メッセンジャーで、「天理教とは?」「宗教の系統は?」という質問が来た。
この「宗教の系統は?」という質問の意味が理解できずに、「神様の名前ですか?」と質問をして、そのままとなった。
あとでゆっくりと考えて見たところ。
一般的に宗教団体は、キリスト教・仏教・イスラム教などから派生して、またはその教えを元にしてと言われることを思い出して、これに対する質問だったのかな。と思った。
そういう意味合いで、簡単に天理教を述べると、「天理教はどこの系統にも属さない、元の神からの教え」である。
このブログで、「いんねん」という言葉をよく使うが、この言葉からすれば、仏教の流れかとも思うだろう。
また、「神」というと、キリスト教?神道?と思われるかもしれない。
これは人間の歴史の観点からすると、こうした考えで戸惑ってしまう。
ところが、親神様からの視点から「元の理」というわれる人間創造の話からすると、仏教もキリスト教も神道もその他の多くの教えも、その時その地域の人間の成人に応じて、親神様が陰から宗祖や聖人君主を導いて作らせたものと教えられるのである。
こうした事の証明として私の心にあるのは、教祖が「おふでさき」を書かれた様子である。
この時には、「通い帳も見ることはならん」と親神様から言われている中に、暗闇の中で、ひとりでに筆が動き、書き上げられたからである。
そしてそれをお後で教祖が読まれて、意味が分からないところを親神様に尋ねられて、筆を加えたものが今のおふでさきと教えられている。
また、弾圧を避けるために、近くの神社の傘下になった事も、お寺の傘下となった事もある。これに対して教祖は「そんなことをするのやない。」と止められているのである。けれども周囲の人々は願い出てその傘下となるのだが、時が経つと事情が起こり、その傘下から外れる事となったのである。
しかし、教祖が現身を隠された明治20年以後、「教会をお許しいただきたい」との人間の願いを聞き入れて下さって、周囲の公認を得るために、神道の傘下の教会として時の政府に認可を受けている。
そうした点から、一般的な宗教書には、天理教は神道の系列になっている。
だから、今の日本の教会の形式や祭儀式は、神道の流れを受けている。けれども、世界での教会の形式は、その地域に受け入れられやすい形式となっている。
天理教では、人間を創造した目的を明確に「親神は、人間を作り、その陽気に暮らすさまを見て、神も共に楽しみたいと思召されて、人間を作った」と「陽気ぐらし」と示されている。
その為に様々な苦労を重ねて来て、今日があり、今なお導いていると教えられる。
そして、その陽気ぐらしをするためには、形が重要なのではなく、それを行う人々の心が問題であり、その心の成人を促す上に、様々なものをそれぞれの心に貸し与えていると教えられる。
つまり、陽気ぐらしを味わうためには、形も心も両方が必要という事である。
親神様は、おふでさきで、「おがみきとうでいくでなし うかがいたてていくでなけれど」と示されている。
教祖は、おつとめを教え、おさづけやお守り、御供さんを渡して下さった。
これも、拝み祈祷の部類にはいると思える。本来ならば、そのような事をせずとも、誠真実の心で親神様とつながり、日々を過ごせれば、病み患う事もなく陽気ぐらしは出来る。
そのような心になる事を望まれている。
けれども、我々の心がまだまだそこへ行くためには程遠いので、おつとめなどを教えて下さったと私は思っている。
「八つのほこり」の教えによって、私たちは気が付かないうちに悪い心を使うものであることを教えられている。だから、常に自分の心を点検して、お詫び申し上げて、悪い心を払うようにと教えられている。
もし、この些細な悪い心を詫びずに、気が付く事もなく重ねて行ったならば、それは、自分の反省だけでは治らない、「悪いんねん」というものになると教えられる。
なぜ、悪い心遣いを「ほこり」と言われるかというと、どこにでもある些細なほこりと同じようなものだからである。そして「悪いんねん」は掃除を怠った上に出来る、シミや汚れに例えて教えられている。
