山岳ガイド赤沼千史のブログ

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薫り高い「安曇野かね春の蕎麦」を是非ご賞味下さい

フィルムカメラ

2015年05月04日 | 雑感

リンゴさんごめん

どうしてもほしくなってしまった古いフィルム一眼レフカメラをようやく手に入れた。

PENTAX MX

1976年発売の露出計内蔵の機械式カメラである。

機械式だから、電池が無くてもちゃんと撮影が出来る。

電池は露出計を作動させる為だけに使われる。

ジャンク品扱いのモノを破格で手に入れたのだが、モルトという遮光材がボロボロになっていて、そのままではあちこちからフィルム室内に光が漏れて使えない状態だった。

ネットで調べてモルトを購入、自分でなんとか修理をした。

引き出しに放ってあった、おそらく5年ほど前に消費期限の切れたコニカのネガ400(なんと、今は亡き、コニカです)をMXに装填し試し撮りをしてみた。

 

ペンタックスMX&50mmf1.2レンズ&コニカフィルム

どうだろう?

デジタルカメラにはないこの感じ。

ISO感度が400だから、ざらついた感じは仕方が無いというか、それがまた良かったりして。

てか、まず、5年前に消費期限が切れたフィルムで普通に撮れるのが驚きである。

でも、この色、風合い、撮った端から懐かしい感じがする。

ああ、フィルムカメラってこんな感じだったよな。

デジタル画像を見慣れた目にはやけに新鮮で、どこかリアリティーが欠如していて、新しい写真なのにあたかも時を超えてきたような、そんな印象がフィルムにはある。

 

最近、二つの写真展を見に行った。

一つは、新穂高ロープウェイの鍋平ビジターセンターでの「小池潜山岳写真展」

もう一つは松本風雅での「横内勝司ガラス乾板写真展」

そのどちらもが、びっくりするほど素晴らしいものであった。

小池さんの山岳写真は、大判カメラで撮った大迫力の作品群。その大きさと深い描写に僕は圧倒された。

横内勝司さんのそれはなんと昭和初期のもので、最近になって、大量のガラス乾板写真が発見されたのだ。

重いガラス乾板を山に持ち込み、あるいは、当時の農村の暮らしを優しい視線で切り取ったスナップ写真といえる作品群。

逆光を多用したその写真には必ず自然に写り込む人物がいて、子供達の屈託の無い笑顔は、現代に暮らす我々の心を打つ。

昭和初期にこんな感覚で写真を撮っていた人が居たことに本当にびっくりした。

26歳から亡くなる33歳までのわずかな間に撮影された、暖かく実にモダンな写真展だった。

 

写真て解像度だけじゃないんだなと思う今日この頃なのだ。

フィルムもまた撮っていこうかなと思う。

小池潜写真展

横内勝司写真展 

クラリネット

スミレ

名も知らぬ花

海ノ口駅

バカの発芽

楽譜を書く人

メキシコの魔除け

満ちる香り

黄昏のギター

君はこの小屋三代目

70’GUITARS

揺れる大麦

 


冬も終わりですが「冬 新しい世界のはじまり」展開催中

2015年02月26日 | 雑感

この冬は本当に雪が良く降ったのだ。

南岸低気圧の通過で降り、またそれが通過してからは日本海側を中心に冬型の気圧配置で降ると言う事を繰り返し、スキーに出かける白馬界隈の積雪は例年の倍近くもある感じだった。そんな雪の季節も少しは落ち着いてきたのか、ここの所は暖かい日が増えてきて、雨も降るようになって融雪が一気にすすんだ。山スキーに出かけ滑り込む尾根から見る対岸の山肌の雪は黄砂混じりの茶色かかった春のそれになりつつある。

だがこの季節、僕にとっては逝く冬を見送るセンチメンタルな季節でもある。

何かに追われる事から開放されて、じっくり一つ事に集中出来る冬が大好きな僕は、春の便りが届くこの季節になると、心の中が妙にザワザワして落ち着かない気持ちになる。確定申告もしなくてはならないし、田んぼの準備もそろそろ考えておかなければいけない、屋根瓦が割れて雨漏りするボロ納屋もなんとか修繕したいし、他にもあれやこれやと急かされている事にふと気がついてしまうのだ。

