170220 不安とのお付き合い <老後不安なシングル女性>を読んで
今日も仕事がなかなか進まず、やり残しがあるものの、ブログを書く余裕がなくなりそうなので、一休みして?今日はなにを書こうかと少しネットサーフィンをしましたが、簡単にはみつかりそうもありません。それでいくつかの記事を参考に、上記のテーマを考えてみたいと思います。
今朝は玄関の戸を開けるとなんと少しムッとするような生暖かい風が吹き抜けます。車の中は結構冷えているのに、早朝の急激な気象変動?が起こったのでしょう。だいたい風はどのようにして起こるのでしょうか。フェーン現象とか「やませ」とかは有名で、一定の開設がされているようですが、そもそも論になると、どうもわかりません。江戸時代は風を論じることが重要で、庶民の中でも多様な名称が使われていたようですが、維新後は西欧化の中で忘れ去られたようですね。風の文化も大切にしたいと思う、終日その揺れや音に驚く突風につい日頃の思いが漏れてしまいました。
さて、本論に入ろうかと思いますが、不安はいろいろありますね。ある意味、数えきれないものかもしれません。そして強弱はあってもいつまでも続くものは少ないかもしれません。肉体的な痛みも、精神的な痛みも。人間の脳は記憶する一方で、忘れるとか、どこかに貯蔵しておいてなるべく思い出さない機能もあるようです。とはいえ不安の内容によっては、容易に対処できないというか、ますます深まる場合もあるでしょうし、のっぴきならなくなったり、ついには現世で生き続けることができない、死を選択するような状況に追いつめられる人もいるでしょう。
不安をあおるような情報も少なくないかもしれません。気にしないようにしているのに、あなたの状況や身体の状態はこうです、とてもこのままではいけませんといった、さまざま媒体、人を通じて、悪意ある意図もあれば、善意の気持ちからもあれば、ただ表面的に新しさをうたって適当に作り出されるものもあれば、現代は情報にあふれているようにも思います。むろん、現在の状況や状態を改善する必要があると思い、科学的調査などで実態を解明して、適切なアドバイスとして、情報提供が行われることも少なくないと思います。
上記の毎日記事の情報は、後者に該当するものではないかと思います。記事では、<中高年シングル女性の暮らしを民間団体「わくわくシニアシングルズ」が調べ中間報告をまとめた。低賃金の非正規雇用で働き続け、老後に不安を抱える様子が浮かぶ。>として、その後に具体的な収入額が提示され、他方で出費が増え続け、とても老後を一人で自立してやっていけないような経済状態を示してくれています。
ただ、収入の面では大多数が低額に抑えられているものの、<資産(預金や有価証券)は1000万円以上の人が34・2%いる一方で、200万円未満も34・1%に上り、二極化している。>ということですから、3分の1のシングル女性は若い時から節約と蓄財をしている、ほんとにまじめで倹約な日本人の一面をみせてくれているようです。
解決策も提供され、<年に1度、収入・支出、資産・借金を表に書き出す。保険の契約内容やクレジットカードの利用状況も確認。年金が少なそうな場合は今から日々の支出を見直す。節約は自分の価値観に合わせ「通信費だけ」などと対象を絞ると実行しやすい。>と、まさに自分自身を家計簿で可視化するということでしょうか。当たり前のことのようで、なかなかできない対応策ですが、一度に全部やると大変ですけど、少しずつ、今年は収支だけとか、それも大ざっぱなものから、少し慣れれば、細かな分類や新たな項目を増やすとか、できる範囲でのんびりやれば、それなりに自分の家計簿ができあがるのではとおもいます。
月尾嘉男著「地球千年紀行」にでてくる先住民の多くは、資本主義的貨幣経済の洗礼をうけてなく、日々の生活はなければないで足り、あればみんなで分け合うことで、充足しており、むろん貨幣を必要としないのですから、将来の不安もないですし、家計簿といった自分の収支や資産を可視化する必要性もありません。どちらが幸せかは、その人その人の感覚であったり、そのときの感じ方で違うかもしれません。ただ、維新後にまい進した西欧化や資本主義経済への傾斜が必ずしも、人間の発展や成長になっているとか、進化の当然の道とか、とまでいえるかは、いつも心の中で躊躇している自分を感じています。
話が完全に別のところに行きますが、毎日記事に<千葉大生集団強姦 千葉大の研修医、起訴内容認める>というのがありました。やっぱりという思いと、残念な思いが交錯します。研修医といえば、将来を嘱望された希望にあふれた人たちであり、収入も地位も名誉も最も高い職業の一つにもう一歩のところにある人ではないかと思われるのです。ここで取り上げた「不安」といったものとはまるで関係がないように外からは見えるのです。
しかし、もちろん不安は誰にでもあり、より高い地位にあっても、収入がいくらあっても、不安はなくなるわけではないでしょう。ではこの研修医の不安はどんなものだったでしょうか。それは集団強姦という極めて悪質で残忍な行為の動機と関係するのでしょうか。刑事手続きでは、動機は一応法曹三者間で追及され、論じられますが、必ずしも明らかになるわけではありません。もしかしたら、本人自身が分からないというか、心の底を解明できないこともあるでしょう。
ここでは直截的にこの研修医の不安がどこにあるか、あるいは動機はどこにあるかは、記録もありませんし、新聞報道程度では解明すること自体、土台無理ですので、私自身の体験からの推測を少し語ってみたいと思います。
