優緋のブログ

HN変えましたので、ブログ名も変えました。

大腸カメラの検査

2022-10-16 17:28:46 | 闘病の記録
11日は大腸カメラの検査だった。

前回の検査から約1年半たったので、
「そろそろ、やっておきましょう」
ということで。

前回は、市立病院で。
若い女性の先生が担当だったが、
カメラを入れる時
「鎮静剤を頼むべきか、これはまだ”我慢できるレベルなのか?”
「はい、奥まで届きましたので、戻りながら見ていきますね。」
と言われるまでずっと迷うほど痛かった

なので、今回は初めから
「痛みが出たら、鎮静剤お願いします。」
と頼んでおいた。

だから、安心していたのだが、
思わぬトラブルが…

今回は、かかりつけの個人病院なので、
自宅で腸を綺麗にする薬(液体の下剤)を飲んで
9時半までに、便が透明になったら
11時45分までに病院に行くことになっていた。

ところが・・・

6時に起きる予定が、
5時にもう便意をもよおし(昨夜、もう下剤を飲んでいたので)
ほぼ固形物は出た?と思うほどモッサリと出た。(描写が生々しくてスミマセン💦)

水を規定通り2杯飲んで、
下剤と途中で飲む水も用意し、
準備万端で予定の6時半から下剤を飲み始める。

1杯目をちびちび飲んでいるうちに
早くもトイレに行きたくなる。

3回行って、
まだかすが残っているものの、
もう茶色から黄色がかってくる。

トイレに何度も行ったので、
予定よりだいぶ遅れて2杯目に。

しかし、一口二口飲んで、
水を途中で飲むと
なんかおかしい・・・

急いでトイレへいくと
全部吐いてしまった。

こういうことは、ままあることらしく
事前に貰った説明書にも
「このような症状が出たら、我慢せず中止し、病院に電話してください」
と書いてあった。

まだ7時ぐらいだったので、
病院に電話できる8時45分まで休んでいるしかない。

8時30分過ぎに、
もう受付の人がいるかもしれないと早めに電話。
「残りの薬と水を持って病院にすぐ来てください」とのこと。

「様子を見ながら、飲めたら検査しましょう」
ということで、
まず、その前に採血
今回も4本

その後、ベッドに移動し、
飲み始めたが(といっても、ほんの少し)あまり入っていかない。

トイレに行ってもあまり出ず、
なんか目がチカチカ、頭が少しくらくらしてきた…

看護師さんが、
「ちょっと具合悪そうだね。」と脈を診る。
左腕がダメ、右腕もダメで首に触れるが脈が取れないらしく
「血圧計りましょう」と計ると

「ありゃ、上が70行かない。脱水症状ですね。
点滴して様子を見ましょう。」と、先生

(救急車で運ばれた時も救急隊員の人が
「血圧、計れません!」って言ってたっけなぁ…
計れませんって、私死んでる?と
動けないまま意識はあるので考えていたなぁと、思い出す)

でも、看護師さんたちは
「点滴して、血圧回復しても今日検査は無理じゃないのかな~」と
すでに慰めモード。

結局1パックではだめで、
3パック点滴しました。

これで帰されてしまうのかな、と思っていたら、
「折角ここまで頑張ったのだから、できるところまで診ましょう。
途中又体調に変化があったら中止ということで。」と先生。

完全に透明な便になってなかったので、
「洗いながらになるので、ちょっと時間がかかりますが…」
と言っていたけれど、
胃カメラの時もそう思ったのですが、先生カメラの扱いが上手。
市立病院の時と時間的のもそう変わらず、
何しろ、あまり痛くなかったのが幸い。

血圧が急変しては大変なので、
「痛くても鎮静剤は使えないので、スミマセンが我慢してくださいね。」
と言われたが、
角々とか若干痛みの出た個所はあったが、
前回よりは全然楽だった。

1個あったポリープも取れ、病理検査に回すことができた。

検査の後は、特に体調も悪くならず、
先生が頑張ってやってくださったことに感謝。

吐いてしまったので、
2~3日口の奥が痛かったが(自分の胃液で荒れてしまった💦)
もう、それもほとんど回復した。

こうやって、一つ一つ合併症がないかつぶしていきながら
肝硬変の原因も同時に検査していくのだろう。

早く原因がわかり、
治療方針が定まりますように。

「人生は、 いつまでも闘争であるべきである」

2022-10-16 15:47:04 | 聖教新聞を読む
【ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち】
第24回 クーデンホーフ=カレルギー より