実は、安曇野から白馬に向う道すがらにある「Yショップニシ」さんで2月7日から写真展をやらせて頂いている。場所は、大町市から白馬方面に向かって両側の山が狭まって来る辺り、南北に連なる仁科三湖の中で一番南側にある木崎湖畔をかすめるように通る国道148号線沿い。目の前には大糸線が平行して走り、木崎湖の湖面が光り輝いている。

写真展なんて考えもしなかった事だったが、Yショップニシ店主のユッキィ嬢からのお誘いをうけて、それではとその気になってしまった。デジタルカメラで撮った写真をプリントする事は滅多にない事だったから、色合いや額とのプリントサイズの相性がわからず再プリントをしてみたり、すったもんだのあげくなんとか開催にこぎ着けたのだが、ほんとにこんなんでいいのかなと言う不安もまだぬぐい去れていない。

この「Yショップニシ」は一風変わったコンビニエンスストアーである。まず、朝もはよからやってはいない。だいたい開店は9時頃だろうか。店内に入ればまずテーブルと椅子そして奥にはカウンターと厨房があって、木崎湖を眺めながらハンドドリップのコーヒーも頂けるし、蕎麦のメニューも充実しているのだ。商品ラインアップも普通とはどこか違っていて、ありがちなコンビニだと思って入ると少し戸惑ってしまうかもしれない。その壁面を使っての僕の写真展である。中央にはウォールナット仕上げのアップライトピアノが鎮座している。

実はこの木崎湖界隈は、2002年に放映されたテレビアニメおねがい☆ティーチャー』の舞台となった場所で、その筋の人達の中では聖地とされている。要するにオタクの聖地。そのなかで、主人公がアルバイトする縁川商店というのがこのYショップニシで、聖地巡礼のオタク達の憩いの場になっている。アニメオタク、鉄道オタク、カメラオタク・・・・・様々なオタク達が行き交う世にも不思議なコンビニエンスストアー「Yショップニシ」山やスキーの行き帰り是非訪れて頂きたい。可愛らしいおねーさん二人とお母様が出迎えてくれます。

冬は僕にとって再生の季節なのかもしれない。そしてまた何かを始めるための「冬 新しい世界のはじまり」展

稚拙な写真の数々ですが機会があれば是非お立ち寄りください。期間は3月31日まで。お待ちしています。

赤沼千史写真展 「冬 自由な世界のはじまり」

2月7日(土)〜3月31日(火)

縁川商店こと「Yショップニシ」・・・・・・・JR大糸線海の口駅から歩いて直ぐ。

 


長野県警、遭対協合同山岳救助隊訓練

2014年06月29日 | 雑感

 夏の登山シーズを前に長野県警山岳救助隊と北アルプス南部地区遭対協合同訓練が行われた。先ずは松本空港にて今年度新規導入された県警ヘリ「やまびこ2号」への搭乗訓練。

 「やまびこ2号」はイタリア製アグスタAW139。やまびこ1号に比べると総重量は1.5倍、出力は2倍程になる期待の高性能ヘリだ。それに伴って搭乗人員は14名から17名となる。

 山岳救助の現場では、ヘリコプターに乗り降りすることが第一歩になる。遭難現場は急峻な斜面や岩壁での救助活動になるので、ヘリはその殆どの場合が着陸できる訳では無い。だから、上空の定位置にホバーリングするヘリから、その外部に取り付けられたホイスト(巻き上げ式クレーン)を使って下降して現場に到着、そして遭難者と共に釣り上げられヘリに収容されると言う段取りを踏む。 

 その搭乗方法は機体ごとに微妙に違う。だから現場で戸惑わないようにその使い勝手を救助隊員は学んでおく必要がある。先ずは格納倉庫内で県警航空隊の隊員からその方法についてレクチャーを受け、細かな器具を確認する。

