先回、誠についてのお話を掲載した。
「誠という事」。。「たんのう」。。「いんねん」。。正文遺韻抄より - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)
私たちは、宗教や人種また政党で人を見定めてはならないと思う。
その中には、いやいやながらも所属している人もあるからである。
けれども、その組織の方針については、しっかり考えなければならないと思う。
そうした中の個人を判断する基準が、「誠の人」と思われる。
「誠の人の言葉は神様に届く」反対に「誠でない人の言葉は神様に届かない」
つまりは、いざと行った時に神様の守りはない。また、うそはばれるという事である。
そして、そのうそがばれた時、騙された人はその人を恨む事にもなるだろう。
反対に、真実・誠はなかなか人々には理解されず、時がたってようやく分かるものである。
それはなぜか、うそはとても甘美なものであり、真実とはとても辛いものだからである。
その事を教祖のひながたに見て見ると、
教祖は、施しをどんどんされた時には、「狐憑き」などと多くの人々から非難されて通られた。また、施しを受けた人々でさえも、周囲の声に逆らえずに非難をした。
これらの記録は、中山家だけの時で、言い伝えしかないようだが、不思議な御守護を頂きつつも、圧力に負けてしまった代表的なものは、「雨ごいづとめ」であると思う。
おつとめには、よろづたすけのおつとめ以外に、12通りのおつとめを教えられて、その一つに「雨ごいづとめ」がある。
警察の干渉が激しい時、村人から「雨ごいづとめ」を願い出て来た。教祖に何かあっては大変なので、そばの方々は断った。しかし、村人は「警察が来たら私たちから願い出たので、迷惑はかけない」と申し出て、教祖の許しを得て行われた。
不思議と雨が降った。すると、それを聞きつけた警察が飛んできて、おつとめに携わった人々を拘留した。村人たちは約束とは違って、知らぬ存ぜぬだったためである。
真実込めてつとめたのに、うそをつかれたのである。
どれだけ、おつとめに出た人々は心を燃やしただろうかと思う。
人間というものは、そういうものであり、これを親神様はチャンと見ておられる。
しかし、こうした辛い真実は、後の結構になる種となる。
その姿は、教祖が現身を隠された後に、不思議な助けとなって次々と現れたのである。
これが、神様の働きである。この事をしっかりと心に置いて置かないと、うそに巻き込まれることとなる。
昔講話で、戦争当時の事を聞いたことがある。
戦争では人を殺さなければならない場合がある。親神様のお言葉からすれば、人を殺すことなど許されることではない。しかし、徴収されれば行かなければならないのである。
そして、戦場へ出た時に、人に弾が当たらないようにと、上へ向けて玉を打ったそうである。
それなのに不思議と生還できたという話しであった。
普通ならば自分は死ぬのである。それなのに、人のためにと思って、それを貫ける心が凄いと私は思った。
そしてそうした心に神様は働き、不思議を見せる。その元となるのが、誠の心なのだと思った。
しかし、そうした心には、なかなかなれないものである。
どうしてこの話を思い出したのかというと、今が戦争中だと思われるからである。
恐怖に立ち向かう心がとても難しいと思う。
しかし親神様は、「おふでさき」で
やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら ( 1号047)
まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり ( 1号048)
ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである ( 1号049)
註釈 47
山坂を越え、いばらの生え繁っている所も、がけ路も、剣の中も越えて行くと。 註 ぐろふは、むらがり(叢)の意味。
註釈 48
その先には、まだまだ火の中もあり淵の中もあるが、それをだんだんと越して行くと、初めて細い路に出る。 註 ふちとは、青々と水をたたえた深えんをいう。
註釈 49
この細路をだんだんと進んで行くと、やっと大道に出る。このように何も彼もの難しい中を通り抜けて出た大道こそ、確かに間違いのない往還道である。
47-49 総註
以上の三首は、道路にたとえて人々の通る可き道の次第を示されたもので、これだけの試練に堪えて、最後まで困苦と戦うて行くならば、必ず立派な道に出られるものである事を、よく悟らして頂かねばならない。
とお聞かせ下さり、
その困難と恐怖を乗り越える事、それを親神様を信じて歩む事。これが大切だと思う。
そしてその先に結構な道がある。と言われている。
新型コロナのみならず、これから先、まだまだ困難や恐怖はあるだろう。
その時に、何を頼りとするか、これが大切である。
真実はすぐには見えない。
しっかりと、おつとめで心を澄ます事。
そして危ない寸前のところでお導きを頂く事。それを切に願う。