急にあったかくなりましたね。
いつもご愛読ありがとうございます♪
先日の話『最期に食べたカップラーメンの話』☆ の続きを書きます。
といっても大したことでは無いのですが、
コバシャールさんがお父さんにどうしてそんなにしてまで身体に良いものを食べて欲しかったかというと、それは決して彼の「押しつけ」というわけでは無いと思うのです。
コバシャールさんは、ご自分でも話しておられますが、それまでお父さんとはあまり仲が好く無かったというか、うまくいっていなかったようで、でもだんだんに仲良くなって来て、お互いに少しずつコミュニケーションが取れるように変わって来ていた時期だったので、余計に熱心になられたのではないかと思います。
「食べ物」の「食」という漢字は「人が良くなる」という意味にも取れるそうで、彼は人が変わるにはまず「食べ物から~」(良いものを食べることで人は良くなる)と考えられたようです。
お父さんに変わって欲しいという想いがあったからこそ、コバシャールさんはまずお父さんの「食べ物」を変えていこうとされたみたいです。
「人を変えることは出来無い」「人に変わって欲しいと思うならまず自分が変わること」というのは、アドラー心理学でも、また精神世界の考え方でも基本中の基本だと思います。
彼もそういうことはもちろん解っていて、でもなおかつあきらめないというか、「もう歳だから~」とか、「残されたいのちがあまり無いのだから~」などと考えずに、「話し合って変わることは無いとしたら、せめて食べるものを変えてみてはどうだろう?」と思われたようです。
その底にはもちろんお父さんへの「愛」があるからであって、彼は決してお父さんを自分の意見に従わせたいとか、お父さんの価値観を変えたいとか、一方的に相手を変えようとしたわけでは無く、この世には「こういうものの考え方もあるのだよ~」とか、美味しいものも、からだに好いものもたくさんあるのだから、「いろんなものを味わって欲しい」「違う考えもあることを知って受け容れて欲しい」「自分(コバシャール)のやり方も少しは認めて欲しい・・」というような、そういう深い願いがあったからではないかと思います。
ある意味では、「何でも相手のしたいようにさせてあげる」のが「愛」では無い場合もあるのです。
なので、このあたりの感覚というか、「似て非なるもの」と「ほんもの」を見分けるのが難しいように、その時のその場の状況やさまざまな要素があるので、実際に何が好くて何が正しいのか、何をしてあげるのが一番相手のためになることなのか、「ほんとうの愛とは何か?」ということは、なかなか判断がつきにくいことだと思います。
私も今でも毎日「あの時のあの判断はあれでよかったのか?」
「あの時、もっとああしていれば、こうしていれば・・・」と、亡くなった娘のことを思い返す度に苦しくなったり、自分を責めてしまうこともあります。
病氣で亡くなった場合でもそうなのですから、突然の震災や事故、思いがけない自死などで家族や友だちを失ったりした場合はさらにそういう想いも強いことでしょう、、。
話が少し本題から外れてしまいましたが、要するに私の言いたいことは、「どういうふうに死んでも、どういう死に方でもオッケーなんだな」と、コバシャールさんの話から感じたということです。
(これはもちろん「いのちの尊厳」を前提にしての話ですが)
人はよく「生きてきたように死ぬ」と言いますが、人生の最後の最期まで「それまでの自分の生き方」をそのまま貫き通して自分を変えることなく、自分らしく?死んでいくというのもカッコいいかもしれないし、他方、死ぬ間際に「洗礼」を受けたり、「回心」したり、新しい生き方や考え方、全く違ったものの見方を選ぶこともまた、素晴らしいことなのではないかと思います。
だからこそ、例えばコバシャールさんはお父さんに一つでも美味しいものを食べてもらい、「この世にこんな旨いものがあったのか!?」とか、少しでもからだのためになるものを摂取してもらって体力を維持してもらったり、、、ともかく一つの考え方だけとか、これまで馴れ親しんできたものだけに固執したりするのでは無く、この世の最期の瞬間であっても、人は「新しい経験」をすることも出来るし、これまでとは違った選択をすることも出来るということを、お父さんに知ってもらいたかったのではないかと、私は勝手ながら拝察したのですが、皆さまは果たしてどう思われたでしょうか。
それこそがコバシャールさんの、お父さんへの最期の「愛」のギフトだったのかもしれませんね。
でもお父さんはそのギフトを受け取らなかった!?