 一通りのレクチャーを受けいよいよ実際の搭乗訓練を行った。下降してくる2名の隊員を乗せ、けたたましい爆音を上げて「やまびこ2号」は離陸した。上空30メートル程に低位したヘリのハッチが開き、隊員が下降してくる。下まで降りると下で待機した隊員2名が釣り上げられる。これを繰り返す。何も無い空間にぶら下がり高度を上げていく感覚はあまり気持ちの良いものでは無い。はっきり言って僕は苦手だ。隊員二人を釣るホイストのワイヤーはわずか8ミリ程度しかない。強度は十分のはずだずだが、なんかねえ。ヘリの直下ではすざまじい爆音と爆風、そして巨大な機体が持つ威圧感に圧倒された。

 午後は朝日の岩場にて、ザイルを使用した搬送訓練を行った。30メートル程の垂壁を使って、メインザイルを張り込み救助者を入れたストレッチャーを下降させ、また引き上げる。救助には通常のクライミングとはまた違った技術が必要だ。使うザイルも一本ではなく、同時に数人が下降したり登り上げたりするから、システムは複雑で、その一つ一つが確実でなければならない。入り組んだザイルワークの中の弱点を見抜け無ければその先には大事故が待ち構えている。それは遭難の現場だけでなく、こんな訓練でもまったく同じ事だ。いくつもの目で確認する。気合いの入ったかけ声が、垂壁に轟き渡った。

「やまびこ2号」の導入に伴って退役する「しんしゅう」。やまびこ2号に比べるとそれはまるでラジコンヘリの様に見える。古い機体とは言え手入れが行き届いてピカピカだ。長い間ご苦労様。

 


大天井岳遭難捜索 それは奇跡だった

2014年06月25日 | 雑感

 6月22日、甲武信岳に突き上げる釜ノ沢ツアーを雨の為中止にせざるを得なくなった朝、ぼんやりしていたら僕の携帯電話が鳴った。

「大天井岳で女性が行方不明ですが、出動できますか?」

「オッケー、出られますよ」

 救助隊は我々常念一ノ沢班と燕山荘班の2隊が22日に入山し、23日にもう一隊が中房から捜索に入ることになった。体勢を整えて僕らは午後1時、遭対協隊員2名、警察官2名で一ノ沢登山口から常念小屋へ向かった。雨は降っては居なかったが今にも降り出しそうな空模様だった。

 その女性は6月20日に徳沢を出てその日は蝶ヶ岳ヒュッテに宿泊し、翌21日午前10半ごろ常念小屋を経由して燕岳方面へ向かったという。21日午後2時半ころ、大天井岳付近で4人組のパーティーとすれ違ったところまでが確認されて居る。その後女性は燕山荘には現れず捜索願が出された。いったい何処に行ってしまったのだろう?我々救助隊はその日常念小屋までとしたが、遭難女性はその日山中で雨の二晩目を迎えていることになる。

 この時期は通常の登山道には未だに残雪が多く危険な箇所が沢山ある。大天井岳付近も夏道は斜面のトラバース道で、急傾斜の残雪が残り通行は大変危険だ。午後2時過ぎに大天井岳に居たとすれば、燕山荘へ向かうには時間が少し遅すぎる。もしかしたら、焦ってトラバース道を進み、滑落したのかも知れない。時間が足りないと諦めて常念阿小屋方面に戻って、道に迷ったのかも知れない。持っているはずの携帯電話が繋がらないと言うことは、電波の届かない場所に居るか、もしかしたら意識を失っているのかも知れない。そうなると生存の可能性は限りなく低い。反対側の燕山荘から入った救助隊は22日中に大天荘に到着したが、手がかりは見つけ出せず、トラバース道にも踏み跡や滑落跡は無かったとのことである。様々な事を話し合い考えた。天気が良ければ救助ヘリも飛ぶはずであるが、梅雨の空模様に保証などない。

 翌朝、起きると快晴だった。槍穂高もよく見える。しかし、足下には雲海が安曇野側と上高地側にびっちり入っている。下界はどんよりとした曇り空のようだ。ヘリはすぐには飛べない状況と連絡が入る。早朝に小屋を出発し、大天井岳方面へ向かった。道を外れて間違えそうなところを覗きながら行く。かすかな痕跡が無いか、丹念に砂地を見たり、谷を覗き込んだりするが、痕跡は無い。

