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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

個人的楽しみとその限界 <AV出演強要と受動喫煙対策>を読んで

2017-02-09 | 健康に生きるとは

170209 個人的楽しみとその限界 <AV出演強要と受動喫煙対策>を読んで

 

今朝は小雪舞い散る寒さと思いきや、しばらくして細雪ならぬ粉糠雨のようなじょうたいになり、ま、これも風情を感じさせてくれます。

 

子規の俳句もfb投稿の際は活用させてもらってきましたが、このブログでも使わせてもらおうかとふと思って取り上げました。

 

初雪やかくれおほせぬ馬の糞

 

なんとも愉快な気分にさせてくれる俳句の一つのように思います。これは明治18年の作ということですから、東大受験のため故郷松山から意気揚々と上京して、東京の街を闊歩していたころでしょうか。漱石、熊楠、秋山真之らとも交流していた頃でしょうか。なにかほのぼのとしつつ、馬糞の新鮮さと強い存在感を浮きだたせていて、田舎の素朴さの中に将来の日本を背負って行こうという初々しい情熱を感じるというのは、彼の人生を読み込みすぎかもしれません。

 

馬糞が仮に文明開化が進む東京の路上に落ちていたということはありうるかですが、当時はせいぜい銀座や霞が関、皇居周辺くらいで都市化が進んでいた程度で、一歩外に出ると、下町などは馬による運搬がふつうだったのではないかと思うのですが、確認できていません。というか、新都建設中のレンガ街はもちろん、どこでも交通手段としては、有力政治家も閣僚も、豊かな企業家なども、馬車を利用していたでしょうから、馬糞は意外とあちらこちらに落ちていたのではないかと思うのです。

 

その意味では、同じ馬糞でも田舎とは様相が違うかもしれませんし、初雪も故郷松山ではあまり経験がないでしょうから、いずれ新しい前途洋々の人生にうれしい景色だったのではと思ってしまいます。

 

と前置きはその程度にして、見出しの毎日記事、二つが社会面に掲載されていましたが、いずれも日本の長い歴史の中で、その楽しみを奨励されたり、あるいは制限されたり、そして最近ではその制限強化が強まる一方のようにも思えます。

 

いずれも楽しみというか、欲望というか、そういった類のものですが、その性質や社会的背景、その楽しみを成立させている構造は大きく異なります。一緒に扱うことは不適切ともいえるでしょう。が、あえて一つずつ取り上げつつも、なにか共通するものがありはしないかを少し考えてみたいと思っています。

 

AV出演強要という記事自体は、内閣府によるモデルやアイドルの勧誘を装った性的被害の実態調査ということで、その勧誘方法として、契約時に説明がないとか、契約も同意もしていない性的行為の撮影がされたなどの問題がクローズアップされています。

 

この問題は、毎日の動画ニュースで配信されている<AV問題:「“女優”は搾取されるだけ」上下で、取材に応じている支援団体が話す深刻な実態に繋がっている点に、感化されてはならなない内容だと思うのです。

 

そこで指摘されている言葉は強烈です。<演技者を作っているわけではなく、女性の世紀の使用権をただ使い捨てにしているだけの話>という点です。そこには使い捨てにされる女性がいます。しかも少なくない数の人が自ら高い給料を目当てにウェブ検索で簡単に探し当てたところに、自ら進んで申し込みしています。むろんその実態を知っている人はほとんどいないのです。一旦、プロダクションなどの事務所に入れば、使い捨てにされ、逃げるに逃げられない状態となるようです。むろん監禁とかではないでしょうから、逃げようと思えば逃げられるかもしれません。しかし、経済的に困窮した生活から這い上がるために入って、その収入だけが頼りであれば、容易に抜け出せなくなる構造になっているのだと思います。

 

それは次の段階には性行為に発展することも少なくないでしょう。売春防止法や風俗営業法のほか、各種条例による規制で、一定の歯止めがかかっていますが、AV産業が隠れた形でその橋渡しをしている面もあるでしょう。

 

そこには、制作を指示する事務所やスタッフの組織が目前にいるばかりか、その背後には二重、三重に、管理するシステムがあり、販売組織があり、大きなAV産業が成立しているわけです。ではなぜ肥大化するのでしょうか。AV女優がいるからでしょうか、男優がいるからでしょうか、映画を製作・配給する業者がいるからでしょうか、資金を出し金儲けをたくらむ人がいるからでしょうか。それだけではないですね。当然、膨大な数の消費者が世界中に、次々と再生産されています。

 

