますが、それ以上に大切なことは朝晩のお勤めであります。……まずこれが、子供が親に対する勤めの第一に肝心なことであります。
……この親に対する子供のすがる心、願う心、これがお勤めであります。
「みかぐらうた語り艸」p38
本づとめとは朝晩のお勤めに対しての本づとめであり、かぐらのお面をおつけになるからかぐらづとめとも、またかんろだいの所でお勤めになるからかんろだいづとめともいいます。
このよふをはじめかけたもをなぢ事 めづらし事をしてみせるでな 六 7
このよふをはじめてからにないつとめ またはじめかけたしかをさめる 六 8
このつとめこれがこのよのはぢまりや これさいかのた事であるなら 十五 29
このお言葉のようにかぐらのつとめというのは、人間を初めておこしらえになった、その理をおつとめでお現わしになったものである。この人間を初めてこしらえた元の親神様であるからして、この悪気になった人間社会を、再び元の人間をこしらえた神の思わくの世界に造りかえるということは、なんでもないことではあるが、子供可愛い一条からそうもゆかないから、このつとめ一条によって、悪気な人間心を造りかえるとの思わくから、このかぐらづとめをお教えくだされたのである。だから、この本づとめに限っては、この人間を初めてお宿し込みくだされたぢばであるかんろだいのある所でお勤めになるものである。かんろだいというのは、ここで人間をこしらえた証拠に据えるのである、と仰せくだされてあります。……
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