 東天井岳を過ぎる頃、一機のヘリが我々の上空に飛来した。それは上高地から西岳ヒュッテへに荷揚げを行っている民間会社のヘリで、荷揚げの合間に捜索に当たってくれているようだった。東天井岳の南尾根を舐めるように飛び、東斜面も飛んでくれた。県警ヘリは未だに、松本空港を飛び立てない。稜線の天気は良いのになんともどかしい。

 その直後だった。大天荘まであとわずかと言うところで、遭対無線に連絡が入った。

「遭難者は、自力で大天荘に到着、大きな怪我はなく、元気な模様」

やった!!思わず救助隊4名でガッツポーズ。全く希望を見いだせないで居たので、いきなりの状況好転に僕らは興奮した。大天荘に向かう足も逸る。

 大天荘に到着すると遭難女性は玄関の奥にいて思いの外元気そうだった。若干手足が紫色に見えたが、意識もしっかりしていて笑顔もみえる。怪我もないという。警察官が事情聴取すると遭難から二日間の状況がだいたい解ってきた。状況はこうだ。

 彼女は4人の登山者とすれ違ったあと、セオリー通り大天井岳の山頂から燕山荘方面に行こうとしたところで方向を間違え大天井ヒュッテ側の尾根を下り始めてしまった。そして、100メートル程下ったところで左側のガラ場に滑落し、そのままその先の雪渓を滑り落ちてしまったと言うことだった。途中岩の上を飛び越えたりもしたが、一向に止まらず、靴と指の爪を立てて滑落をコントロールしながら落ちていったが、最後はブッシュを掴んで止まったという。止まった後登り返しを試みたが、更に二度滑落し、観念して樹林の中で休んだ。レスキューシートを被り、あり合わせの乾いた衣服に着替え、わずかな食料で雨の第1日目の夜を過ごした。水は雪渓の雪をペットボトルに詰め、懐に入れて溶かして飲んだ。天気の悪かった昨日はじっとして動かず、もう一晩をそこで過ごした。そして、天気が回復した今朝、3時間を掛けてここまで登り返してきた。

と言うことだった。俄に信じがたいことである。状況を聞いて判断すると、彼女は標高2,800メートルから2,400メートルのところまで滑落している。それは、最初のガラ場から推察すると400メートルを滑落したことになる。水を引く黒いホースを見たというから、彼女が二日間を過ごした場所は、大天井ヒュッテの水場の沢で、彼女はそこへ至る狭い支沢を大した怪我もなく400メートルも滑落したことになる。普通だったら、脇のガラ場に突っ込んでそれきりだ。これはどう考えても奇跡である。そして、慌てずじっとしていたことも、幸いしたのかも知れない。そう、レスキューシート(銀紙のシート)を持っていたこと、これも非常に大きい。常識的に考えれば、この時期に雨合羽だけで雨の二晩を過ごしたら低体温症になっても全く不思議でない。僕なら多分そうなっていたかもと・・・・・・と思う、それほど過酷な状況なのだ。しかも彼女はその最中、眠ることが出来たと言っていた。一同唖然・・・・・・・・女性は凄い!・・・・・・・どえらい幸運の持ち主だ。

 午前10時頃、ようやく開いた雲の切れ間をついて県警のやまびこ1号が飛来した。女性は無事松本の病院へと搬送されていった。その後、次第に雲が沸き、ヘリの飛行も難しくなる状況だったから、これも幸いした。しかし、かの遭難女性は当初、我々と一緒に歩いて下ると言っていたのだ。まさしく奇跡のような出来事だった。

帰る我々の足取りも軽い。

PS 病院に搬送された女性は検査の結果打撲程度で入院もせずに済んだとのことです。良かったね。

 

 

 


彷徨えるネット型登山難民

2014年05月28日 | 雑感

  BSTBSのロケハンから帰った翌日、安曇野の我が家は田植えであった。快晴の朝、さあ始めようという時に僕の携帯が鳴った。出てみるとそれは遭対協(山岳救助隊)からのものだった。

「今、大天井岳で行方不明が出てるんで待機しといてもらえますか?」

「了解」

と言うことで、僕は出動要請を待つ事になった。待つと言っても田植えはしないわけに行かないので、そのまま仕事は始めたのだが、午前9時頃、我が家の上空を長野県警のヘリが山の方から東へ向かい、北穂高(これは里の地名)のヘリポート辺りに着陸するのが見えた。多分それは遭難者を収容して飛来したものに違いなかった。