AV映画の鑑賞それ自体は、個人の楽しみであったり、欲望の追及でしょうか。それぞれの自由の領域とされているように取り扱われていると思います。他方で、売春を許容していた時代のように、このようなAV映画によって性的欲求が満たされ、その結果、女性への強要的な性的行為が抑えられるといった意見がいまなおあるかもしれません。

 

私自身は、後者の考え方については知りませんが、合理的な根拠があるとは思えません。実際、性犯罪の事件を扱ったわずかな経験では、その加害者の家には膨大な数のAV映画のDVDが積み上げらえていて、よくこれだけ見るものかと驚くばかりです。DVDだけでなく、現在ではウェブ上のAV映画が氾濫しているわけですから、これらもどれだけ見られているのでしょう。

 

これらの鑑賞によって、性的欲求がコントロールできる場合もあるかもしれません。しかし、このような映画がない時代、性的犯罪が多かったでしょうか。統計的データがないので正確なことは言えませんが、これらの映画によって、性的犯罪が減ったり、性行為の強要などが減ったりしているというデータがあるとは思えません。むしろ増えているのではないかと思うのです。

 

いろいろ書いてきましたが、AV映画は、意に反する性的行為や露出行為をさせられる女性、場合によっては男性だけの問題ではないと思います。その映画を購入するなど消費する人たちの問題性をしっかり取り上げていく必要を感じています。

 

とりわけ公開の場での広告表示、ウェブ上での掲載は、きわめて有害性が強く、多くの人に嫌悪感を与えるばかりか、潜在的な消費者の欲望を生み出し、新たな性のとりこにさせてしまう恐れもあります。

 

まだ、きちんと喫煙問題(受動喫煙対策)との関係を整理できていませんが、ここまで書いてきて、少し共通点らしきものを、感覚的に感じています。

 

一つは、喫煙を楽しむ人は、それこそ個人の自由な行為であり、その健康への害は自分の責任で受け入れるのだから、誰からも文句を言われる筋合いはないといった意見も一つ有力かもしれません。それ自体は、私自身、一定の合理的な理由と考えます。

 

しかし、すでにたばこ病とまで言わなくとも、たばこのがんリスクを含む健康被害との因果関係は証明尽くされています。そしてそれは喫煙だけでなく、副流煙など間接喫煙の害も大きいとされています。

 

たばこは、わが国に持ち込まれて以来、身分の上下関係なく、多くの人に愛され、農民の間では、その一服を楽しみに、つらい農作業をしていた記録がすくなくありません。そして長くたばこ税として、国家の財政を担う重要な税負担の役割を続けています。それを突然、方向転換するような、最近の、急激な制限施策には、たばこ愛好者にとっては酷かもしれないと思うこともあります。

 

しかし、戦前の、のどかなたばこを楽しみで吸う様子とは、戦後の急激な喫煙量は異常ではないかと思うのです。戦後の進駐軍時代から、また、その後もさまざまな段階で、アメリカたばこ産業の施策の影響もあったとおもわれます。その一つは、アメリカの医療費増大に多大な影響を与え、何十兆円だったか、費用負担を命じられたたばこ産業が今度は日本をはじめ海外輸出を強力に推し進めました。

 

その過程の中で、たばこの宣伝は一時、巨大な費用をかけ、どこでもどのような媒体にでも、また、終日、たばこを吸うことを奨励するような広報が、映画の内容も含め、健在的、潜在的にも、行われて、多くの人が無意識の中で喫煙が望ましいものとして、しかも大量に消費されたように思うのです。

 

喫煙しながら、飲食するのは当たり前、それも、わが国特有の小さな居酒屋やスナックで、なじみの人たちと楽しむことは、仕事や社会関係につかれた人々にとって、ゴルフやテニス、海外旅行といった高額な費用をかけないで済む、数少ない楽しみかもしれません。それをも奪ってしまう、今回の喫煙制限は、相当厳しいものと映るでしょう。自民党の、一部例外を認める対応は、一定の限度でやむを得ないかもしれません。

 

ただ、なぜたばこが抑制されないといけないのか、誰もが利用できる場所で禁止されるのか、それについて、基本的な理解を得ることが、まだ道半ばかもしれないという意味であって、そういう意識が普及すれば、次の段階に移ることを期待したいと思うのです。

 

こう書いてきて、個人の楽しみには、自分自身にも一定の有害な要素があること、そしてそれが関係のない第三者にもより強い有害な結果を及ぼすおそれがあること、という抽象的な意味で、共通する問題と感じました。その楽しみと抑制のバランスをどの程度にするかは、不断に現実の状況を検証して、見直していく必要がある問題かと思うのです。