170210 子ども・児童・少年 <どこへいくPTA>など諸々を読んで
今朝というか午前中は雪やこんこんの世界でした。用があって和泉山脈のかなり高いところまで上がっていったのですが、途中からは雪国のような景色が広がり、気持ちのいい時を過ごしました。運転してもらっているので、スリップの危険も緊張もなく、のんびり風景を楽しめました。
それはそうと、帰ってきてウェブサイトを見ると、例の連邦控訴裁の決定が下されていました。全文28頁ですが、読むほど元気がないので、最後の結論部分だけさらっと見ました。西海岸にある第9巡回連邦控訴裁という、リベラルで、80年代や90年代に、次々と環境保護団体に画期的な勝訴判決をもたらしただけあって、今回も憲法に忠実な、仮処分上訴審らしい判断をしていると思います。これは司法権の独立、法の支配を支持する立場なら、当然の結論ではないかと思います。
報道では、裁判所が電話で、双方の意見を聞いた上で、判断したと言うことですが、これは少しおどろきました。といっても、わが国でも遠隔地なら本案訴訟でやっていますし、仮処分審尋でもやっているのでしょうかね(私が仮処分事件をやっていたのは15年以上前でしたので電話会議なんて考えられませんでした)。
裁判所の判断は、当事者双方が大量の証拠を収集してそれぞれもっともな主張をしていることを踏まえつつ、州側の主張には大統領令の差別的権利放棄条項によって発生する被害が具体的現実的であり、その証拠も十分であるのに対し、政権側はその国家的利益がどのように決定されるのか、誰が決定するのか、またいつ決定するのかといった実務内容についての説明がなされていないとかなどを指摘しています。
そして双方主張する公共利益について、一方に国家的安全に係わる強力な公共利益と民主的に選任された大統領が制定した命令があるが、他方に渡航の自由や家族離別の回避、差別からの自由があるとしたうえ、さまざまな困難な状態を考慮したとき、前者の利益は仮処分の停止を正当化しないとしています。これは最後の文章なので、それまでに20数頁も双方の主張を引用しながら、結論していますので、私の仮訳は相当雑となっています。決定文はダウンロードできますので、関心のある方は確認ください。
前置きはいつもの調子でちょっと気になったら適当に書いていますので、関心なければ読み飛ばしてください。
で、タイトルの子ども、児童、少年ですが、これらもなにをどうとりあげようか迷いつつ、うまく整理できる時間も能力もないですが、いずれもどこかに脈略が隠れているのではないかなどと勝手に思い、書いているうちになんとかなるかなと思い、書き始めています。
順番も整理していないので、とりあえず子どもというものから初めて見たいと思います。これは毎日記事で、<どこへいくPTA>として、3人の方が現在のPTAの問題を取り上げていたのですが、これは子どもの問題というよりその両親の問題という側面で光りを当てています。しかし、子どもが成長する中で、両親、あるいは一人の親として、学校との関係でPTAという存在が大きな問題になっていることはよく知られたことだと思います。
で、その問題の多くは、PTAの役員とか、なんらかの担当に、ならされる、あるいはそれから外れるために理由の説明を強制させられるといった状態が、毎年繰り返されていることでしょうか。派生する問題は限りないと思いますが、出発点はその当たりかと思います。
PTAの役員になればなったで、民主的な議論による決定とはかけ離れた形で、さまざまな行事参加や役割が回ってくる。ならなければ、学校のことはできるだけ遠ざかろうとする。そんな状態では、教師、子ども、親、そして地域や社会との相互交流がうまくいくことはますます困難になるように思えます。
そんな中、ここではPTAの役員を長くつとめ、全国組織の長になった方や、親としてジャーナリストとして全国のPTAの意欲的な活動を取材した方、アメリカに滞在してそのPTAと類似の組織に係わった方の意見が採り上げられています。
いずれも現在の役員選任方式やPTA活動の改善を訴えており、自主的な参加のみで活動を行うことが大事という点では共通の認識であるように思います。親がいやいやPTA活動をしていたら、子どもも学校や教師に対して、任意の共同活動による充実感といった社会参加で重要な意味を成長期に体験することが困難になるおそれすらあると思うのです。
むろん、その記事でも指摘されているように、共働きや一人親で育てている人にとって、働いて職場を確保することだけでも大変ということや、夫が長時間の残業をして妻だけがPTA活動を担うという実態は、自由で快活なPTA活動を困難にしている外的要因の一つでしょう。そのような阻害要因を少しずつ減らしていく施策が必要なことは確かです。
とはいえ、ネットで参加希望者を募り、参加できる事項や、やりたい事柄に応募してもらうというやり方など、新しい参加形態により、より親が子どもの環境作りに積極的に参加できるといった、それぞれのPTAという組織で考えていくことこそ、これから必要とされているように思います。
さらにいえば、PTAという学校から養成されたような組織でなく、より任意の活動団体をつくり、また子どもも、隔離された学校という中に閉じこもるのではなく、自ら学校活動をつくっていく組織作りをするようなことが、次第に求められているように思うのです。
今の中学生や小学生では無理という声が聞こえそうですが、そうでしょうか。やらせればできるのではと期待したいです。たしか津田梅子が西欧使節団と一緒に海外に渡ったのは7才でしたか。それは別としても、北米の小学生高学年くらいだとしっかりとしてディベートとか、みんなの前に立って自己の意見をのべることくらい平気でやるのが普通ではないかと思います。