「助かっていれば良いけどな」

と僕は思った。だがそのまま僕は忙しく夕方まで田植えを続けたのだが、遭対協からの出動要請は結局来なかった。

 翌日新聞を開いてやはりあれは、その遭難者を収容したものであることが解った。結果は死亡。遺体での収容だった。その登山者は上高地から入山し、蝶ヶ岳から常念岳を経て三日目に、それはおそらく、僕等BSTBSロケハン隊が立山で雷と吹雪に見舞われていたその時に大天井岳付近で力尽きたものであろう。年齢はなんと79歳だ。昨年の11月に僕等が雪の霞沢岳に捜索に入った遭難者は77歳。いづれも単独高齢者である。

 雪山に、しかも単独で入るにはあまりにも危険な年齢ではないのか?人それぞれの体力は違うのだろうが、どう考えてもおかしな遭難事故である。夏山と違って、冬山を歩くには、体力と時間の余裕が絶対に必要だ。そして、自分の限界を知る判断力・・・・これこそが重要で、その判断ミスが生死を分ける。それを、この遭難者達は果たして持っていたのだろうか?いっぱいいっぱいで、吹雪の稜線を彷徨っていたのではないだろうか?何とも理解に苦しむ遭難なのだ。

 歳をとると人は頑固になると言う。人の言うことを聞かない男が、歳を取って頑なになり、自分の中の欲求を満たすために、妄信的に山を彷徨っている。そんな図式が頭に浮かぶ。

 現代は情報の時代だ。インターネットを開けばありとあらゆる情報が手に入る。そしてそれらを発信する側も、良いとこだけをつなぎ合わせて情報を作る。読み手はもちろん自分の都合の良いとこだけをつまんでプリントアウトし、それをガイド代わりに山に出かけるのだ。かつては本格的な山岳会にでも入らなければ手に入らなかった冬山の情報も、全部ネットの世界で自由に見ることが出来る。それは高齢者に限ったことは無い。若い単独初心者の無茶な行動も目立つ。

「あんたには無理だよ」

と諭してくれる先輩も友もいない。もう二度と来られないからと、追い詰められた気持ちで自分の何かを成し遂げようと人は無茶な登山に出かけていく。そして、運悪く・・・・・・・死に至る。いや違う、長野県遭対協講師の丸山晴弘さんの言葉を借りれば、彼らはもはや家を出る時から遭難しているのだ。

 現代では79歳の登山者を無条件で冬山へ案内するガイドは居ない。そんな登山ツアーだってある訳がない。ガイドだったら大概、「辞めた方がいいですよ」と、まず言うだろう。そして身の丈に合った登山を一緒に考える。そして、いつも行動を共にしてくれて志向を共有する仲間も居なければ、彼らの高まる気持ちは完全に個の中ではち切れんばかりに充実し、そして実際の行動にそれを移してしまうのだ。

 それをぼくは「登山難民」と呼ぼうと思う。

 そして、その登山難民は、頑なで、独善的で、生真面目で、頑張り屋の人達が多いのでは無いだろうか。年齢だけの問題ではなく、元々が山ヤなんて変わり者のなるものだ。何処か屈折した部分をそれぞれが抱えているような気もするし、中には仲間を煩わしいと考える山ヤも大勢居る。それはある意味みんな登山難民であるのだと僕は思う。

 僕等山岳救助隊は警察官ではない。

「ちょっとあなた、大丈夫ですか?ひとりで行くのは辞めた方がいいですよ、帰って下さい」

などとは言えないのが実際のところ。そう思う人は沢山いるのに。

「大きなお世話だよ」

と言われるのが関の山だ。高齢単独登山者を犯罪者扱いする訳では無いが、警察官だったら、街角で不審者を見かけたら、職務質問ををするだろう。だが、僕等にはそんな権限は何も無い。あれ、おかしいぞと思っても、他人のすることに口出しなど出来ないのだ。

僕が救助隊に入隊して25年ほどが経った。その中で北アルプス南部で未だに行方の解らない人が何人いるだろう?何度も捜索にも出た。それはとても10本の指では足りない。

ああ、どうしたら良いだろう?同業者の皆さん・・・・どう思います?

