文部科学省とスポーツ庁の運動部活動の施策は、「合理的」な改革として推進されています。
しかし「合理的」であることは、すべてよいことでしょうか。
私は公民科で倫理・政治経済を担当しておりますが、哲学の学習を通して「合理的」ということに関して疑問を抱いています。
理性的に考えて合っていることが「合理的」ということであると思いますが、それは人間の理性が確かであるという前提があって成り立つものです。
人間の理性を重視したのは古代ギリシャ人ですが、それはあくまでも自然の法則としての秩序を重んじたものであり、「私」という個人の理性に注目したのは西洋の近代思想です。
デカルトから始まる近代哲学は数学や物理学の基礎となり、国家・社会のあり方や人間の生き方にまで大きな影響を与えてきました。
合理化=近代化=西洋化です。
つまり合理化するということは、西洋化するということでもあります。
日本人はもともと合理的な考え方をすることに慣れていません。
その特徴は言葉の違いにもよく表れています。
例えば一人称の場合、英語であるといかなる時でも「Ⅰ」ですみますが、日本語であると時々にあわせて「私」・「僕」・「俺」・「自分」・「わたくし」などというように変化します。
日本語は主語がなくても伝わる言語であり、例えば源氏物語は一切主語が出てきませんから、誰が誰に話しているのかがわかりにくく読みにくくなるのです。
つまり日本人は、西洋人のようにはっきりと明確に=合理的にではなく、雰囲気を察して柔らかく=感性的に物事を考えて、伝えてきたわけです。
一方で西洋にも人間の理性に懐疑的な見方をする哲学者や思想家もいます。
例えばイギリスのエドマンド・バークがその一人です。
理性が絶対であると考える人は自分の考えが正しいと思いがちですが、バークのような人々は人間は不完全であると考えており、どんな天才であったとしても1人の理性には限界があるとしています。
例えば「合理的」に設計された原子力発電所は絶対安全といわれていましたが、電源を喪失しただけで大爆発を起こしたことは記憶に新しいことです。
人間の理性に信頼をおけないとすると何を基準に物事を考えればよいかというと、人間が長い時間をかけて築いてきた歴史や伝統です。
人々は多くの間違いを重ねてきたかもしれないけれども、長い年月をかけて少しずつその間違いを修正してきたはずであり、歴史や伝統に従っていれば誤ることが少ないと考えるのです。
つまり歴史や伝統は、現在を生きる私たちに与えられた「祖先の知恵」であるということです。
そのため改革をするとしてもあくまでも歴史や伝統を守るために行うものであり、それを破壊するような急進的な改革(例えばフランス革命)には反対することになります。
日本は明治以降、近代化を進める必要性から、バークのような考え方をする人物を教科教育の中で重視してこなかったため、教科書にもほとんど扱われていません。
日大豊山水泳部は1世紀以上にわたる歴史と伝統がある部活動であり、それを時代の流れに合わせて変化させつつ存続してきました。
現在は水泳の初心者からオリンピック選手まで、200名以上の部活動となっております。
現在に生きる私たちの役割として大切なことは「祖先の知恵」を次世代へつなぐことであると考えています。
今回の改革が「祖先の知恵」を破壊するようなものでないことを祈るばかりです。
旧制豊山中学から現在の新校舎までの変遷です。
竹村知洋