あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

人間の数について。。。『正文遺韻抄』

2021年07月02日 20時45分52秒 | 正文遺韻抄

資料として、書換えておく。

「人間の数について」  『正文遺韻抄』153頁

 ある時、梅谷様より、仲田様、山本様などに、『人間は、9億9万9千9百9十9人の人数と、聞かせられるが、中に、牛馬に堕ちているものも、おるとの事なれば、人間の数は、現在増えておりますか、また減っておりますか』とたずねしところ、『そんなことは知らぬから、これから神様へ伺わん』と申して、教祖の御前に伺い、仲田様より、右の次第お尋ね申し上げしに、しばらくお伺いの態にて『それは増えてあるとおっしゃる』と仰せられて、それより、その次第をお聞かせ下さるには、
 『元は、9億9万9千9百9十9人の人数にて、中に、牛馬に堕ちている者もあるなれど、この世初めの時より後に、生き物が出世して、人間とのぼりている者が沢山ある。それは、鳥でも獣のでも、人間を見て、ああうらやましいものや、人間になりたいと思う一念より、生まれ変わり出変わりして、だんだんこうのうを積で、そこで、天にその本心を表してやる。すると、今度は人間にうまれてくるのやで、そういうわけで、人間に引きあげてもろうた者が、沢山あるで』と仰せられ、一同感服して、御前を下がりしという。

 

 

(2021.7.2作成)

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誠の人とは。。。誠の心は神に届くが、偽りの言葉は神に届かない。

2021年07月01日 21時11分21秒 | 思った事

先回、誠についてのお話を掲載した。

「誠という事」。。「たんのう」。。「いんねん」。。正文遺韻抄より - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

私たちは、宗教や人種また政党で人を見定めてはならないと思う。

その中には、いやいやながらも所属している人もあるからである。

けれども、その組織の方針については、しっかり考えなければならないと思う。

 

そうした中の個人を判断する基準が、「誠の人」と思われる。

「誠の人の言葉は神様に届く」反対に「誠でない人の言葉は神様に届かない」

つまりは、いざと行った時に神様の守りはない。また、うそはばれるという事である。

そして、そのうそがばれた時、騙された人はその人を恨む事にもなるだろう。

 

反対に、真実・誠はなかなか人々には理解されず、時がたってようやく分かるものである。

それはなぜか、うそはとても甘美なものであり、真実とはとても辛いものだからである。

 

その事を教祖のひながたに見て見ると、

教祖は、施しをどんどんされた時には、「狐憑き」などと多くの人々から非難されて通られた。また、施しを受けた人々でさえも、周囲の声に逆らえずに非難をした。

これらの記録は、中山家だけの時で、言い伝えしかないようだが、不思議な御守護を頂きつつも、圧力に負けてしまった代表的なものは、「雨ごいづとめ」であると思う。

おつとめには、よろづたすけのおつとめ以外に、12通りのおつとめを教えられて、その一つに「雨ごいづとめ」がある。

警察の干渉が激しい時、村人から「雨ごいづとめ」を願い出て来た。教祖に何かあっては大変なので、そばの方々は断った。しかし、村人は「警察が来たら私たちから願い出たので、迷惑はかけない」と申し出て、教祖の許しを得て行われた。

不思議と雨が降った。すると、それを聞きつけた警察が飛んできて、おつとめに携わった人々を拘留した。村人たちは約束とは違って、知らぬ存ぜぬだったためである。

真実込めてつとめたのに、うそをつかれたのである。

どれだけ、おつとめに出た人々は心を燃やしただろうかと思う。

人間というものは、そういうものであり、これを親神様はチャンと見ておられる。

しかし、こうした辛い真実は、後の結構になる種となる。

その姿は、教祖が現身を隠された後に、不思議な助けとなって次々と現れたのである。

これが、神様の働きである。この事をしっかりと心に置いて置かないと、うそに巻き込まれることとなる。

 

昔講話で、戦争当時の事を聞いたことがある。

戦争では人を殺さなければならない場合がある。親神様のお言葉からすれば、人を殺すことなど許されることではない。しかし、徴収されれば行かなければならないのである。

そして、戦場へ出た時に、人に弾が当たらないようにと、上へ向けて玉を打ったそうである。

それなのに不思議と生還できたという話しであった。

普通ならば自分は死ぬのである。それなのに、人のためにと思って、それを貫ける心が凄いと私は思った。

そしてそうした心に神様は働き、不思議を見せる。その元となるのが、誠の心なのだと思った。

 

しかし、そうした心には、なかなかなれないものである。

どうしてこの話を思い出したのかというと、今が戦争中だと思われるからである。

恐怖に立ち向かう心がとても難しいと思う。

しかし親神様は、「おふでさき」で

やまさかやいばらぐろふもがけみちも  
つるぎのなかもとふりぬけたら ( 1号047)

まだみへるひのなかもありふちなかも  
それをこしたらほそいみちあり ( 1号048)

ほそみちをだん/\こせばをふみちや  
これがたしかなほんみちである ( 1号049)

註釈 47
山坂を越え、いばらの生え繁っている所も、がけ路も、剣の中も越えて行くと。 註 ぐろふは、むらがり(叢)の意味。

註釈 48
その先には、まだまだ火の中もあり淵の中もあるが、それをだんだんと越して行くと、初めて細い路に出る。 註 ふちとは、青々と水をたたえた深えんをいう。

註釈 49
この細路をだんだんと進んで行くと、やっと大道に出る。このように何も彼もの難しい中を通り抜けて出た大道こそ、確かに間違いのない往還道である。

47-49 総註
 以上の三首は、道路にたとえて人々の通る可き道の次第を示されたもので、これだけの試練に堪えて、最後まで困苦と戦うて行くならば、必ず立派な道に出られるものである事を、よく悟らして頂かねばならない。

とお聞かせ下さり、

その困難と恐怖を乗り越える事、それを親神様を信じて歩む事。これが大切だと思う。

そしてその先に結構な道がある。と言われている。

 

新型コロナのみならず、これから先、まだまだ困難や恐怖はあるだろう。

その時に、何を頼りとするか、これが大切である。

真実はすぐには見えない。

しっかりと、おつとめで心を澄ます事。

そして危ない寸前のところでお導きを頂く事。それを切に願う。

 

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