たまにはラーメンを、欲張り半ちゃんラーメン。まだ完食することが出来ました。
これに餃子が三個付きますがまだ来ていません。
亡くなった先代は、これの大盛を食べているとそばに寄ってきて「おお、これ食えるなら長生きするゾ」と声をかけてきたものでした。話しかけてきたその翌年には亡くなってしまったのですから何か予感があったのかもしれません。
この店のラーメン大盛は確か480gほどあったと思うのですが、さすがにもう大盛の半ちゃんラーメンは無理です。
たまにはラーメンを、欲張り半ちゃんラーメン。まだ完食することが出来ました。
これに餃子が三個付きますがまだ来ていません。
亡くなった先代は、これの大盛を食べているとそばに寄ってきて「おお、これ食えるなら長生きするゾ」と声をかけてきたものでした。話しかけてきたその翌年には亡くなってしまったのですから何か予感があったのかもしれません。
この店のラーメン大盛は確か480gほどあったと思うのですが、さすがにもう大盛の半ちゃんラーメンは無理です。
地図プリ、見ているだけで楽しいアプリです。国土地理院の1:25000の地形図が任意の場所を最大A3の用紙に大きさに印刷できます。
1:25000の紙の地形図で途切れるところも連続してみることが出来ます。磁北線もワンクリックで挿入できます。
見たい場所を選びます。
磁北線も入れてみました。左上の500mと書いてあるところの+-ボタンで縮尺を調節で来ます。利用は無料。
ある本を読んでいたらメンコ(面子)のはなしがでてきまして、途端に時間が数十年逆戻りしてしまいました。
早速調べてみると、なんと「おかちめんこ」というのは雄勝石で作っためんこが、地に擦れて変形したもの、何度も使って歪んだめんこの図柄に由来するそうで、知らなかった。今こんな言葉使ったらセクハラと言われるんでしょうね。
Wikipedia(100%信用する阿呆な方もいますけど)によれば呼び名も地方によって様々。この辺では「ぺっち」でした。歴史も古く形も丸、四角といろいろあったようですが子供の頃遊んだのは円いやつ。負けないために空き缶の蓋を裏打ちし周りにはみ出た部分を内側に折り曲げて使用するものもいます。近所の砂場では学校が終わるとみんな集まって子供のばくち大会です。お金は賭けられていませんが負ければ自分の面子は相手に取り上げられます。なけなしのの小遣いをはたいて買った面子が取り上げられてしまうのですから子供ながら人生の悲哀を味わいます。ちなみに「ぺっち」といえば勝負の行為そのものも指します。
小学生とはいえ、既に不正行為は芽生えます。覚えているその頃のルールは、自分の面子を相手の面子に叩きつけて裏返せば勝ち、自分のものになります。何人も出やるのですが、一つ裏返せば勝ったものは続けて面子を叩きつけることが出来、裏返しできなくなるまでできます。不正行為とは「手ばぐ」と言われるやつで面子を叩きつける時に手を離さなければいけないのですが、その時に手を放さず、手で相手の面子をひっくり返しすかさず手を離すのです。これを上手にやられると子供にはわかりません。通りかかった大人が「あの子供は汚いやつだ、手ばぐしてだ」というのもきいたことがあります。
負けることばかりだったのでいい思い出は全くありません。
行ったことはないし、これからも行くことはないでしょう清吉新道。その清吉新道にある食物園。なんで食物園なんだろう、食べ物に何か関係が?と思った方も多いでしょう。
昭文社「山と高原地図 鳥海山 1976年」より
ところがこれ、斎藤清吉さんの「山男のひとりごと」を読むと
七月二十七日 第十四日 曇り時々晴
熊岩の東は細い尾根になる。それが目前に見えながら 中々進む事が出来ない。橅の潅木密生地帯をさけて標高九百メートル付近から左 に降りる。雪渓が左に延びていたから、それをたどって進んだは良いが、方角違いらしいのでまた戻る。尾根の降り口から五十メ—トルの地点で、かなり濃い 薮を切り払いながら右手に登る。急に視界が開け広い原っぱに出る。あちこちに水溜りがあり、黄色いミズギク、白いチン グルマが咲き乱れている。水のある所にはモウセンゴケ やエゾホソィ等の高山植物、そして低山性のゼンマイ、シノブショーマ、シキミ等もある。 ここには高山から低山性のものまで入り乱れているから「世界植物園だな」と二人で笑い合った。(以下略)
