「体育」は、知育・徳育とともに人格形成のために学校教育の一環として取り入れられたものです。
身体を鍛えることで、心身ともに強い人間になることが目的とされています。
「スポーツ」は何かのためというより純粋に運動そのものを楽しんだり、競技力を競いあうことを目的としています。
日本人の身体活動はもともと「体育」の考え方が中心でしたが、最近になって「スポーツ」の考え方が広まってきたといえるでしょう。
近年、スポーツ庁が創設され、日本体育協会が日本スポーツ協会になり、体育の日がスポーツの日になったことからも日本人の運動に対する考え方が変わってきたことがうかがえます。
私たちのクラブ活動は「学校体育」の一環として行っています。
「スポーツ」のように楽しみや競技力向上のみを考えた活動として行っているわけではありません。
日大豊山水泳部は「強く正しくおおらかに」の校訓のもと、水泳を通して「男子力」を高めることを目的としています。
クラブに取り組むことで人格を形成し、生涯続く豊かな人間関係を育む活動を行なっています。
チームとしての目標は、学校対抗のインターハイや全国中学で総合優勝することです。
学校対抗の全国大会が失われると、私たちのチームとしての目標も見失うことになります。
スイミングクラブから全国中学に出場することができるようになれば、学校の水泳部に所属する必要もないため、全国の多くの中学校で水泳部もなくなっていくことでしょう。
それと同時に「体育」という考え方もますます失われていくことが予想されます。
それが”時代の流れ”であったとしても「体育」には「スポーツ」にはない価値があることも忘れてはならないと考えています。
日本人はもともと物事を表面的にとらえるのではなく、そこに宿る精神性を大切にしてきました。
それは日本人の美意識を表す言葉に示されています。
例えば、「和」・「みやび」・「幽玄」・「わび」・「さび」・「いき」・「つう」などです。
茶道、武道なども同様で、茶はのどを潤すためだけに飲むものではなく、武は相手を倒すためだけの力ではありません。
もちろん「体育」といっても常に厳しいだけではなく時には楽しみもあり、「スポーツ」といっても楽しいだけでなく人間性や公正さが大切にされています。
要はバランスであって、日本人の「体育」と欧米人の「スポーツ」の価値観をうまく取り入れることが大切であると考えています。
しかし価値観は言葉が失われていくこととともに失われていくものです。
今後、国民体育大会が国民スポーツ大会となり、学校の体育科がスポーツ科になる日が来たとき、日本に「体育」の価値観が残っているのかどうか心配になる今日この頃です。
竹村知洋