山岳ガイド赤沼千史のブログ

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彷徨えるネット型登山難民

2014年05月28日 | 雑感

  BSTBSのロケハンから帰った翌日、安曇野の我が家は田植えであった。快晴の朝、さあ始めようという時に僕の携帯が鳴った。出てみるとそれは遭対協(山岳救助隊)からのものだった。

「今、大天井岳で行方不明が出てるんで待機しといてもらえますか?」

「了解」

と言うことで、僕は出動要請を待つ事になった。待つと言っても田植えはしないわけに行かないので、そのまま仕事は始めたのだが、午前9時頃、我が家の上空を長野県警のヘリが山の方から東へ向かい、北穂高(これは里の地名)のヘリポート辺りに着陸するのが見えた。多分それは遭難者を収容して飛来したものに違いなかった。

「助かっていれば良いけどな」

と僕は思った。だがそのまま僕は忙しく夕方まで田植えを続けたのだが、遭対協からの出動要請は結局来なかった。

 翌日新聞を開いてやはりあれは、その遭難者を収容したものであることが解った。結果は死亡。遺体での収容だった。その登山者は上高地から入山し、蝶ヶ岳から常念岳を経て三日目に、それはおそらく、僕等BSTBSロケハン隊が立山で雷と吹雪に見舞われていたその時に大天井岳付近で力尽きたものであろう。年齢はなんと79歳だ。昨年の11月に僕等が雪の霞沢岳に捜索に入った遭難者は77歳。いづれも単独高齢者である。

 雪山に、しかも単独で入るにはあまりにも危険な年齢ではないのか?人それぞれの体力は違うのだろうが、どう考えてもおかしな遭難事故である。夏山と違って、冬山を歩くには、体力と時間の余裕が絶対に必要だ。そして、自分の限界を知る判断力・・・・これこそが重要で、その判断ミスが生死を分ける。それを、この遭難者達は果たして持っていたのだろうか?いっぱいいっぱいで、吹雪の稜線を彷徨っていたのではないだろうか?何とも理解に苦しむ遭難なのだ。

 歳をとると人は頑固になると言う。人の言うことを聞かない男が、歳を取って頑なになり、自分の中の欲求を満たすために、妄信的に山を彷徨っている。そんな図式が頭に浮かぶ。

 現代は情報の時代だ。インターネットを開けばありとあらゆる情報が手に入る。そしてそれらを発信する側も、良いとこだけをつなぎ合わせて情報を作る。読み手はもちろん自分の都合の良いとこだけをつまんでプリントアウトし、それをガイド代わりに山に出かけるのだ。かつては本格的な山岳会にでも入らなければ手に入らなかった冬山の情報も、全部ネットの世界で自由に見ることが出来る。それは高齢者に限ったことは無い。若い単独初心者の無茶な行動も目立つ。

「あんたには無理だよ」

と諭してくれる先輩も友もいない。もう二度と来られないからと、追い詰められた気持ちで自分の何かを成し遂げようと人は無茶な登山に出かけていく。そして、運悪く・・・・・・・死に至る。いや違う、長野県遭対協講師の丸山晴弘さんの言葉を借りれば、彼らはもはや家を出る時から遭難しているのだ。

 現代では79歳の登山者を無条件で冬山へ案内するガイドは居ない。そんな登山ツアーだってある訳がない。ガイドだったら大概、「辞めた方がいいですよ」と、まず言うだろう。そして身の丈に合った登山を一緒に考える。そして、いつも行動を共にしてくれて志向を共有する仲間も居なければ、彼らの高まる気持ちは完全に個の中ではち切れんばかりに充実し、そして実際の行動にそれを移してしまうのだ。

 それをぼくは「登山難民」と呼ぼうと思う。

 そして、その登山難民は、頑なで、独善的で、生真面目で、頑張り屋の人達が多いのでは無いだろうか。年齢だけの問題ではなく、元々が山ヤなんて変わり者のなるものだ。何処か屈折した部分をそれぞれが抱えているような気もするし、中には仲間を煩わしいと考える山ヤも大勢居る。それはある意味みんな登山難民であるのだと僕は思う。