戦後長い間、戦前の教育の反省にたって、個人の自由尊重という観念が普及しつつ、学校内では無用な規律がまかり通り、PTAでは親も必要性の議論もないまま各種会議などに参加させられ、職場では終年雇用としてその企業特有の慣習が個人の自由を押し殺していたように思います。いま子どもの自主的な活動、本当の意味での個人の確立を目指す環境作りが必要ではないかと思うのです。SNSなどによる集団的いじめなどがはびこる要因の一つは、そのような個性の尊重や異なる価値を大事に共有する環境を子どもたちが享受できていないところに問題があるように思うのです。かなり雑ぱくで表面的な見方をしたようにおもうところもあるので、いつかこの問題を具体的に検討してみたいと思います。
さて次は、少年法改正です。毎日は特集記事で、<18歳未満、諮問 懲役・禁錮一本化検討>と銘打って、この改正の概要を取り上げています。私自身、少年を何歳までとするかについて、特別考えてきたわけではありませんし、日弁連の意見を見てきたわけではありません。少年事件も、30年以上前に1件、最近1件、取り扱った程度で知見もほとんどないに等しいです。
そんな私ですが、現在はともかく、いずれは成人が18歳となることに異議がなく、また少年法が18歳未満に適用されることも、この記事で引用されているような審議内容であれば、一定程度の限度で、現時点よりはいい方向かもしれないと思っています。
少年は、成長期にあり、悪いこと、違法なことをまったく経験しないで過ごせる人は少ないと思うのです。それは少年が軽はずみで行うこともあるでしょう。万引きや、ミカン泥棒などもその一つかもしれません。違法なことと適法なことの区別はできても、その社会的規範を破ることの意味をしっかり理解し、自己をコントロールすることは、大人になっても容易ではないですが、子ども時代は極めて困難かもしれません。一度やってしまって、その重大性に初めて気づき、おそれおののくといったことは、成長期に必要なことかもしれません。
他方で、上記記事にあるように、これまで少年事件では、少年の可塑性を考慮し、その生まれた環境や成長期の状況など十分調査し、少年の立ち直りのため、専門技量をもったさまざまな支援を得て、仮に少年院に行っても、その更生に向かって配慮されています。
ただ、それは本来、少年だけに必要なのではなく、高齢者はもちろん、多くの成人にとっても、必要な処遇ではないかと思うのです。その意味で、少年法で扱われる処遇のうち更生にかかわる部分は、相当程度、成人・少年を問わず、適用される必要を感じています。
ところで、匿名性の問題、量刑の問題をどうするかは、まだ結論はでていませんが、一定の重大な犯罪被害を与えた事例では、成人なら特定してよい、未成年なら匿名という仕切りははたして合理性があるか疑問を感じています。むろん現行の報道のあり方に問題があるので、直ちに一定の場合匿名性を外してもよいとまではいえません。そういった過剰報道のあり方を猛省してもらい、適正な報道ルールが確立した場合に匿名性についても、一定の場合例外を設けてもよいのでないかと、現時点では検討しています。
むろん無罪の推定との関係で、どの段階から匿名性を外すことが適切かは、まだまだ検討すべきことが多いかと思っています。
この議論は、少年法による処遇は、少年による犯罪被害者の視点、模倣犯や同種犯罪の増加を減らす効果をも視野に入れて、慎重に議論される必要を感じています。このような意見は弁護士では少数かもしれませんが、現時点で導入すべきということではなく、匿名性は絶対の前提とされているように思われることについて、異なる利益の考慮や、その前提や一定の環境が整えば、例外はありうるといった議論も成立してよいと愚考するからです。
ここでの議論もまたあまりにも練っていないものですので、もう少し慎重な議論が必要であることを指摘して、トランプ氏的議論にならないようにしたいと思います。
最後に、<男児ポルノ 168人被害か 禁止法違反容疑>はショッキングな報道でした。しかも逮捕されたのは、幼い児童が最も楽しみにしている野外キャンプなどに関係する、子どもが慕うような人たちです。多くの親は、子どもが野外活動をすることを望み、自然と親しみながら多くの友人と交流することで心と体の成長に役立つだろうと期待していると思うのです。
そのような信頼を裏切る、極めて破廉恥な人たちではないでしょうか。学校の教師もいましたね。児童ポルノがどれだけ世界中に広がっているか分かりませんが、今回の事件では、最も信頼できるような人たちの行為ですから、予想されるような犯罪グループや変質者によるものでない点で、親たちにとって、誰を信頼していいのか不安になるでしょう。
しかし、他方で、児童ポルノの流行や、わが国では盗撮行為やわいせつ行為も相当程度氾濫しているように思えます。そういう意味では、オレオレ詐欺から還付詐欺までさまざまな悪行が残念ながら、疑惑を抱かない人を平気で裏切る形で横行している現状を真剣に考える時代かもしれません。子どもを守るためには、どのようなグループが、どのようなスタッフで行っているか、子どもにも、そのような危険な大人の存在や場所を知らせること、子どもからは不審な点があれば、親に知らせることなども、早い段階から必要なのかもしれません。
行きにくい社会と言えばおしまいですが、他方で、地域の大人に楽しい連帯の活動や組織があれば、子どもたちは危険な目に遭うおそれが少なくなるでしょうし、ましてや少年事件をおかすようなことにはならないように思うのです。少年事件を犯す多くの少年は、一人で何かをするというより、親に隠れて悪い仲間と連れだって、ちょっとした悪いことから悪質な犯罪を犯す坂道を降りていくように思うのです。
江戸時代の村社会の話を時折しますが、そういう悪行を行う子どもを縛る規律が地域の大人の目が割合行き届いていたのではないかと思うのです。ムラは、その中で司法・行政・立法という小さな自治組織として成立していたからこそ、通常は平穏な生活を送れていたのではないかと思うのです。現代的な意味での新たなコミュニティをつくっていく必要があるように思うのです。