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第四の福音書『ヨハネ』

2012-04-06 19:05:28 | 焚書/解体


現実の歴史ではない福音書の中でも発生の遅い
『ヨハネ』の特徴は一層の史実性の薄さ。イエスの生涯の中で圧巻である"ラザロの復活"が先行する福音書に全く登場していない時点で話が創作だと見抜けなければならない。







 著者
ヨハネ21:24
「これらの事について証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」
 
文中で著者は直弟子(使徒ヨハネ)ではないこと、また宣教目的で書いた旨も告白している。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため…」(ヨハネ20:31)

 独特の構成
【独自の発言集】
『ヨハネ』にはイエスが一人称
わたしはで語り掛ける台詞が100を超える勢いで登場する。この形式は『マルコ』には数える程しかない。
【独自の物語】
ヨハネ伝の内容は胸のすくイエスの奇跡譚。言行録というよりは完全な比喩、形而上学的表現で構成されている。パンを増やす6章 -「わたしが命のパンである」(6:35) 盲人を癒す8章 - 「わたしは世の光である」(8:12) ラザロを蘇生する11章 - 「わたしは復活であり、命である」(11:25)
【伝道期間】
およそ3年間というイエスの伝道期間はこの史実性の薄い『ヨハネ』に基づいている(3度の過越祭の記述(2、6、11章))。


 神殿の浄化
ヨハネ2:15-16
「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」」
 
イエスが商人達を追い払うエルサレム神殿事件が『ヨハネ』では序盤(2章)に登場する。共観福音書ではこの行為がユダヤ当局の不安を買い逮捕に繋がるが、『ヨハネ』ではイエスを十字架送りにするのは蘇生事件の衝撃なのである。

「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」」(ヨハネ11:47-48)


 異教的な救世主像
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)
ヨハネ独特の語りは明らかにエジプトのテキストにヒントを得ている。イエスは道であり、エジプトの神ホルスも救済への道であった。イエスは世の光であり、ホルスもまた神の光であった。イエスは命のパンであり、ホルスもまた神の穀物であった。
「我は栄光のホルスなり」「我は神の光なり」「我こそは天への道を知る者なり」(『エジプト死者の書』78章)


 ラザロとは誰か
ラーとも互換性のあるもう1人のエジプトの太陽神も『ヨハネ』には出演している。イエスは「眠っているだけだ」と言いラザロを墓場から蘇生する。ホルスは「出よと命じられるのを待ちながら、自身の安息の場アヌで死にはせず、眠っている」父オシリスを墓場から蘇らせる。

オシリス(ギリシャ名)の古代名[アサル]にヘブライ語の冠詞を足すとエルアサル。ラザロのヘブライ名はエルアザル(旧約のエルアザル)。
http://freett.com/wolf_man/mcr/mokuji_eg.htm
>キリスト教ではラザルス


 贖罪論
歩いておられるイエスを見つめて 「見よ、神の小羊だ」と言った(ヨハネ1:36)
イエスの処刑日は『ヨハネ』では木曜日過越祭の前日に変更されている。
これは過越祭の準備日の正午過ぎに祭司(ラビ)が
過越の小羊を屠るしきたりにイエスを重ね合わせた描写であると言われている。
「(処刑決定は)過越祭の準備の日の、正午ごろであった」(ヨハネ19:14)
「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」(マルコ15:25)


『マルコ』『マタイ』のイエスは死に際して絶望し切っており、共観福音書にパウロ的な贖罪論の色は薄い。『ヨハネ』のみがイエス=「世の罪を取り除く生贄」と説明している唯一の書である点に注目していただきたい。


 見ずに信じる者は幸いである
ヨハネ20:29
イエスは彼(トマス)に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。
 
考えずに信じ込む事が信仰、吟味・検証したりする事が神への背信・不信仰に当たるとしたら…それはもはやマインド・コントロールに他ならない。

思考停止に陥りただ信じ込むロボットになれと命じるこの“み言葉”は、半開きの口のまま世界中で人間狩り、特大規模上のゆすりを続けたキリスト教洗脳兵士と明らかに響き合っているように思える。 (『ヨハネ』のみの記述)

考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです」 「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです」 - キリスト狂信者に殺害(415年)された知識人ヒュパティアの言葉

画像出典:  

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コメント (10)
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