八月になると、
八月五日 第二十日 曇り
植物園の北を伐り、右手にルートをとる。「少々無理 かな?」とはおもいつつ尾根にとっつく急坂に挑む。 こうした作業程、単独ではらちがあかない。骨ばかり が折れて、はかのゆかないこと。小舎に戻ったら、酒田山岳会の奥山、阿部の両君が「手伝いに来た」と、食糧と酒を背負って来てくれた。「助ける神」ありで、先の本間先生といい、絶妙のタイミン グで協力者が現れるものだ。
本当は植物園だったことがわかります。それがいつの間にか食物園、そのいきさつについては不明です。
また南物見については、同日記に記載があります。
八月八日 第二十四日 曇り後時々晴
八時出発。多人数だから歩くのに時間がかかる。しか し手が揃っているから、現場では私が先導して薮こぎし ながら細かな指図さえすれば良いので、楽なものだ。 さすがに能率の良いこと。一挙に標高差で二百五メー トルも刈り登る。途中見事なダケヵンバがあり、中でも 幹の「三ツ又」岐れた奴を「天狗ガンビ」と命名することにした。 一行は今日中に酒田に帰るので、三時頃別れを告げて 下山して行った。私だけは一人で千三百メートルの展望所のような所 (後に酒田東高校の生徒によって「南物見」と呼び慣らされるようになる)まで登ったので、鶴間池 や南の山なみを眺めることが出来た。
ちなみに、鶴間池から池沢の上流を通って南物見に向かう道、破線で示してありますがこれが本来の勘助道、筍採りの道だそうです。今も実線で示されているところは踏み跡らしきものはありますが池沢に出会う先は踏み跡もありません。最初に載せた地図の鶴間池へ注ぎこむ池沢、その流れの初め、車道終点と書いてある道の文字の下あたりが池沢の源流。崖からの二つの湧水だそうです。昨年途中まで連れて行ってもらいましたが真夏だったため、あまりの草木の繁茂のため断念。興味のある方はどうぞ。草や木の葉が茂る前か枯れてからの方が見通しが良いでしょう。
鶴間池へ注ぎこむ池沢。
清吉新道の他の破線の道については、清吉新道の途中から河原宿の上方へ向かう横道、これを歩いた人は一人しか知りません。文殊嶽からの破線は千畳へ続く道、今は無し。西物見に見える破線はソブ谷地から続く道ですがこれも廃道。
その他にも地図を見れば太右衛門沢、白沢(シラソ)、ビヤ沢(ビヤソ)等々おもしろい名前がいっぱい出てきます。
ついでながら、この当時の「山と高原地図」にももちろん磁北線、偏差の数値は書いてありますが現在の「山と高原地図」には磁北線が朱色で引いてあります。
またしてもiwahige’s diaryさんのブログの風景「心字雪渓の夏」を見て遠くに見える河原宿小屋、そこでのお風呂を思い出しました。
河原宿、目の前が澄郷沢ですから水に不自由はしません。
夏の終わりの河原宿。秋も終わりとなればこの沢の流れも目に見えるところでは消えてしまいます。
右手に見える河原宿小屋の手前に少し出っ張っているところが風呂場です。昔の住宅でよく使ったパーパスのTP-A11Kとかいう一番安い風呂釜です。ガスはシーズン初めにプロパンのボンベを荷揚げしておきます。(当時のヘリの荷揚げで数百万かかるといっていましたが今はもっとかかるでしょう。)湯上りの誰もいない河原宿で鳥海山を見ながら一杯ひっかけるのは最高でした。
御浜の小屋にも風呂場はありますがあすこは100%天水。水はふんだんには使えません。ビールを冷やすのは鳥海湖の雪渓の残っているところまで背負子を背負って雪を取りに行きます。
鉾立の東雲荘にも風呂場はあります。あの頃の管理人斎藤さん(おじいちゃんです)は若い女の子が大好きで、下山してきた娘さんに声をかけます。「休んでけ~」
ある日鉾立へ下山してきた沖縄の女の子、鳥海山で沖縄の方はちょっと珍しかったです、斎藤さんの勧めでお風呂に入りました。あとから斎藤さん「あの沖縄の子よ~、風呂あがっど風呂の栓抜いだのよ~、あどの人入らんねー」
きっと自分が風呂を使ったままでは後の人に申し訳ない、綺麗にしておこうと思ったんでしょう。家庭のしつけが良かったというのか。東雲荘も山から水を引いてやっているわけですから水はあるとはいっても山小屋。山小屋の水事情を分かっていないとこういうことになってしまうんですね。