ローマ帝国が抑圧に困ったキリスト教を統治機構の内に取り込むまでの経緯を最後に確認しておこう。ローマ帝国の東端で生まれた新宗教は4世紀の為政者にその高い組織力が着目される頃までには、無知な一般レベルへの適合に長けた西洋人キリスト教への奇怪な変形を遂げていた。
![]() コンスタンティヌスの過失は、キリスト教の美しい"人道主義"の覆いに隠された偏狭さ、凶猛性を見抜けなかった点にあろう。異質なものとの共生ができない未熟で不名誉な装置を後世に残す事になるとは、考えもしなかったのではないか(母はキリスト教徒だった)。哲人皇帝ユリアヌスはそのコストを見抜き、ローマの美術品を破壊するキリスト教徒に怒りの目を向けた。
コンスタンティヌスの生涯の信仰が不敗の太陽神ソルと共にあった事は念頭に置く必要がある。彼は2体の像を造り1体は母神キュベレ、もう1体は自身 ![]() 死に際してコンスタンティヌスはキリスト教の洗礼を受ける。彼は崩壊して行こうとする落日のローマ帝国の再建をキリスト教に託すのである。 画像借用元: Ancient Coins Chronicles ![]() ![]() |