日大豊山水泳部 活動日誌

インターハイでの総合優勝を目指して、日々練習に励んでいます。

「合理的」=よいこと?

2022-03-16 12:01:11 | トピックス

文部科学省とスポーツ庁の運動部活動の施策は、「合理的」な改革として推進されています。

しかし「合理的」であることは、すべてよいことでしょうか。

私は公民科で倫理・政治経済を担当しておりますが、哲学の学習を通して「合理的」ということに関して疑問を抱いています。

理性的に考えて合っていることが「合理的」ということであると思いますが、それは人間の理性が確かであるという前提があって成り立つものです。

人間の理性を重視したのは古代ギリシャ人ですが、それはあくまでも自然の法則としての秩序を重んじたものであり、「私」という個人の理性に注目したのは西洋の近代思想です。

デカルトから始まる近代哲学は数学や物理学の基礎となり、国家・社会のあり方や人間の生き方にまで大きな影響を与えてきました。

合理化=近代化=西洋化です。

つまり合理化するということは、西洋化するということでもあります。

日本人はもともと合理的な考え方をすることに慣れていません。

その特徴は言葉の違いにもよく表れています。

例えば一人称の場合、英語であるといかなる時でも「Ⅰ」ですみますが、日本語であると時々にあわせて「私」・「僕」・「俺」・「自分」・「わたくし」などというように変化します。

日本語は主語がなくても伝わる言語であり、例えば源氏物語は一切主語が出てきませんから、誰が誰に話しているのかがわかりにくく読みにくくなるのです。

つまり日本人は、西洋人のようにはっきりと明確に=合理的にではなく、雰囲気を察して柔らかく=感性的に物事を考えて、伝えてきたわけです。

一方で西洋にも人間の理性に懐疑的な見方をする哲学者や思想家もいます。

例えばイギリスのエドマンド・バークがその一人です。

理性が絶対であると考える人は自分の考えが正しいと思いがちですが、バークのような人々は人間は不完全であると考えており、どんな天才であったとしても1人の理性には限界があるとしています。

例えば「合理的」に設計された原子力発電所は絶対安全といわれていましたが、電源を喪失しただけで大爆発を起こしたことは記憶に新しいことです。

人間の理性に信頼をおけないとすると何を基準に物事を考えればよいかというと、人間が長い時間をかけて築いてきた歴史や伝統です。

人々は多くの間違いを重ねてきたかもしれないけれども、長い年月をかけて少しずつその間違いを修正してきたはずであり、歴史や伝統に従っていれば誤ることが少ないと考えるのです。

つまり歴史や伝統は、現在を生きる私たちに与えられた「祖先の知恵」であるということです。

そのため改革をするとしてもあくまでも歴史や伝統を守るために行うものであり、それを破壊するような急進的な改革(例えばフランス革命)には反対することになります。

日本は明治以降、近代化を進める必要性から、バークのような考え方をする人物を教科教育の中で重視してこなかったため、教科書にもほとんど扱われていません。

日大豊山水泳部は1世紀以上にわたる歴史と伝統がある部活動であり、それを時代の流れに合わせて変化させつつ存続してきました。

現在は水泳の初心者からオリンピック選手まで、200名以上の部活動となっております。

現在に生きる私たちの役割として大切なことは「祖先の知恵」を次世代へつなぐことであると考えています。

今回の改革が「祖先の知恵」を破壊するようなものでないことを祈るばかりです。

 

旧制豊山中学から現在の新校舎までの変遷です。

 

竹村知洋

 

 

 

 

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部活動は逆流から“滝登り”の時代へ

2022-03-16 10:25:24 | トピックス

文部科学省やスポーツ庁が推進している運動部活動の改革には“時代の流れ”を感じています。

近年、競泳選手のほとんどはスイミングクラブで練習をすることが中心となっていますが、私たちは時代の流れとは逆らうような形で「学校水泳」にこだわってきました。

しかし今回の運動部活動の地域移行という改革のなかで部活動を存続していくことは、逆流どころか、まるで滝を登って泳ぐような難しさを感じています。

時代は「体育」から「スポーツ」へ、「部活動」から「民間クラブ」へと流れていき、学校は全国的にその流れに乗っていくことでしょう。

私は文部科学省やスポーツ庁の施策に反対しているわけではなく、教員の負担を減らすためにはむしろ必要な措置であると考えます。

日本の教員は諸外国のように授業のみで他の業務は担当制になっているということがなく、学校内外のさまざまな業務を担当しています。

特に部活動は教育課程外の活動であり、土日に大会が入り、競泳のインターハイは夏季休暇の時期に開催されています。

献身的な日本人教員の努力で成立してきた部活動ですが、もはや気持ちだけでは限界にきているということです。

改革は“時代の流れ”として必要であるとしても、文部科学省やスポーツ庁も認めているように、「学校体育」としての部活動には固有の価値があるはずです。

今の流れでいくと数年後には学校対抗の大会がなくなり、参加選手の多くは民間クラブからの参加者となります。

そして全国の中学校や高校から部活動が消えていくことになります。

日本中学校体育連盟(中体連)や全国高等学校体育連盟(高体連)もその役割を変化させていくことでしょう。

部活動を存続させたいという思いがあったとしても、1人の顧問や1つのクラブ、1つの学校の気持ちだけで乗り越えられるものではありません。

部活動が楽しみで学校に行くという生徒もいるはずですし、それが進路を決定する重要な要素でもあるはずです。

実際に日大豊山中学・高校へ進学した生徒の志望動機の上位には、常に「クラブ活動が盛んだから」という理由が入っています。

私は個人的に部活動がやりたいからという気持ちで続けてきたわけではなく、110年間にわたる日大豊山水泳部の歴史と伝統を存続させようという思いでここまで務めてきました。

それは学校側の多大なるご理解の上に成り立ってきたものでありますが、国全体が部活動廃止の流れにあるなかで、部活動の意義を守るために気持ちだけで頑張り続けるというのは無理があるというものです。

続けることは大変ですが止めることは簡単であり、一度やめてしまえばもう2度と戻ることはないでしょう。

競泳では部活動で選手を育成してインターハイで活躍している若手の先生もおりますが、私たちを含めても風前の灯です。

私たちは「少数派」であることを自覚しており、それであるからこそ貴重であるとも考えています。

それぞれの競技には部活動で頑張りたいという「少数派」の先生もいらっしゃることと思いますので、色々な競技や各学校とも今後の部活動のあり方について情報共有をさせていただけると幸いです。

 

 

竹村知洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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