1983,4年頃、私はまだ30代の半ばだったが、その頃が一番よく瞑想していたと思う。
一人暮らしだったので、休日はほとんど一日中瞑想していたぐらい、「瞑想おたく」?だったこともある。
その時に全身を貫くエネルギーの衝撃的な上昇(今から思えばそれは「クンダリーニ」の上昇だった気がするが)を経験したり、周囲が急に黄金色に輝き出すような不思議な体験もあった。
尾てい骨が熱くなって困ったこともある。
けれどもそういう「指導者無しの瞑想は危険を伴うこともある」とある方から教えられ、それ以後はあまり凝り過ぎないように気を付けるようになった。
そういうわけで私の瞑想は未だに我流のままで、ちゃんとした瞑想になっているのか?どうかは今もわからない。
テレパスアート(以前はヒーリングアートと呼称していたが)を描くようになってからは、なぜかあまり深い瞑想が出来なくなってしまった。
それはどうやら絵を描いている間はすでに「瞑想状態」に入っている?らしいこととも関係しているのかもしれない。
もちろんそうは言っても例えばその途中で宅配便が届いたりといった時には、ちゃんとドアを開けて対応することも出来るので、意識がぶっ飛び過ぎてどこか異次元?や別世界を彷徨っているというわけではない。
半分の自分はちゃんと覚醒?していて、意識的に画面に向かっている部分ももちろんあると思う。
そして絵を描き出しての変化といえば、もう一つある。
自分のことについてはなかなか描けなくなってしまったことである。
その理由についてはわからないのだが、例えば描いてみても絵の中に自分が登場しないのである。
その代わりというわけでは無いが、他の人の絵を描きながら、その人のことがまるで自分のことのように思えたり、共時性というか、相前後してその絵と同じような体験をしたりといったことも多い。
例えば俳優さんたちがある鬱の人を演じているうちに、自分も鬱っぽくなってしまう?ということもあると聞いたことがあるが、こういうのを「イタコ体質」というのだろうか?
そういえば、恐山のある若いイタコさんが、その仕事を始めて間もなくの修行時代に(経験が足りなかったためか?)救急車で運ばれたこともあったという笑えない話も、どこかの雑誌記事で読んだことがある。
鮭が産卵のためにふるさとの川の上流を目差して遡っていく時、その身もぼろぼろになりながら泳いでいくように、こういう仕事をするものは誰も皆そのからだを(こころも)遣って、「真実」を得ようと真剣に努めていると思う。
それでも時にはうまく産卵場所まで辿り着くことが出来ずに、その一歩手前でダウンしてしまうこともあるだろう。
それは決してその固体の能力だけの責任というわけでは無く、その環境に阻まれたためということもあり得る。
手渡したかったもの(次世代へのいのちのメッセージ)をバトンタッチ出来なかったその無念を思う時、遺された者たちはそれをしっかりと引き継ぎ、伝えていく責任があると感じる。
………………………………………………………………………
アルジェリア人質事件で身代わりとして犠牲になられた十名の尊いいのちに、深い畏敬の念を持って心からご冥福をお祈り申し上げます。
下記の『メディテーション』の絵を追悼に代えて掲げ、
地球だけではなく「宇宙」の平和も心より祈りつつ。

(無断転載、コピー等はご遠慮ください)
一人暮らしだったので、休日はほとんど一日中瞑想していたぐらい、「瞑想おたく」?だったこともある。
その時に全身を貫くエネルギーの衝撃的な上昇(今から思えばそれは「クンダリーニ」の上昇だった気がするが)を経験したり、周囲が急に黄金色に輝き出すような不思議な体験もあった。
尾てい骨が熱くなって困ったこともある。
けれどもそういう「指導者無しの瞑想は危険を伴うこともある」とある方から教えられ、それ以後はあまり凝り過ぎないように気を付けるようになった。
そういうわけで私の瞑想は未だに我流のままで、ちゃんとした瞑想になっているのか?どうかは今もわからない。
テレパスアート(以前はヒーリングアートと呼称していたが)を描くようになってからは、なぜかあまり深い瞑想が出来なくなってしまった。
それはどうやら絵を描いている間はすでに「瞑想状態」に入っている?らしいこととも関係しているのかもしれない。
もちろんそうは言っても例えばその途中で宅配便が届いたりといった時には、ちゃんとドアを開けて対応することも出来るので、意識がぶっ飛び過ぎてどこか異次元?や別世界を彷徨っているというわけではない。
半分の自分はちゃんと覚醒?していて、意識的に画面に向かっている部分ももちろんあると思う。
そして絵を描き出しての変化といえば、もう一つある。
自分のことについてはなかなか描けなくなってしまったことである。
その理由についてはわからないのだが、例えば描いてみても絵の中に自分が登場しないのである。
その代わりというわけでは無いが、他の人の絵を描きながら、その人のことがまるで自分のことのように思えたり、共時性というか、相前後してその絵と同じような体験をしたりといったことも多い。
例えば俳優さんたちがある鬱の人を演じているうちに、自分も鬱っぽくなってしまう?ということもあると聞いたことがあるが、こういうのを「イタコ体質」というのだろうか?
そういえば、恐山のある若いイタコさんが、その仕事を始めて間もなくの修行時代に(経験が足りなかったためか?)救急車で運ばれたこともあったという笑えない話も、どこかの雑誌記事で読んだことがある。
鮭が産卵のためにふるさとの川の上流を目差して遡っていく時、その身もぼろぼろになりながら泳いでいくように、こういう仕事をするものは誰も皆そのからだを(こころも)遣って、「真実」を得ようと真剣に努めていると思う。
それでも時にはうまく産卵場所まで辿り着くことが出来ずに、その一歩手前でダウンしてしまうこともあるだろう。
それは決してその固体の能力だけの責任というわけでは無く、その環境に阻まれたためということもあり得る。
手渡したかったもの(次世代へのいのちのメッセージ)をバトンタッチ出来なかったその無念を思う時、遺された者たちはそれをしっかりと引き継ぎ、伝えていく責任があると感じる。
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アルジェリア人質事件で身代わりとして犠牲になられた十名の尊いいのちに、深い畏敬の念を持って心からご冥福をお祈り申し上げます。
下記の『メディテーション』の絵を追悼に代えて掲げ、
地球だけではなく「宇宙」の平和も心より祈りつつ。

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