いいえ、お父さんはコバシャールさんのその「愛」をもちろん解りながらも、あえて息子のためにも!?「 自分自身の選択」をしてみせたのではないかと私は感じます。
これは人生の最期の瞬間だけに限らず、毎瞬毎瞬が、ほんとは自分にとって、そういう「選択と決意の連続」ということでもあると思います。
そして、結局どっちを選んでもいいのだと。
人生には間違いも失敗も無く、ただ自分は「どういう体験を選ぶのか」ということだけではないでしょうか。
思わず熱く語ってしまいました。
他の人がどう感じようと、何を言おうと、自分は自分の感じたことを表現し、好きなものを選び、好きなように生きることの出来るこの「自由」☆ のありがたさに深く感謝です。
いつもご愛読ありがとうございます♪
先日の話『最期に食べたカップラーメンの話』☆ の続きを書きます。
といっても大したことでは無いのですが、
コバシャールさんがお父さんにどうしてそんなにしてまで身体に良いものを食べて欲しかったかというと、それは決して彼の「押しつけ」というわけでは無いと思うのです。
コバシャールさんは、ご自分でも話しておられますが、それまでお父さんとはあまり仲が好く無かったというか、うまくいっていなかったようで、でもだんだんに仲良くなって来て、お互いに少しずつコミュニケーションが取れるように変わって来ていた時期だったので、余計に熱心になられたのではないかと思います。
「食べ物」の「食」という漢字は「人が良くなる」という意味にも取れるそうで、彼は人が変わるにはまず「食べ物から~」(良いものを食べることで人は良くなる)と考えられたようです。
お父さんに変わって欲しいという想いがあったからこそ、コバシャールさんはまずお父さんの「食べ物」を変えていこうとされたみたいです。
「人を変えることは出来無い」「人に変わって欲しいと思うならまず自分が変わること」というのは、アドラー心理学でも、また精神世界の考え方でも基本中の基本だと思います。
彼もそういうことはもちろん解っていて、でもなおかつあきらめないというか、「もう歳だから~」とか、「残されたいのちがあまり無いのだから~」などと考えずに、「話し合って変わることは無いとしたら、せめて食べるものを変えてみてはどうだろう?」と思われたようです。
その底にはもちろんお父さんへの「愛」があるからであって、彼は決してお父さんを自分の意見に従わせたいとか、お父さんの価値観を変えたいとか、一方的に相手を変えようとしたわけでは無く、この世には「こういうものの考え方もあるのだよ~」とか、美味しいものも、からだに好いものもたくさんあるのだから、「いろんなものを味わって欲しい」「違う考えもあることを知って受け容れて欲しい」「自分(コバシャール)のやり方も少しは認めて欲しい・・」というような、そういう深い願いがあったからではないかと思います。
ある意味では、「何でも相手のしたいようにさせてあげる」のが「愛」では無い場合もあるのです。
なので、このあたりの感覚というか、「似て非なるもの」と「ほんもの」を見分けるのが難しいように、その時のその場の状況やさまざまな要素があるので、実際に何が好くて何が正しいのか、何をしてあげるのが一番相手のためになることなのか、「ほんとうの愛とは何か?」ということは、なかなか判断がつきにくいことだと思います。
私も今でも毎日「あの時のあの判断はあれでよかったのか?」
「あの時、もっとああしていれば、こうしていれば・・・」と、亡くなった娘のことを思い返す度に苦しくなったり、自分を責めてしまうこともあります。
病氣で亡くなった場合でもそうなのですから、突然の震災や事故、思いがけない自死などで家族や友だちを失ったりした場合はさらにそういう想いも強いことでしょう、、。
話が少し本題から外れてしまいましたが、要するに私の言いたいことは、「どういうふうに死んでも、どういう死に方でもオッケーなんだな」と、コバシャールさんの話から感じたということです。
(これはもちろん「いのちの尊厳」を前提にしての話ですが)
人はよく「生きてきたように死ぬ」と言いますが、人生の最後の最期まで「それまでの自分の生き方」をそのまま貫き通して自分を変えることなく、自分らしく?死んでいくというのもカッコいいかもしれないし、他方、死ぬ間際に「洗礼」を受けたり、「回心」したり、新しい生き方や考え方、全く違ったものの見方を選ぶこともまた、素晴らしいことなのではないかと思います。
だからこそ、例えばコバシャールさんはお父さんに一つでも美味しいものを食べてもらい、「この世にこんな旨いものがあったのか!?」とか、少しでもからだのためになるものを摂取してもらって体力を維持してもらったり、、、ともかく一つの考え方だけとか、これまで馴れ親しんできたものだけに固執したりするのでは無く、この世の最期の瞬間であっても、人は「新しい経験」をすることも出来るし、これまでとは違った選択をすることも出来るということを、お父さんに知ってもらいたかったのではないかと、私は勝手ながら拝察したのですが、皆さまは果たしてどう思われたでしょうか。
それこそがコバシャールさんの、お父さんへの最期の「愛」のギフトだったのかもしれませんね。
でもお父さんはそのギフトを受け取らなかった!?
いいえ、お父さんはコバシャールさんのその「愛」をもちろん解りながらも、あえて息子のためにも!?「 自分自身の選択」をしてみせたのではないかと私は感じます。
これは人生の最期の瞬間だけに限らず、毎瞬毎瞬が、ほんとは自分にとって、そういう「選択と決意の連続」ということでもあると思います。
そして、結局どっちを選んでもいいのだと。
人生には間違いも失敗も無く、ただ自分は「どういう体験を選ぶのか」ということだけではないでしょうか。
思わず熱く語ってしまいました。
他の人がどう感じようと、何を言おうと、自分は自分の感じたことを表現し、好きなものを選び、好きなように生きることの出来るこの「自由」☆ のありがたさに深く感謝です。