関連です。ご参考まで

初冬霞沢岳遭難捜索

13六合石室泊鋸岳縦走7月25,26日

 

 


ホタルイカ、大人の朝飯

2014年04月04日 | 雑感

 4月の最初の新月の日、富山県に住むスズちゃんから連絡が入り、ホタルイカをすくいに来ないかとお誘いを受けた。直ぐ隣の県に住みながら、僕は今までホタルイカ漁の経験がなかった。よっしゃ行こう!白馬界隈のガイド達と誘い合わせて午後9時過ぎに富山県へ向かった。ホタルイカは日本海側の若狭湾やなどでもこの時期沸くらしいのであるが、なんと言っても富山湾が有名だ。ホタルイカは今が旬、日本海の春の風物詩なのだ。

 長野県人もホタルイカは大好きで、この時期富山や新潟へ夜を徹してすくいに行く。ただ、長野県人のやる事は遠くからわざわざ行く為なのか、小型の発電機と投光器をしつらえ、岩壁からこうこうとそのライトを照らし、ホタルイカをおびき寄せると言うスタイルが多い。なんか大げさで、ずるいような気もして僕は今まで何度かの誘いを断ってきた。でも富山人のスタイルはヘッドランプいっちょに、すくい網だけというやり方だという。食べる分だけすくえばいいやと言うところだろう。それなら、いいと僕は思うのだ。

 北陸道を飛ばして午後11時過ぎにスズちゃんの家に到着した。暗くてよく解らないのだが、そこは、富山平野からトンネルを一つ抜けた谷間の小さな集落のようだった。彼女の家は、黒々した富山瓦を乗せた立派な古民家で、家の中は見事に整えられ、見るもの全てが彼女のセンスと生き方を感じさせる、そんな落ち着いた雰囲気を持つ家だった。何とも落ち着くのだ。

 彼女が用意してくれた肴で一杯やる。蕗味噌、漬け物、鮭とば・・・・・etc。全て自家製である。、そして大根熟れ寿司。ちょっとこれにはびっくりした。一年近く寝かせた熟れ寿司は米の形は無くなり、まったりしたヨーグルトの様な旨味を持つ。気の利いた肴に日本酒・・・・・・・言うこと無いでしょ?なんか気持ちよくなっちゃって、ホタルイカなんかどうでも良くなってしまった僕であった。

 それでも少し仮眠をして、午前3時頃に出漁した。玉砂利の浜は穏やかで既に何人かの人々がホタルイカをすくい始めていた。ヘッドランプとバケツ、そしてすくい網だけ。波打ち際に目をこらすと、ぽつぽつとホタルイカが青白い光を放っていた。そこへ網を差し入れるともうホタルイカはそこには居なくて少し横に移動している。最初は慣れずに何処をすくっていいのやらさっぱりだったが、視野を広く採ればそれは段々見えてきていくらでも捕る事が出来た。波打ち際にも打ち上げられて、光を放つ。産卵の為の相方を捜して居るのか、我々を幻惑してその身を守る為なのか、光っては消えるホタルイカは儚く美しい。だが次第にそんなセンチメンタルはどうでも良くなって、僕の目は完全にホタルイカ捕獲モードになっていた。バケツに次第に溜まっていくホタルイカ。東の空が白んで沸きが収まるまでの1時間あまり、僕等は夢中になってホタルイカをすくった。

 再びスズちゃんの家に戻ってホタルイカを湯がいて一杯やる。朝一番で頂くホタルイカと酒の旨いこと、旨いこと。シメは僕が持参した手打ち蕎麦と土鍋で炊いた御飯。何とも浮世離れした朝飯。八人が小さな炬燵に足を突っ込んで頂く贅沢な朝飯。海で少し冷えた体と心がほんわかほぐれていった。

 明るくなってみればスズちゃんの家はやはり谷間の集落にあった。小さな尾根をトンネルで抜ければそこは富山平野だというのに、たいして広くもないこの谷に寄り添うように人々は暮らしている。僕の母の実家が、こんな山を背負った集落の一角にあったから、何となく懐かしい感じがする場所だった。山から流れ出る小川が家の脇を流れ下り、その先には集落の下の段へ続く路地が延びている。思わず歩いて行きたくなるような、そんな小径だ。何故かは知らないが僕はこんな傾斜地の集落が大好きだ。こんなところに暮らして見たいと今でもそう思う。