ま、この記事自体、「集団強姦」と見出しで書いていますが、公判では「準強制わいせつ罪」として起訴され、研修医も認めています。ただ、別の研修医は準強姦罪で公判中ということで、全体の事件概要としては大筋、間違いとは言えないのかもしれません。ともかくいずれも「準」がつく性犯罪です。そこに事件の本質的なものと底流で一致するものを感じるのは私の特異な発想かもしれません。
ここからがその推測の概要です。研修医の多くは、まじめに勉強して異性関係もあまりもたず、医療現場という大変に厳しい判断と緊張が伴う中で、日々試練を受けていたと思うのです。指導教官や指導看護師はだいたいにおいて鬼のように厳しく、とても心が休まる余裕がなかったのではないかと思うのです。他方で、異性と自由に付き合う機会はあまりないでしょう。そして医療現場では、男性・女性の裸の体と接することが頻繁になるでしょうが、とりわけ女性の体への関心は場合によっては尋常でないほどになる一方、医師の倫理性という高い緊張した意識の中で、業務の中では強い気持ちで抑制しているのでしょう。
そういう研修医が、合コンなどで女性と飲食を共にしたとき、女性側は研修医ということで、安心感から信頼感、さらには尊敬のまなざしを持つかもしれません。油断の気持ちも入るかもしれません。そのような女性たちが信頼感をもつ研修医から酒を勧められ、家に連れていかれても、不安感を抱かなかったかもしれません。研修医も、勤務中の緊張から酒の影響と同僚の扇動で、全体として、抑制の取れない状態になったのではないかと推測します。
むろん以上は、事実関係が分からない状態での推測ですから、ほんとにあてになりませんが、一つの仮説としてはあり得ると思っています。性犯罪を犯す人の中に、職業として女性の裸や裸の写真・動画に触れる機会の多い人が一定の割合でいるように思います。おそらく業務中は、欲望をコントロールしているのでしょうが、他方で、欲望に悩まされ、いつ欲望に凌駕されるかわからないといった不安を覚える人もいるのではと思っています。
この問題は、一つの考えですが、社会的な慣行というか、習俗というか、そういうものの基礎にある社会的規範といったものと、性風俗といったものの情報が無用に、無秩序的に流通していることとの間で、とりわけ職業的倫理性が求められる医師、とくに精神的に未成熟な段階の研修医にとっては、大きな不安の中にあると思っています。
ちょっと時代を遡ると、維新頃にわが国を訪れた異邦人は、たくさんの驚きを日本人の生活の中に発見します。その中で、面白いのは、男性も女性も裸で人前にでること自体を恥ずかしいと思っていないということです。異邦人は日本人が西欧人以上に高い礼節を身に着けていることを十分に感じていましたから、その未開人的な態度に驚くのです。しかし、日本人の裸で平気というのは、あくまで銭湯に入るときや庭で行水をするときなど、生活上必要なときに裸になることで、それが庭の外から見られても平気なのです。じろじろと見ること自体が無礼ということでしょう。といっても、外国人という物珍しいものには誰もが好奇心旺盛で、彼らがやってくると情報が流れると、銭湯から裸のまま道路に出て見物するのですから、これは一見、やりすぎと思われるものの、自然な所作なのでしょう、だれもわいせつな感情を持たないのです。
たしかに江戸時代に性風俗の漫画本が流行して、一見、性風俗が乱れていたのではないかといった印象もありますが、そういった行為は、吉原など岡場所に限られていて、日常的な裸の所作とは縁のないことだったと思います。そしておそらく性風俗の乱れもほとんどなかったのではないかと思うのです。
おそらくは戦後初期まではそうだったのではないか(進駐軍に対する赤線地帯などは別として)と思うのです。ところが、その後性風俗についての確立した社会規範が、西欧文化、とくにアメリカ文化の爆発的導入によって、逆にそれ以上に氾濫したように思うのです。ウェブ情報をはじめ情報媒体、その内容がきわめて多様化し、とどまることを知らない状態で、それは本来心の底に隠れていた性的欲求を掻き立て、性犯罪を悪質化させたり、多様化させているように思うのです(このあたりの文脈は飛躍しているのは認めます)。
ここまでの話は次の<医師はユーモア必要>という毎日記事に賛意を表したいことから、ここにつなぐためのものでしたが、まだ架橋の話が浮かんできません。とりあえずの話をしてみます。
NHK番組で、研修医がベテラン専門医師の指導を受けながら、ある症状の患者の異変に至る経緯をストーリーにして、その病名を診断し、的確な治療方法を答えさせるといった、とても面白い番組となっています。その中での研修医の発言や対応は、とても素晴らしいもので、将来も期待できる人たちです。そしてこのような真摯に医療に取り組む医師が大半であることも感じています。
しかし、まじめに真剣に質疑する、発言する、そういう医師だけが本来求められているのかというと、若干、疑問を感じています。上記のユーモアのある医師の中の記事は、「金玉医者」という落語の話もとりあげていましたが、私自身は、医師は人間として患者という人間に対峙するのでなければ、その病を見つけたり、直したりすることができない場合が少なくないと思っています。笑いが最高の良薬とも言われます。芸能もそうでしょう。音楽や新鮮な花の香も、患者の心に響くでしょう。そういう患者が受け入れる状態でないと、医師の処方も、治療も、有効でないというか、効き目が十分でないことも多いのではないかと思うのです。
翻って、研修医の教育において、心の教育がどこまでなされているのか、心配です。彼らもさまざまな不安をもっているでしょう。心の豊かさをもつことの大切さは、治療技術や体の細部の知識を養うのに匹敵するくらい重要ではないかとおもうのです。
見出しから脱線してしまったようですが、うまく収拾がとれないところで、今日は時間となりました。