私は、ある年齢まで、ずっと人と比較して自分に劣る部分を補うための努力をしてきました。
当然、「ここが弱い」「ここができてない」「まだまだだ、まだ追いつけない」という思いがずっと働いていたわけです。
しかし、劣るかどうかと言うのは、
そもそも、すごく自分ならではの主観的なものです。
この自動的に働く劣等感みたいなものは、自分の中にあってはいけないとさえ思っていたほどです。
で、
自分にムチを打って、劣等感の抹殺励行ですヨ。
「ドS」や
いや「ドM」や・・・
そぢゃなくって「表裏一体」や・・・
最近は、この劣等感を解消する時には、自分に「どうする?頑張ってみる?やめとく?」みたいな許可を得ているのですが、
最近は「今は、やめとく」みたいな回答が多いのかなぁと思っています。
多分、今は、今に集中したいので、あまり自分にたくさん背負いこませないようにということで必要以上に頑張らせたくない思いが働いているのだと思います。
しかし、それよりも何よりも
比較し、自分勝手な思い込みの結果、劣るか勝るかと勝手に評価を下した後、自分が優位な状態にいたとして得られるものって何なんやろ・・・
せいぜいが、あの人はスゴイと思われたいとか、さすがだと思われるぐらいの、狭いコミュニティの中での些細な評価なんじゃないかなぁ
なんて思ったりしています。
そんなん、どっちでもいい・・・
無論、仕事の中で、できる・できないなどの棚卸しをすることは必要だと思っているのですが、
最近は、できないことを無理して補うことよりも、
自分勝手に優劣をつけたり、数値で測った結果自分の立ち位置を確認することよりも、
今、持っているものを持って、新しい提案をして新しいお客様と出会っていくことの方が自分らしいのかなぁと思っています。
宗教のネタを書くと「ドンびき」される方もいるかと思うのですが、
「禅」の教えは、日々迷ったり、確信に欠く時に、きわめて明快に私にGoサインをくれるものです。
心を鍛える禅のことば100
の中で、
知足 ~比較しなければ満ち足りた生命~
とあります。
他人と比較し、例え、自分に足りないモノに気づき、妙な焦りを感じてしまったとしても、
足りないと感じた自分の知力や財力、体力などは、比較さえしなければ、実は劣等感も焦燥感も感じなくて済んでるじゃないのかって思ったりします。
比較したために不要な荷物を抱え込んでいるのは自分であって、
足りないと思ったことって、案外、なくても困らないかもしれないし、もちろんできるようになったり、備えを持ったりすることも必要かもしれません。
でも、実は今までのままでも案外足りていて・・・
本当に何か足りない力があるのなら、それは人と比較して知ることではなく、
現実に直面して実感したり、
自発的なシミュレーションの結果、相手に振り回されずに
自分で補うことを選択すればいいことなのかと思っています。
当面、持ってるものでも案外イケてる部分もあると思うんですよね(笑)
自画自賛だけどそれもアリ。
持ってるものを遺憾なく発揮する力を妨げているのも自分だったりします。
たまに比較してもいいのかなぁと思うのは、昨日の自分ぐらいかなぁと思う今日この頃です。
久しぶりにクリックありがとう。
↓
当然、「ここが弱い」「ここができてない」「まだまだだ、まだ追いつけない」という思いがずっと働いていたわけです。
しかし、劣るかどうかと言うのは、
そもそも、すごく自分ならではの主観的なものです。
この自動的に働く劣等感みたいなものは、自分の中にあってはいけないとさえ思っていたほどです。
で、
自分にムチを打って、劣等感の抹殺励行ですヨ。
「ドS」や
いや「ドM」や・・・
そぢゃなくって「表裏一体」や・・・
最近は、この劣等感を解消する時には、自分に「どうする?頑張ってみる?やめとく?」みたいな許可を得ているのですが、
最近は「今は、やめとく」みたいな回答が多いのかなぁと思っています。
多分、今は、今に集中したいので、あまり自分にたくさん背負いこませないようにということで必要以上に頑張らせたくない思いが働いているのだと思います。