 歳をとると言うことは悪くない。それぞれが様々な技を身につけ、それを自然に誰かの為に使おうとする。例えばそれを持ち寄って、ふとこんな素晴らしい朝飯が出来上がる。もちろんそれは自分の為にしていることなのだが、そんな技や深い思いはやがて人の心を動かし癒す様になる。スズちゃんが振るまってくれた保存食の妙や、今の時期だから頂ける海の贈り物に、僕はすっかりやられてしまったのだ。僕らが若かった頃には絶対に出来なかった贅沢な朝飯が、何気なくこの谷間の朝にはあった。


こちらもどうぞ 八ヶ岳 かとうみきさんのブログ 

 

 


人類が凄い

2014年01月29日 | 雑感

【人類が凄い】地球一周し、少数民族の文化を記録した壮大なプロジェクト『彼らが消えて行く前に』

 ネットで教えて頂いた画像です。これほんと凄い。僕ら文明人はダサイ生き物だなと思うのです。数千年熟成してきたファッションの何とも重厚で艶やかでお洒落なこと。ファッションブランドなんかクソ食らえのかっこよさ。・・・・・・・・・是非ご覧ください。

 


元気をだして

2014年01月10日 | 雑感

 1月8日に下北沢のライブハウスlown(ラウン)にて、東欧系のジプシー音楽を奏でるカツラマズルカとのライブを終えた後、ぼくはひとり小手指の友人N宅に泊まらせてもらった。その友人とは翌日一緒に共通の友人に会う事になっていたのだ。その「共通の友人」とは、ぼくの山のお客さんで、ぼくのツアーに何度も参加して下さっていた方だが、彼女は今、重い病気を患っている。だから一時退院中にお見舞いを兼ねて、お茶でも飲もうと言うことになった。

 僕らは東京駅の南口ドーム下で待ち合わせた。新装されから初めて行った東京駅は、古い物を上手く使って、とてもシックでモダンな佇まいだった。周りがオフィス街だから、待ち合わせの10時頃には意外に行き交う人も少なく、新宿や渋谷なんかとは全く別な落ち着いた雰囲気の場所なんだと感ずる。

 少し遅れてそこに現れた彼女は、幾分痩せたように見えたが、思いの外元気そうだった。思わず笑顔がこぼれる。お目にかかるのは若しかしたら2年ぶりぐらいかも知れない。

 目の前の道を渡って、向かいのビルの喫茶店に入る。いかにもビジネスマンが好みそうなカチッとした店内は天井が高く落ち着いた雰囲気の店で、客も僕らの他は数人だったから、ゆっくりと話ができた。病気のこと、入院の事、そして一緒に行った山のこと。今、彼女が夢中になって居る事、そして、これからのこと。いろんな事を話した。病気なのだから、実は具合が悪かったのだとは思うが、たわいもない話に微笑む彼女の笑顔がとても可愛らしかった。

 

 ぼくは、山岳ガイドという仕事を得て、沢山のお客さんと出会う事が出来た。本来のぼくは、山岳ガイドなどという社交性を必要とする商売など全く向かないタイプの人間だと思うのだが、ツアーのガイドだけでなくて、公募ツアーを企画してからは、ただのお客さんと言うよりは、もっと親密な関係の中で仕事をさせてもらっている様な気がするのだ。他の職種や、この世界の様々な人がどんな気持ちで自分とは別の人達と関わって居るのかは解るわけも無いし、僕らの世界が特別だとかでもないのだが、山は人と人の心をいつの間にか深く繋ぐ場であると、ずっとぼくは思っているのだ。古くからの山の友人は切っても切れない関係にある。何人かの山の友人達は、いつも繋いだザイルの先にいて、そこで何が起ころうと、そのザイルを切ったりはしない。・・・・・・・そんな風に感じさせる友人達がぼくには何人か居る。そして、そんな友人達に負けるものか!とも思うのだ。