このほこりの心遣いは、八つあると教えられて、「八つのほこり」といわれる。(おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」と教えられ、後の方になるほど、重大なほこりだと言われる。
そして、そのほこりの心遣いの後に、「うそと追従、これ嫌い」と教えられるのである。
人間は、心で思ったように行動するのである。悪い事をしたとしても、それを良い事と思っていれば堂々と行う。しかし、悪い事と知っていたならば、堂々と行えなくなるものである。
問題は、悪い事をしたという自覚が出来ずに、他の人を苦しめる事である。
昔は、形だけ・表に現れた良し悪しで、人を見極める事が出来た。
けれども、知恵が発達して、人をだます事を平然と出来るようになり、神をも恐れぬようになってきた。
表では良い顔をして、裏では悪事を働く。これがどんどん増えて来たのである。
そしてまた、これまで教えて来た宗教や思想を利用して、人を欺く人々も出てくるようになったのである。
さらには、人を導くためにわざわざ親神が不思議を見せて人を寄せて始めた宗教を、政治に携わる上の人々が利用するようにもなったのである。
こうなってくると、人間の都合で、宗教と宗教との争いも起こるようになってくるのである。
その地域地域で住む環境は違うのである。それに応じて分かりやすいように説かれた教えであっても、他の地域に行けばそれでは受け入れられない場合もある。
地域によって文化が違う事によって、理解が得られない事と同じようなものである。
自分の狭い考えて、他者を理解しようとせずに、悪とする。そして他者を無きものにしようとする。他者の物を取ろうとするなども同じである。
こうした事が、戦争として長い間続いているのである。
親神様は、「むほんのねをきろう」という言葉で、戦争や争いごとの、根本の原因を切り替えたいと望んでおられる。
その方法は、自分の性分を自覚する事。その人を恨んで、仕返しをしようという心にならない事が大切だと教えられる。
自分が正しければ、自分がしなくても、悪事を行った人にはそれなりの事が起こってくると教えられるのである。
「いんねんよせて守護する」と言われる言葉には、それが含まれている。
そういう人には同じような人が現れて、その人の周囲には争いは絶えない。けれども、仕返しを考えないで、その人の心が良くなりますようにと願う事で、そうした争いに会わないようになってくるのである。
いんねんが違えば、住む世界も変わってくるのである。
これが親神様の思い描いている理想である。
けれども、人間の心は親神様の思い通りには進んでいない。だから、親神様は「月日のはらがはじけた」と天災を起こし、大戦争を起こして、リセットをされる。
肉体や世界はリセットされても、一人ひとりの魂は生まれ変わりをしてくる。そして、これまでの心遣い・行いに応じた場所へ生まれ変わらされる。
天国や地獄は別の世にあるのではない。この世の中にある。
物にあふれた良い暮らしをしていても、常に人に追われているように思えて、安心できない人もあるはずである。
今の姿が、前生での結果であり、今の心遣いが、来生への元なのである。
天災や大戦争になったとしても、その時に使う心、これがとても重要である。
親神様が聞きいれられるのは、誠の心である。誠の心とは、人を思いやる心である。この誠の心から願う声は親神様に伝わり、手助けをして下さる。危ないというところでも、寸前の所でたすかるのである。
しかし、我が身の事ばかりを思って願う声は届かないのである。これだけ万全にやっているから大丈夫だと思っていても、そのようにならなくなるのである。
そして、悪事が表に出て、悪の見本となるのである。
もし、少しでも悪い事をしたと気が付いたならば、すぐ様に詫びる事である。
そして、償う心を働かせることである。これをさんげと教えられる。
親神様は、常に人々の心を見ておられる。それを帳面につけて、時が来たら返される。良い事も悪い事も、それも何倍にもして。。。。
これが理である。
思い浮かぶままに書きました。
親神様・教祖、どうぞ大難は小難にとお守りください。