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以前から聞いていた二ノ滝への旧道、Ooeさんに案内していただいて行ってきました。かつては一の滝から二ノ滝へ行く道はなく、二ノ滝へはこの道を通って行ったそうです。今は歩く人もなく廃道状態。案内なしでは危険でしょう。
まずは不動明王像へ御挨拶。かつてはここも修験の場だったのでしょうか。
岩を飲み込む山毛欅を見て
鎖場の連続です。足元は落ち葉の堆積で滑りまくります。矢島口の舎利坂よりはるかに大変な所。雨後は危険、また夏場は藪が茂り刈り払う人もないため鎖場の急坂も足元が見えず危険でしょう。慣れない人を案内はできないそうです。
下から見るとそうでもないですが上から見下ろすと怠け切った体で無事降りることが出来るのかと思うほどです。もちろんカメラはザックへ、途中でiphoneでの撮影。
上から見る二ノ滝。写真では迫力がでませんが絶景です。
下りきっていつも見る二ノ滝の眺め。午後は雨の予報もあるし旧道を歩く目的を達したので今日はここまで。
一の滝も上から眺めてみます。滝の下部の崩れやすい地質と違って上は大きな岩盤。
この紅葉の向こうには天主森が。熊にも誰にも会わず良い山でした。
熊鈴の他に熊対策として持参したのがこの火薬銃。音も大きくたぶん効果はある?予備の火薬もついて八連発銃が796円、Amazonで購入しました。
風力発電反対のポスターを作製した縁で今日はスタンディングに。撮影は私ですので私は写っていない。
午前中スタンディング、午後から月光川へ鮭の遡上を見に。今年は例年になく少ないと話は聞いていましたがまったくその通り。いつもの所から見えるのはわずかにニ三匹。ガイドの案内依頼が来ていたのも断らざるを得ない状況だそうです。
連写で適当に写したのでこんなもの。婚姻色も過ぎ体はボロボロ、最後の姿ですね。
これだけ遡上する鮭が少なければ四年後はもっと少なくなるでしょう。洋上風力ができれば遡上する鮭は零にまでなるかもしれません。因果関係は証明できないので責任は無いというんでしょうねえ。
この写真の人形は制作時期が江戸末から明治初頃のもの。
色鮮やかです。
こちらは庄内押絵。始まりはお針修行だったとか。庄内藩では男女とも作っていたそうです。
蕨岡大物忌神社の近くにある国登録文化財の大泉坊長屋門、詳細は検索すればいくらでも出てきますので省略。
この門の前に立ち左方を見やれば下り坂。そのずっと下には一の鳥居が。
ここはかつての蕨岡大物忌神社への登拝道なのです。そして頭を右に巡らせばその先には大物忌神社の隋神門が。この大泉坊長屋門は登拝者にこれからまみえるであろう大物忌神社の偉容を知らしめる前触れとなっていただろうと思います。
この隋神門に行く前に少し後戻りして大泉坊の、読みは”だいせんぼう”です、門から奥を見るとそこには大きなお屋敷が。最近新聞記事に載った牧野富太郎が鳥海山に来た時の写真が発見された太田邸です。この四代ほど前の四代ほど前のご当主が太田宣賢、「鳥海山登山案内記」をあらわした方です。
あいおい工藤美術館を訪問したときに、館長と来訪者との会話を聞いていた時に大泉坊の建物ん移設の話がでたのですが、その後何かの本を読んでいた時このことが出ていて、ああこれかと思ったのですがいざ探すとその本が出て見つかりません。現在ある建物は以前あった大きな建物の離れなのだそうですがさて、かつてここにあった大きな建物が今はどこに行ったのでしょう。
それは酒田の鵜渡川原清原寺に移設されています。そんな時に見つけたのがこれ、清原寺ヒストリー。サカタ志田工務店が酒田の備忘録というものでも紹介しています。
遊佐蕨岡→鵜渡川原本堂の引っ越し
青原寺の本堂は、本来の寺院とは畳の敷き方が違っていたり、柱が足りなかったり、あるいは本堂横に2 階部屋があったりと、本堂内の敷居にふすまのレールがあったりと不思議だらけなのです。なぜなら、この建物はそもそも本堂ではなく遊佐の蕨岡にあった鳥海山信仰の山伏の宿坊だったものだからです。戦後の農地解放の際に、当時の金で百万円で払い下げ、移築されました。
それにしても極めて大きな建物ですね。当時は設計図などなくて,全て大工さんの現場仕事で解体、組み立てを行ったそうです。その資材の行列は蕨岡から鵜渡川原まで延々と続いたのだと先々代住職から聞かされたことがあります。昭和27 年竣工された本堂ですが、移築の際の基礎打ち(石突き)を檀家さんが総出で行いました。その時の克明な記録がアルバムとして残されています。自分たちの本堂を建てるという喜び溢た姿が活
されています。先人の宝物をその心とともに大切にしていかなければなりません。
ある方に言わせれば蕨岡の黒歴史。蕨岡旧家の絵図は今も古書市場に出ています。蕨岡では護摩壇も焚きつけにしたりと歴史的遺産は失われ足りちりじりになりつつあるようです。せめて旧登拝道は残したいものです。滝沢口はそういった努力をしているのですから。