Poto: by Mr. UT, (at Miyajima-Hiroshima, on 3, Feb. 2006)
宮島の船着場から、さらに西方向に位置する参道商店街を抜けると、いよいよ厳島神社が見えてくる。
この位置から撮影したUT氏の右斜め後方に、「海上の大鳥居」を望める神社と鳥居を撮影可能とする『好位置』なのである。ほぼ9割方逆光線、小波打つ水面の光線反射を極限に抑えつつ、適切な露出が成り立っているから、この写真はすばらしい。とにかくUT氏は、先ず素直に且つたいへん巧く撮影している。昨年一年間、さらに写真撮影技術を磨いた航跡がうかがえるが、決して技巧に凝らない。被写体を素直に見つめ、邪念のないきれいな画面を求めてやまない純朴さが魅力なのである。
このところ毎年台風シーズンになると、高潮で「一騒ぎ」しなければなんらないのが、この海上廊道にあたる板張りの通路である。満潮時の高潮で、板の上まで海面が押し寄せるからたまらない。地球温暖化が叫ばれる今日この頃、南極北極の氷が解けて世界中の潮位が上がっているらしい。こうなったら時間の問題であるから、そろそろ海上神社全面を、さらにもう1メーターくらい高い位置になるよう、改築工事しなくてはいけないのではないか。無駄な経費を省いて、こういう時にこそ、しっかりとお金を使ってほしい。
*人気ブログランキング参加中・・・
左記のバーをクリックしてください!人気blogランキングへ
----------------------------------------
<参考資料>
『厳島神社の由来』(宮島観光案内より)
太古の時代から、宮島の景観には人々が霊気を感じ、島そのものを神として、信仰の対象にしていました。社殿の創建は、推古天皇即位元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられています。
神社の敷地を州浜に求めたのも、島そのものを神と見たためと思われます。
厳島神社は、弘仁2年(811年)にはじめて日本の歴史に記録され、『日本後記』には伊都岐島神を名神に列しています。
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168年)ころには社殿が造営されました。平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始めとする人々の知るところとなり、社運はますます盛大になりました。
京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられました。舞楽が始まったのもこの時代です。平家滅亡後も、源氏一門に厚遇され、安定と隆盛の時代でありました。
社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあい、これら災害の修復が行われましたが、たび重なる火災で神社の規模も移り変わったと思われ、弘安の時代(1278~1288年)に記された社殿の図は今の配置と異なっています。その後、正中2年(1325年)台風で現在の配置に近い姿であったことがうかがえる記録が残されています。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えますが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇しはじめました。豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄り、安国寺に大経堂の建立を命じています。
太古からの人々の信仰を集め、時の権力からも崇拝をうけ、たぐい稀な建築様式と文化を併せ持つ厳島神社は、現代にも生き続ける日本文化と歴史の象徴であり、日本の人々の心の情景でもあります。
* (宮島観光協会のHPは、こちらから・・・)
宮島の船着場から、さらに西方向に位置する参道商店街を抜けると、いよいよ厳島神社が見えてくる。
この位置から撮影したUT氏の右斜め後方に、「海上の大鳥居」を望める神社と鳥居を撮影可能とする『好位置』なのである。ほぼ9割方逆光線、小波打つ水面の光線反射を極限に抑えつつ、適切な露出が成り立っているから、この写真はすばらしい。とにかくUT氏は、先ず素直に且つたいへん巧く撮影している。昨年一年間、さらに写真撮影技術を磨いた航跡がうかがえるが、決して技巧に凝らない。被写体を素直に見つめ、邪念のないきれいな画面を求めてやまない純朴さが魅力なのである。
このところ毎年台風シーズンになると、高潮で「一騒ぎ」しなければなんらないのが、この海上廊道にあたる板張りの通路である。満潮時の高潮で、板の上まで海面が押し寄せるからたまらない。地球温暖化が叫ばれる今日この頃、南極北極の氷が解けて世界中の潮位が上がっているらしい。こうなったら時間の問題であるから、そろそろ海上神社全面を、さらにもう1メーターくらい高い位置になるよう、改築工事しなくてはいけないのではないか。無駄な経費を省いて、こういう時にこそ、しっかりとお金を使ってほしい。
*人気ブログランキング参加中・・・
左記のバーをクリックしてください!人気blogランキングへ
----------------------------------------
<参考資料>
『厳島神社の由来』(宮島観光案内より)
太古の時代から、宮島の景観には人々が霊気を感じ、島そのものを神として、信仰の対象にしていました。社殿の創建は、推古天皇即位元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられています。
神社の敷地を州浜に求めたのも、島そのものを神と見たためと思われます。
厳島神社は、弘仁2年(811年)にはじめて日本の歴史に記録され、『日本後記』には伊都岐島神を名神に列しています。
平清盛の時代には、平家一族の拝するところとなり、仁安3年(1168年)ころには社殿が造営されました。平家一門の権勢が増大するにともない、社を崇拝する度合も高まり、多くの貴族を始めとする人々の知るところとなり、社運はますます盛大になりました。
京都からは、皇族、貴族が訪れ、当時の平安文化が積極的に取り入れられました。舞楽が始まったのもこの時代です。平家滅亡後も、源氏一門に厚遇され、安定と隆盛の時代でありました。
社殿は、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあい、これら災害の修復が行われましたが、たび重なる火災で神社の規模も移り変わったと思われ、弘安の時代(1278~1288年)に記された社殿の図は今の配置と異なっています。その後、正中2年(1325年)台風で現在の配置に近い姿であったことがうかがえる記録が残されています。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えますが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇しはじめました。豊臣秀吉も、九州遠征のさいに立ち寄り、安国寺に大経堂の建立を命じています。
太古からの人々の信仰を集め、時の権力からも崇拝をうけ、たぐい稀な建築様式と文化を併せ持つ厳島神社は、現代にも生き続ける日本文化と歴史の象徴であり、日本の人々の心の情景でもあります。
* (宮島観光協会のHPは、こちらから・・・)