レモン哀歌/高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう
オイラは高村光太郎の『智恵子抄』が学生のころから好きなんです。
その中でも、レモン哀歌はとても好きで。
特に「かりりと噛んだ」から「トパアズいろの香気が立つ」につながるその瞬間が、得も言われぬ感じなのであります。
死にゆく智恵子の中に、何か確かなものを感じる気がしてたのです。
この詩の中の「あなたの咽喉に嵐はあるが」の嵐は、智恵子の中にある死を比喩しているとずっと思っていた。
でも、祖母の病室で気付いた。
本当に咽喉の奥に嵐があるのだと。
少しづつ機能が低下してゆく体の中を、ざっと嵐は吹き抜けるのだと思う。
祖母の甥っ子が、家に会いに来てくれたときに言っていた。
「生きてるのも大変やけど、あっちにわたるのンも、ごっつ力がいるねんで。ぐっと踏み出さな行かれへん。死ぬってごっつ大変な事やなぁ。」
あの嵐は、もしかすると一歩踏み出すための助走なのかもしれない。
生きている時の最期にして最大の大仕事は、死ぬ事なのかもしれないなぁ。
祖母にとっての「数滴の天のものなるレモンの汁」は、あったのだろうか。
あったのなら、なんだったのかなぁ・・・
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白いあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光つレモンを今日も置かう
オイラは高村光太郎の『智恵子抄』が学生のころから好きなんです。
その中でも、レモン哀歌はとても好きで。
特に「かりりと噛んだ」から「トパアズいろの香気が立つ」につながるその瞬間が、得も言われぬ感じなのであります。
死にゆく智恵子の中に、何か確かなものを感じる気がしてたのです。
この詩の中の「あなたの咽喉に嵐はあるが」の嵐は、智恵子の中にある死を比喩しているとずっと思っていた。
でも、祖母の病室で気付いた。
本当に咽喉の奥に嵐があるのだと。
少しづつ機能が低下してゆく体の中を、ざっと嵐は吹き抜けるのだと思う。
祖母の甥っ子が、家に会いに来てくれたときに言っていた。
「生きてるのも大変やけど、あっちにわたるのンも、ごっつ力がいるねんで。ぐっと踏み出さな行かれへん。死ぬってごっつ大変な事やなぁ。」
あの嵐は、もしかすると一歩踏み出すための助走なのかもしれない。
生きている時の最期にして最大の大仕事は、死ぬ事なのかもしれないなぁ。
祖母にとっての「数滴の天のものなるレモンの汁」は、あったのだろうか。
あったのなら、なんだったのかなぁ・・・
きっと、ひーさんやあーママさんやあー介さんは
自分自身の存在を改めて意識することができる
レモンの汁だったことでしょう。
合掌
私たちが天のものなる数滴であったかは、祖母のみが知っています。
いつか聞いてみたいものです。