〈クーデンホーフ=カレルギー〉

正しいことのために戦うことは

幸福を意味している。

人生は、

いつまでも闘争であるべきである。


他人や環境を変えようとする前に、

まず自分自身を変える

努力をすべきである。



 伯爵の信念の言葉
 
「平和の領域は

一歩一歩づつしか占拠できないものであって、

現実に一歩前進することは

空想で何千歩進むより以上の価値がある」
 
「正しいことのために戦うことは幸福を意味している」
 
「人生は闘争であり、また、いつまでも闘争であるべきである」


『青年のみが熱意と、意志と、希望と、信念と、力を持っている』

『青年は炎を持っており、

その炎がなかったら、いかなる理念も光を発しないし、

また勝利を占めることが出来ない』

『人類の未来は、

明敏な頭脳が主導権をにぎる世界となるだろうと思います。

したがって、

現在の学生たちが

明日の世界を決定づける指導者となるのであって、

彼ら自身は、その自覚に立って、

未来に向かって自己形成し、

準備をするべきだと思います』



クーデンホーフ=カレルギー伯爵

「欧州統合の父」と仰がれる

1894年11月17日 

7人きょうだいの次男として日本で生まれる

日本名は「エイジロウ」
 
父・ハインリヒはオーストリア=ハンガリー帝国の有力貴族

母・光子は日本の商家の娘

外交官だった父が代理公使として日本に赴任していた時に出会い、結婚

一家は伯爵が生後1年を経たころ、

父の帰国とともにオーストリアへ移住
 
オランダ、ドイツ、ロシア、ポーランド、ギリシャの血を引いていた父は18カ国語に通じ、

アラビア、インドをはじめ東洋に深い関心を寄せていた。

自宅には海外から多くの来客が来訪

少年時代、父の“国際人”としての仕事を目の当たりにしながら成長

書斎には哲学者の像や多くの書籍が並び、

父が地球儀を回しながら世界について語ってくれた
 
母は移住後、

周囲からの偏見と向き合いながら、

伯爵夫人としてふさわしい言語や教養を身に付けつつ、

7人の子育てに奮闘した。
 
移住から10年後1906年

父が心筋梗塞のため急逝

周囲は、日本人の光子が財産を相続することに反対

彼女は批判の声にも屈さず、

一家の家長として子どもたちを立派に育て上げた。
 
「母は、子どもの教育については、

夫である私どもの父の精神を、

そのまま受け継いでおりました。(中略)

私は、こうした母がいなかったとしたら、

決してパン・ヨーロッパ運動を始めることはなかっただろうと考えています」



「一人の人間の周りに、

家族、友人、社会、国家などがあります。

人間は自分自身に対して、第一の義務を負っているわけですから、

他人や環境を変えようとする前に、

まず自分自身を変える努力をすべきだと思います」
 
後に欧州連合(EU)へと発展する、

欧州統合の出発点は“世界市民”である伯爵の両親だった


「真に世界平和を保証する唯一の道は結局、宗教以外にはない」
 
 伯爵がこの真情を伝えた相手こそ、池田先生であった。


1967年

EUの前身であるECが発足

クーデンホーフ=カレルギー伯爵は71年ぶりに日本の土を踏んだ。

伯爵72歳
創価学会を

「世界最初の友愛運動である仏教のよみがえり」と評価していた

訪日に当たって会見を希望した1人が、

池田先生だった。
 
10月30日

初の出会いが実現。

「私は直ちに池田の人物に強く感銘した。

やっと39歳の、

この男から発出している動力性に打たれたのである」

「東京滞在中のもっとも楽しい時間の一つ」になった
 
3年後の70年10月

伯爵と先生は再会

再来日の折に4度会い、

「アジアとヨーロッパ」

「国連の役割」

「指導者論」

「青年への期待」などをテーマに

のべ十数時間に及ぶ会見を

語らいは対談集『文明・西と東』として結実。

先生が海外の識者と編んだ対談集の第1号

発刊から2カ月後の72年7月、

伯爵は77歳の生涯を閉じた。



「パン・ヨーロッパ運動」



“欧州を一つにまとめることが、平和につながる”とる運動

運動に「全て」を意味する「パン(汎)」を掲げたのは、

主権国家同士の共同体を築くとの伯爵の決意から



第1次世界大戦

オーストリアの皇太子がサラエボの青年に暗殺された事件が端緒となり、

全欧州を戦場に1914年から4年以上続いた

人類最初の世界戦争
戦後、多くの小国に分裂した欧州

新たな火種が生まれ、

第2次世界大戦がいつ起きてもおかしくない状況下に
分断や対立が激化する社会 
欧州統合の理念の実現は夢物語



1922年
伯爵は、パン・ヨーロッパ運動に関する論文を発表
翌年、『パン・ヨーロッパ』を出版

「パン・ヨーロッパ連合」を結成

各国に「パン・ヨーロッパ協会」を設立。

“欧州は一つ”の理想へ、各地を精力的に駆け巡った。
 
その夢は、ナチス・ドイツの台頭で一度は挫折

海外へ亡命

ウィーンにある本部を占拠したナチスに

パン・ヨーロッパ関連の文書を破棄されてしまう。

1939年

第2次大戦が勃発


伯爵は、アメリカに渡ってパン・ヨーロッパ思想への支持を拡大。

45年の終戦後に欧州へ戻り、

統合実現に向けて再び動き出す。

49年に欧州評議会が発足

57年に欧州経済共同体(EEC)

67年に欧州共同体(EC)が誕生

夢は現実となった。

 
〈クーデンホーフ=カレルギー伯爵を語る池田先生〉
青年が勇気をなくしたら、
もはや、青年ではない。
人々に「気持ちがいいな!」
「素敵だな!」と思わせる、
勇気の声を響かせていくのだ。


(2001年9月23日、第1回千葉青年部総会でのスピーチ)





 自らも若き指導者であった伯爵は「青年」に期待を寄せていた。

その心を知る先生は、

伯爵の言葉を通し、こう呼びかけている。
 
「博士が、青年への信頼を込めて語っていたことが忘れられない。
青年は、自己形成を怠ってはならないと

博士は遺言されたのである。



頭脳も心も人格も鍛えなければならない。

知識だけで『人間』が置き去りにされれば、

社会は、どんどん誤った方向へ進むであろう。



人格形成を根本に均衡のとれた人間形成が必要なのである」

(95年5月21日、常勝関西第1回青年部記念総会でのスピーチ)
 

 
【引用・参考】

『クーデンホーフ・カレルギー全集』全9巻・鹿島守之助ほか訳(鹿島研究所出版会)、

『講演集 大陸日本』香川徹ほか訳(潮出版社)、

『文明・西と東』(『池田大作全集』第102巻所収)ほか