学校から真っすぐ皇居の方角へ向かっている道路が音羽通りです。
江戸時代の音羽通りは将軍家の参詣道で、音羽町という門前町がありました。
「音羽」というのは幕府が家作を与えた奥女中の名前です。
通常は江戸城を中心としているのですが、旧丁目は護国寺側を中心にして9丁目までありました。
護国寺は京都の清水寺を模して建立されていますが、町づくりも京都の1条から9条通りをまねたものといわれています。
いかに護国寺が大切にされていたかがわかります。
ちなみに音羽付近の北側には「青柳」、南側に「桜木」という町もありましたが、すべて江戸時代の大奥役人の拝領地です。
青柳は現在「青柳小学校」として残されています。
「音羽」や「青柳」など女性らしさを感じさせる地名が多い地域に男子校の日大豊山があるわけです。
不忍通りの護国寺西交差点の近くの歩道上にあるのが、旧日本陸軍の軍用地境界標石です。
花崗岩製の標石は縦書きで「陸軍省」と彫られています。
明治以降、護国寺境内地西側の約4500坪に陸軍の軍人墓地「音羽陸軍埋葬地」が造られました。
この埋葬地では日清戦争以来の東京第一師団、近衛師団各部隊などの戦死者など2428柱を、そのほとんどを軍装のまま地下3~5メートルの所に土葬したと伝えられています(戦後に発掘・火葬)。
しかし第二次世界大戦の敗北で陸軍省が解体されると、戦後は護国寺の管理となりました。
埋葬地はその後整備され、現在は縮小された新埋葬地のみが護国寺境内墓地の北西奥に残っています。
竹村知洋