 それは、共に辛く危険な山を乗り越え、同じ釜の飯を食べてきたからそうなるのだろうし、山が見せてくれる美しいもの達や、風や雨や雪が僕らの心の扉をいつしか開いてくれて、素の自分のままで周りと関わりを持つ事になるからなのだと思う。そうなることが、全く自然に、いつの間にか・・・・・・そうなる。それが山の魔法である。

 

 二時間ほど四方山話に花を咲かせて、ぼくが信州へ帰らなければならない時間になってしまった。再び三人で道を渡って、南口ドームへ着いた別れ際、ぼくはたまらず彼女を抱きしめていた。友人Nも。頑張ってね!と、応援しているからね!と、そんな気持ちを込めて、彼女をギュッと抱きしめた。彼女も華奢な体で精一杯ぼくを抱きしめてくれた。その時彼女の強さも弱さも、優しさもしっかりとぼくに伝わって来たのだ。それがガイドとお客さんと言う関係であっても、僕らは確かに友人として、繋がって居たのだとぼくはこの時初めて気づいた。僕らは既に山の魔法に掛かっていたのだ。

 新宿から特急あずさに乗って松本に向かう。甲府辺りまでは青空が広がっていたが、南アルプスが見える頃から山には特有の輪郭のぼやけた雪雲がかかり、小淵沢辺りからは車窓の外は雪が降り始めていた。この日一面雪景色となった松本の街も山も、目に染みるように美しかった。

Nんちの らんちゃん


遅ればせながら明けましておめでとうございます。

2014年01月08日 | 雑感

 

 みさなん、明けましておめでとうございます。年末の蕎麦打ちの疲れからか、年が明けるとぼんやり過ごしてしまい、ネタがないもんだから文章を書く気が萎えてしまって、最後の投稿から随分時がたってしまった。11月から年末まで、何かと忙しかったため、特に12月は通販の蕎麦の販売に忙殺され、ぼくはあまり山に出かける事がなかった。

 例年の事だが、11月、12月辺りは仕事の量をグッと減らす事にしている。季節的に雪にはまだ早いし、山小屋も閉じてしまっている。低山に登れば紅葉も終わり、木の葉が落ちきってしまうと色味も乏しくて、なんとなく捉え所が無いのがこの時期の山だ。

 だがそれは、はからずも体のメンテナンスには重要な季節になっている。僕らのようなガイドは、年がら年中山を歩いている。重いテントや鍋釜、ザイルなど、時にはその両方を背負い、膝をミシミシ言わせて山を歩いて居るのだが、ガイドといえどもそれは只の人間である。筋肉や体力は人一倍有っても、実は関節などは普通の人と大差がないのだから、関節の細かいパーツはいつしか磨り減り筋は伸びきったりして、のんびり暮らす人達よりもずっと消耗しているのだと思うのだ。

 プロのスポーツ選手には必ずシーズンオフというのがある。それは過酷な練習や試合の連続から解放され体を修復する為の季節だ。プロ選手は怪我との戦いだ。それを、心底リラックスして元に戻す季節を持つのだ。ガイドもそれと似たり寄ったりの所があって、激しい運動を何もしない日々というのも絶対に必要になってくる。それが、11月、12月辺りなのだ。

 2014年が明けた。今年最初のガイドはBSTBSの番組制作の為のロケハンで西穂高岳だった。西穂ロープウェイに乗って、正月後の沢山の登山者に踏みならされた雪道をトレースして西穂山荘に一泊し、ピラミッドピークまでを往復して下山したのだが・・・・・・・・・・・はっきり言って、結構疲れた。山靴の靴紐を絞めすぎて、両くるぶしを若干痛めたせいも有るのだが、体力的にも久しぶりの山というのは実にくたびれる。膝はミシミシという。この約三週間のブランクは大きかったのだ。プロ選手は当然自主トレから初めて、徐々に調子を上げていくのが全うなのだろうが、僕らはそんな軽い仕事から徐々になんて選べる訳でもなく、いきなり本格的冬の雪岩稜だ。体は休めたいし、でも休め過ぎたら筋肉なまるし・・・・・・・ああ、悩ましい。

 

さて、本日1月8日は、下北沢ラウンにてカツラマズルカとライブだ。では出かけるとしますか。

 ではまた、元気にお会いしましょう。