ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今  正月特別編・9

2010年01月04日 20時28分25秒 | Weblog
 現在は檜(取材当日は確認してなかったのですが、写真からは檜に見えます)が線路跡をたどるように立っています。
 もちろん、檜の太さからしてこれは戦後のものですね。

 坑道を出ると、10数m直進した後、右に曲がります。
 そこには石橋がかかっています。
 川底からの高さは5m程度でしょうか。

 橋にはロープがはられ、進入禁止になっていました。

 渡ろうと思えば渡れるんでしょうけど、こういう調査に無理は禁物です。

 4mほどの長さの橋を渡ると山肌が崖になってします。狭い場所に鉄路があったようです。
 そうして、20mほど走ると現在の国道に出ます。

 現在はここに橋がかかっており、橋の手前が金山集落への入り口になっています。きっと昔は道路は集落内に向かい、橋もかかっていなかったのだと思います。 そして、そこには鉄路だけがあったのでしょう。 
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・8

2010年01月04日 20時26分40秒 | Weblog
 坑道の中です。

 手前はしっかりとアーチが坑道を支えていますが、ちょっと奥の所は左右が崩れているように見えます。
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・7

2010年01月04日 20時14分32秒 | Weblog
 それでは、実際に鉄路の走っていたルートの現在の様子をたどっていきたいと思います。

 予告編で使った古い写真・胡麻目坑の現在です。

 鉄路の跡は全くありません。
 
 近くには坑夫専用の風呂場跡や鉱脈を発見した方の墓が残っています。

 坑道の入り口には誰も進入できないように金網でしっかりと封鎖されています。そして、坑道の中からは大量の水がどんどん外に流れていました。
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・6

2010年01月04日 18時27分22秒 | Weblog
 予告編で紹介した写真は胡麻目坑の入り口でした。
 そこから精錬所までは約1.5㎞。

 この区間に鉄路が敷かれました。1909(明治42)年のことでした。しかも、ここを走っていたのは鉱石運搬列車は電化されていました。
 門司港~久留米間が電化されたのが1961(昭和36)年です。蒸気機関車が主力であった時代に、この奥深い山中を小さいとは言え、電車が走っていたことがどれほど驚嘆すべきことか。 

 今回の写真には鉄橋が写っており、左側にわずかに橋脚も写っています。
 そして、右側の建物の向こう側には谷があり、そこには金山集落がありました(もちろん現在もあります)。ここは胡麻目坑の入り口と精錬所の中間の辺りです。

 ちなみに精錬された金やその他の物資は、横川駅まで毎日馬車で運ばれていたそうです。1929(昭和4)年以降にやっとトラックが運行するようになったとのこと。
 現在では道路事情はもちろん違います。片道10数㎞の道のりを行き交っていたようです。

 1937(昭和12)年、宮之城線・薩摩永野駅が開業してからは、精錬所から2㎞ほどの距離になったため、薩摩永野駅が物流の拠点になりました。
 
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・5

2010年01月04日 17時49分15秒 | Weblog
 1927(昭和2)年10月、海沿いルートの全線開通・開業に伴い、「鹿児島本線」の名前は山間ルートから奪い取られてしまいました。そして、山間ルート側にはそれまで海沿いルートに使われていた「肥薩線」の名前が与えられました。

 この時、宮之城線はまだ宮之城止まりでした。次の開通区間である薩摩鶴田駅までが開通するのは1934年(昭和9)年7月のことでした。
 実は、この間、「暗黒の木曜日」と呼ばれる世界恐慌、軍部の暴走、世界を相手にした泥沼の戦争が始まっていました。経済的にも極めて悪く、小作争議の頻発、海外移住の推進などが始まっていました。



 ちょっと時間を巻き戻します。
 
 1907(明治40)年、当時東洋一と言われる近代的な大精錬所が永野三番滝に建設されました。写真は現在の様子です。左に石垣が見えます。ここに停車場がありました。そして、右側には見えませんが、国道があり、国道をはさんで現在の工場があります。

 この辺りに多い時には1万人以上の人々が居住していたとのこと。とても信じられないですね。

 この左側にある停車場から採掘した金鉱を運び出す坑道の入り口までをつなぐ鉄路がありました。
 
 
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・4

2010年01月04日 11時24分40秒 | Weblog
 20世紀初頭の国際情勢は、ヨーロッパが民族問題で揺れ、アジアでも中国で辛亥革命が勃発するなど、世界中が不安定な中にありました。
 それに比べれば、非常にミクロな問題なのかもしれませんが、1910年の鉄道敷設法改正は「鹿児島本線」の正統派争いと言っても過言ではない気分をこの沿線一帯にもたらしたのかもしれません。

