鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

景観十年風景百年風土千年

2024年12月26日 | 鳥海山

 景観というものはほぼ十年で具現・認識され、風景はその景観十年が十回以上繰り返され成立するものであり、風土はその風景百年がまた十回以上という途方もない記憶の堆積によって成り立っているということと解説されています。同タイトルの本があるのですが高くて手が出ません。

 風車が何十本も並んだものが景観と言えるでしょうか。この海で漁をする漁民の風力電建設に反対する方はよく「景観十年風景百年風土千年」と口にします。今まさにこの何千年も続く庄内の海が壊されようとしていれば反対するのは至極当然のことです。

  写真は斎藤政広さん撮影。飛島・鼻戸崎から望む寺島と鳥海山。この海に風車はいりません。


出清水、大清水

2024年12月25日 | 鳥海山

 出清水、大清水さてその読み方は。「デシミズ」「オオシミズ」ではありません。


※地図は昭文社 山と高原地図 鳥海山 1986より

 国道七号線遊佐町の地名です。

 左に出清水とあります。清水はこの辺りでは「スズ」なまりがつよければ「シズ」に聞こえます。「シ」と「「ス」の間でしょうか。田村寛三「続々酒田ききあるき」にも「当地方では清水のことを『スズ』と呼んでいた」とあります。今は皆さん標準語もどきを使うようになってどう呼んでいるかはわかりませんが出清水は「デシズ(デスズ)」と呼んでいました。子供のころはこの海岸に泳ぎに行き帰りは砂浜の近くに湧く清水でのどを潤しその冷たい湧き水で体を洗ったものです。

 後年同じ場所に行ったときはその湧水は無くなっていましたが。

 こちらは鳥海山百宅口大清水。

 「オオシミズ」とは呼びません。案内書などでは「オオシズ」となっていますがこの辺の人は「オシズ」と呼んでいました。今は升田からの林道も荒れ果て崩れ橋は落ちて通行不能になってしまいましたがかつては秋になると庄内側からのキノコ採りの車でいっぱいになる道でした。なので庄内の人も「大清水(オシズ」)という名前は山登りの人でなくとも良く口にしたのです。

 



思えばよくもまあ登ったもんだ

2024年12月20日 | 鳥海山

 30代から40代、無雪期だけだけど毎週毎週飽きもせずよく登ったものだと、家族サービスなんてほとんどしないで。年間20回以上で20年以上、後期は楽なところばかり。その後は親の面倒見たり自分が病気成ったりといつのまにか己の体力もなくなっていました。

 行者嶽からの道があったころ。

 これらは1801年にできたもの、わずか200年ちょい前。

 どのようにできたのか想像するだけでわくわくします。

 ミルフィーユ

 片面だけ岩肌が違います。誰かこの原因を教えてください。

 何とかもう一度行きたいものですけど。無理かなあ。


七五三掛連嶺

2024年12月18日 | 鳥海山

 下の図の本は鳥海山の史跡について各所から調べ上げた労作なのですが特に拝所の記述に関して間違いが結構見受けられます。

 別の所でその一つとして七五三掛連嶺の読みについて書いたところ連絡いただきました。


 七五三掛より続く七五三掛連嶺

 この本では七五三掛連嶺を七五三連嶺を(しちごさんながね)としてあります。

 読みにくいと思いますが


 W28拝所【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。ここから登山道は、「七五三連嶺(しちごさんながね)」とも云われる外輪をたどる。


 と書いてあります。七五三連嶺は(しちごさんながね)などとは呼びません。山岳信仰において七五三は「しめ」と呼びます。ここから先は聖域なので、注連を新しいものに代えて、古い注連は木に掛けることから七五三掛(しめかけ)と呼びます。ここの呼称は七五三掛連嶺(しめかけながね)です。

 なぜ上記の本ではこう書いたかといえば、それは橋本賢助の「鳥海登山案内」を丸写しにしたからです。

 【鳥の海御浜の神】坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったという。この記述も同じです。史跡鳥海山保存管理計画書(平成23年3月、販売していません)にも「坂の絶頂には鳥海湖を遥拝できる拝所があったというが不明」としてあると連絡がありました。

 これは橋本賢助が太田宣賢の「鳥海山登山案内記」を読み違えた結果です。下の画像は太田宣賢「鳥海山登山案内記」の該当の箇所。

 山頂に行く前に御浜へ降りるというのは考えにくいでしょうがあくまでも文章の上。この本はあくまでも蕨岡道の紹介、御浜は吹浦道の拝所ですが重要な拝所として外すわけにはいかなかったのでしょう。この文章を読み違え外輪の上に鳥の海遥拝所があると考えてしまったのでしょう。鳥の海遥拝所は御浜のことです。

 「鳥海山麓遊佐の民族(上) 遊佐のお参り文化 中山和久」は太田著を参照している箇所もあるようですが鳥の海遥拝所に関しては橋本賢助の記述をもとにしているとおもわれ「場所は不明」としています。

 ページ冒頭に御田ヶ原が登場しますがこれは昭和の幕営で裸地とされ姿を消してしまったところで現在探してもありません。また大雪路、小雪路も文字はこのように書かれていた証左でもあります。

 この「鳥海山登山案内記」までたどらないと蕨岡登拝道の詳細までうかがうことはできません。