ODORAMOX!

BABA庵から  釣り糸なんぞが ごちゃごちゃ こんがらかった状態を ここでは「オドラモクス」と言う。

こだわり

2006-01-08 10:23:11 | 世の中
写真は年末にいただいたシンビジウム。外では冷たいあられが降る中で水仙がほころんでいる。スミレも咲き出した。ここではいつの季節も花がある。
「四季のある日本の自然は美しく、ここに生まれたことを幸せに思う」とよく聞く。熱帯の自然は美しくなく、人は不幸なのかな。北極圏も美しくなく、人も不幸なのかな・・・「そんなことは言ってないよ!」と返事が来るだろう。あたりまえ。
ただ「四季」にこだわってしまうと、砂漠や熱帯雨林の美しさにが見えなくなるだろう。

東条布由子という人がいる。かつて「東条」という姓ではなく『いっさい語るなかれ』と祖父の東条英機の遺言を題にした本を出版した。家庭人としての祖父の思い出を描いたものだが、それを中国で出版したいという希望がつのり、相談を受けたことがある。友人の中国人が本を真剣に読んで検討してくれたが、「家族の情愛はわかるけれども・・・思いが違う。翻訳はしたくない」と断ってきた。「視野がせまかった、遺言にこめた祖父のきもちを理解していなかった」と小さくなっていた布由子さんが、それから数年ののちに「東条」姓で社会面にあらわれて「首相は靖国に参拝してください」と言ったのには驚いた。[いっさい語るなかれ]の遺言にそむいたとか非難するつもりはないが、表情も変わっていて同じ布由子さんとは思えなかった。

家族愛はたいせつなもの、自らが生まれ育ち親しんだ場を尊ぶきもちも自然なもの、しかし、こだわってしまってはいけないと思う。こだわり=固執から生じるものはいびつになる。
すばらしいものは人間の数以上に無限にあるのに、何かにこだわるとそれらが見えなくなってくるから。

以上、「国家」へのこだわりがいろいろなかたちで喧伝されていくなかで、思ったことである。

西山の雪化粧

2006-01-06 22:08:38 | 花鳥風月
北国は大変な雪に人々が格闘していて、こちらの台風もすごいけど、雪の威力のすごさにそのご苦労を思います。あしたはここでも雪の予報、南の島でも雹も雪も降りますが、つもることはないなか、富士がめずらしい雪化粧。雨がやんで雨雲がとれたら山頂が白くなった姿を見せて、あわててデジカメをとりだしたけど電池切れ!で、この写真はこちらのすてきなお母さん「ハローさん」が撮ったものを贈っていただきました。
ハローさんのブログ → http://blog.livedoor.jp/hello9/

お茶する?インターネットする?

2006-01-04 12:42:46 | 言語の表現
中国語でインターネットは「網」、そして「上網」ということばがある。
「インターネットをする」と日本語にしながら、「ヘンな日本語」と思った。

「テレビをする」なんて言わない。テレビは見るものだから「テレビを見る」。中国語でも「看電視」。
しかしインターネットは「ネットに接続する」「サイトを見る」「サイトに書き込む」「サイトを創る」「通信する」・・・といろいろな動詞が対応するもの。さて、一言で言うには?

中国は「上」を、日本は「する」をあてた。
「上」は「乗る」とか「登場する」という動詞になることばで、「上車」「上場」などと使われるから、「上網シャンワン」はするっと違和感なく生活にはいりこめる。
この勝負、中国の勝ち。勝敗の分かれ目は、インターネットを「網」と自国語で訳語をつくったこと。カタカナ語にするしかできなかった日本語の負け。
(中国には音訳の「因特納」ということばもあります)

かつて「フィロソフィ」とか「エコノミイ」を「哲学」「経済」と翻訳したのは日本で、中国語にそのままとりいれられていった。
いま、日本でカタカナ語の「コンピュータ」は、北京で「電子計算機」、香港で「電脳」と訳され、後者が圧倒していき、日本人もコピーによく使う。
カタカナ語の見直しをしていくなら、中国のすぐれた訳語をどんどんとりいれていく手もある。
電車の乗り降りで言う「乗車」と「下車」、「降車」と言わずに中国語のまま使っているわけだし・・・。

拍手はしても fan にはならないこと

2006-01-03 19:26:20 | 世の中
藤原正彦『国家の品格』・・・ベストセラーになっているけど、読んだ?

書かれていることひとつひとつに「同じこと考えてる!」と共感することばかりで、話題豊富なうえ、文章もユーモラス。みんなにすすめたい本だなと思いながら一日で読み終え「おもしろそうジャン、読むよ」と言った息子にあげてきた。

著者は『ケンブリッヂ・カルテット』だったかおもしろい本を翻訳していて気になっていた数学者で、ここでも紹介したことがある。

しかし、違和感を感じたところがひとつ。「平等思想によって1500年もつづいた万世一系の伝統を破る」というくだり。これは彼の「皮肉」だと解釈しようとしたが、ひっかかってしかたなく、さらに前著の『祖国とは国語』を読んでみる・・・と、
「この本を出したなら、なんでまた『国家の品格』を出すの?」というくらい、同じ内容がくりかえされている。
こういう出版のしかたは喧伝、つまり後者はプロパガンダのために出された本ではないか。
本のタイトルに使われたことばが「祖国」から「国家」へ変わっているけれど、
そのように取り上げられるために造られた本なのだろう。

それに気づいたのは新聞の広告。
全5段の大きな広告に書かれた宣伝文句は、ことさらに日本を美化する部分を強調していて、自分が読んだ本の広告とは思えないくらい・・・共感した部分の内容はまったくなかった。

あるベストセラーの著者が言っていた。
「この一行を読んでほしいから、あれこれと読者の気をひく文章を200ページあまり書いた」
藤原正彦氏が読者に「ここを読んでほしい」というのは、どの一行だろう?

とてもおもしろい本に出会うと、著者のファンになっていき、「この人の本だから」読むようになる。そのうち「この人の言うことだから」と思うようにな・・・ってはいけない。
英語のfanは熱狂的だけど、日本語の「ひいき」はちょっとちがう。

「そうだ!そうだ!」と手をたたいて読むほうが楽だけど。