 海沿いルートは1913(大正2)年10月、鹿児島~東市来間が開業を皮切りに北進していきました。1914(大正3)年6月、串木野~川内町(現・川内)間が開業しました。

 第一次世界大戦で空前の好景気の到来、そして終戦による空前の不景気の到来。建設資材の高騰、困難な資金繰り。この中で、宮之城線を開発しようとしていた私鉄・川宮鉄道は倒産。
 鉄道建設の冷え込んだ1910年代後半になりました。



 その中で、菱刈や大口(ともに現・伊佐市)にある鉱山開発のために鉄道敷設が計画されました。山ヶ野・永野金山同様に、大口方面の鉱山も国にとっては魅力的な存在でした。
 早速、1921(大正10)年には栗野~山野間で山野軽便線が開通しました。栗野から菱刈・大口を抜けて山野に至るルートは田の広がる盆地です。工事の大きな障害になるような箇所はほとんどないと言っても過言できなかったかと思います。 しかも、1922年にはこれをさらに延伸して水俣まで開通させようという「鹿児島県山野ヨリ熊本県水俣ニ至ル鉄道」の計画が改正鉄道敷設法で定められました。
 延伸先の水俣には成長著しい日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)の水俣工場がありました。
 また、海沿いルートの工事も再開されました。この辺りから鉄道の敷設がどんどん進められていきました。1923年には宮之城線の工事も再開されていました。


 栗野からの延伸も「鹿児島本線」の対抗力を強めるのには重要な要素でした。しかし、山野から先に待っているのは、これまた山岳路線となる厳しい高低差を乗り切る工夫でした。それは熊本県側の大川のループにもあるように、輸送上の問題になりました。

 しかも、以前も述べたように、宮之城線が宮之城に到達した時点では既に海沿いルートの完成・開業は時間の問題でした。
 予算配分は山間の新線開発よりも海沿いルートにシフトされていました。これは線路の延び具合の速さが端的に物語っています。


 そんな中で、永野金山はどうなったのでしょう。
 
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国鉄・宮之城線の今  正月特別編・3

2010年01月04日 11時04分39秒 | Weblog
 何事にも企画・調査・設計・建設・開業の段取りが必要です。
 「鹿児島本線」にしても、1894(明治27)年の鉄道敷設法改正で八代~鹿児島間の早期建設が決定され、ルートの策定・調査が開始されました。そして、1896(明治29)年3月に人吉経由の山間ルートが決定されました。
 同年11月には八代まで開通・開業しました。
 1901(明治34)年6月に、国分(現・隼人)~鹿児島間が開通。
 1903(明治36)年1月に、国分~横川(現・大隅横川)間が開通。
         同年9月に、横川~吉松間が開通。
 1908(明治41)年6月に、八代~人吉間が開通。
 1909(明治42)年11月に、残された山岳区間である人吉~吉松間が開通。

 この間、13年と半年ほどかかっています。

 ところが、より円滑な軍事輸送力の確保を目指す国としては、この山岳路線の弱点は看過できないものでした。
 1910(明治43)年に鉄道敷設法の改正によって、川内回りの海沿いルート建設が決定されると、単純に山間ルート同様の工期がかかるとして、1923年までには山間ルートの優位性を示さなければ、主たるルートとしての地位が失われてしまいます。

 そこで、ルート近辺にある国策遂行上に有利な産業とつなげていくということが考えられたのではないかと思います。
 それが「正月特別編・1」でも述べた金山の存在でした。

 横川駅から直線距離で約7㎞ほど西には江戸時代から続く金山(山ヶ野金山)がありました。金山の町・山ヶ野は現在ではのどかな山村でしかありません。
 九州三大遊郭と言われる田町遊郭や奉行所の跡を見ることはできますが、歴史上の記録に残る繁栄ぶりは、現在の姿からは想像もつきません。

 そして、横川まで鉄路が伸びた1903年には山ヶ野金山側の金算出量は減り始め、事業主体であった島津家で金山拡張の議論が行われ、採掘・精錬の主力を横川側から薩摩側に移転することが決められました。
 
 隼人町(現・霧島市)の水天淵に金山専用の水力発電所が建設され、施設の電化も進み、当時東洋一と言われる近代的な大精錬所が永野三番滝に建設されました。

 「横川から山ヶ野を経由して永野までを鉄路で結ぶ」
 これが「鹿児島本線」山間ルートの優位性を確保するための手段として考えられたのではないでしょうか。

 写真は現在の大隅横川駅のプラットホームから南側を写したものです。プラットホームが切れる所から線路は左に曲がっていますが、もし、横川~薩摩永野間に線路が通っていたら、プラットホーム先から右へカーブしていく線路跡があったはずです(というルート案は私の想像)。

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