しかし、それよりも何よりも
比較し、自分勝手な思い込みの結果、劣るか勝るかと勝手に評価を下した後、自分が優位な状態にいたとして得られるものって何なんやろ・・・
せいぜいが、あの人はスゴイと思われたいとか、さすがだと思われるぐらいの、狭いコミュニティの中での些細な評価なんじゃないかなぁ
なんて思ったりしています。
そんなん、どっちでもいい・・・
無論、仕事の中で、できる・できないなどの棚卸しをすることは必要だと思っているのですが、
最近は、できないことを無理して補うことよりも、
自分勝手に優劣をつけたり、数値で測った結果自分の立ち位置を確認することよりも、
今、持っているものを持って、新しい提案をして新しいお客様と出会っていくことの方が自分らしいのかなぁと思っています。
宗教のネタを書くと「ドンびき」される方もいるかと思うのですが、
「禅」の教えは、日々迷ったり、確信に欠く時に、きわめて明快に私にGoサインをくれるものです。
心を鍛える禅のことば100
の中で、
知足 ~比較しなければ満ち足りた生命~
とあります。
他人と比較し、例え、自分に足りないモノに気づき、妙な焦りを感じてしまったとしても、
足りないと感じた自分の知力や財力、体力などは、比較さえしなければ、実は劣等感も焦燥感も感じなくて済んでるじゃないのかって思ったりします。
比較したために不要な荷物を抱え込んでいるのは自分であって、
足りないと思ったことって、案外、なくても困らないかもしれないし、もちろんできるようになったり、備えを持ったりすることも必要かもしれません。
でも、実は今までのままでも案外足りていて・・・
本当に何か足りない力があるのなら、それは人と比較して知ることではなく、
現実に直面して実感したり、
自発的なシミュレーションの結果、相手に振り回されずに
自分で補うことを選択すればいいことなのかと思っています。
当面、持ってるものでも案外イケてる部分もあると思うんですよね(笑)
自画自賛だけどそれもアリ。
持ってるものを遺憾なく発揮する力を妨げているのも自分だったりします。
たまに比較してもいいのかなぁと思うのは、昨日の自分ぐらいかなぁと思う今日この頃です。
久しぶりにクリックありがとう。
↓
また魚に例えばかつをなんかの回游魚から流れ中にプカプカ浮ぶマンボウといったところでしょうか?
ワタシもときどき凹むと読みますよ。仏教関係の本。
とはいっても、ついこの間まで、我が家の宗派が何なのかすらワカラナイといったバチあたりでございます。
知足~~う~~ん。そうですね。ワタシの仕事でいうと顧問先が何軒とか、売上がいくらとか、従業員を何人雇っているとかそんなことになるのかもしれません。そんなこと、ハナっから土俵に乗るつもりはありません。
おハナシ系の仕事だと30人の講義も「30人に好かれよう」とすると疲れるし、タイヘンなので、せいぜい「10人くらいファンになってくれればいいや」ぐらいな気持ちでいつもやっています。
それが、ワタシのなかの”知足”でしょうか。
めちゃめちゃレベル低くてスイマセン。
コメントありがとうございます。
そうですね、バランスはとても大事にしています。
気質として、バランスを重んじる傾向もありますが、輪をかけてバランスを大事にしています。
何か疲れるんですもん。。。。
そういう意味では、マンボウの気持ちわかるかも。
ひょー、思いがけぬコメントありがとうございます。
書いてくださったこと、すごいよい例えでわかります。
私も、先生の足元には及ばないまでも、
売上、研修のアンケート結果の満足度にひとまず目標は持っていますが、当面はそれまでにしておかないと意味も無く、同じ自営の講師の方との稼働状況やアンケート結果と比較してもしょうがないと感じて、何か駆り立てられそうになる自分をなだめています。
私は、Taku先生のお話の「シュール」なとこが好きですよ。たまにツボに入って肩で笑っていることがありました、ワタクシめです。
Taku先生には「競争より創造を」そんな言葉がぴったりきます。
私も見習いたいと思います。
ありがとうございます。