 僕等山岳救助隊は警察官ではない。

「ちょっとあなた、大丈夫ですか?ひとりで行くのは辞めた方がいいですよ、帰って下さい」

などとは言えないのが実際のところ。そう思う人は沢山いるのに。

「大きなお世話だよ」

と言われるのが関の山だ。高齢単独登山者を犯罪者扱いする訳では無いが、警察官だったら、街角で不審者を見かけたら、職務質問ををするだろう。だが、僕等にはそんな権限は何も無い。あれ、おかしいぞと思っても、他人のすることに口出しなど出来ないのだ。

僕が救助隊に入隊して25年ほどが経った。その中で北アルプス南部で未だに行方の解らない人が何人いるだろう?何度も捜索にも出た。それはとても10本の指では足りない。

ああ、どうしたら良いだろう?同業者の皆さん・・・・どう思います?

関連です。ご参考まで

初冬霞沢岳遭難捜索

13六合石室泊鋸岳縦走7月25,26日

 

 


BSTBSロケハン残雪の立山縦走5月9、10日

2014年05月27日 | テレビ出演

 連休の喧噪が去ってBSTBSのロケハンで立山を目指した。朝安曇野の我が家を出る時は晴れていたが、北へ車を走らせると空は次第に不安定な感じになって来てはいた。だが、アルペンルートを乗り継いで室堂に着いてみると外は激しい雷に見舞われちょっと面食らった。まさかここまでとは。1分間隔ぐらいで、ピシャ!ガラガラガラガラ~~~~、ゴッゴーンゴーンと空が唸る。空が裂けそうだ。風も激しく、霰もざんざか降っている。当然だが「こりゃだめだ!様子みましょう」と言うことになった。

 天気待ちをしていてびっくりした。最初はそれほどでも無かったのだが、立山室堂駅のロビーは次々に乗降口から掃き出される台湾人で次第に埋めつくされていく。雷で外の散策が出来ないから駅舎内は何処も台湾人でいっぱいだ。日本語を話している人がほとんど見あたらない。それはまるで中国の町にでも彷徨い込んだかのような錯覚に陥る。雪に憧れる台湾の人々にとって、世界一の豪雪地帯の一つである日本の雪は夢の様な世界なのだと思う。

「ほんとにあるんだ雪って」

「ねえねえ、冷たいよ」(想像)

なんて話しながら雷の合間に少しだけ外に出ては、降り積もったあられを手に取ってキャッキャとはしゃいでいた。無理もない。雪なんか全く降らない台湾の人には10メートルも降り積もる雪は想像を遙かに超えた世界だろうし、一生に一度だけの旅体験をしているのだ。

 結局この日は立山縦走などとても叶わぬ天候で、僕等ロケハン隊は室堂山荘に泊まることにした。

 ロケハン日程は二日間しかない。とても予定のコースは辿れないので早朝から直接別山乗越を目指した。朝一番はホワイトアウト状態だった。みくりが池周辺は誘導ポールが立ててあるので何とか行く先を定める事が出来るが、これがなかったら室堂は恐いところだ。うねった地形が白い闇に彷徨う僕等を翻弄する。次第に視界は開けてきたから良かったが、雷鳥沢辺りから目印が無くなるとホワイトアウトでの歩行は困難になっただろう。

 深いところで20センチ程積もった新雪を踏みしめて登る。広い沢を隔てた室堂乗越への尾根に単独登山者がトレイルを延ばしていく。まだ時々強風が吹いて辺りの新雪を激しく巻き上げ吹き飛ばしていた。僕等は今雪煙のまっただ中を登っているのだ。茶色くなりかけた春の残雪は全て新雪に化粧されて、今見える風景は厳冬期のそれと何ら変わらないであろう。遙かまで完璧な白銀の世界だ。朝日が作り出す雪面の陰影がこの上なく美しかった。

 別山乗越にある御前小屋でお茶を頂いて、カップラーメンをすすった。なんと美味いこと!

 稜線はまた別世界であった。一晩で成長したエビの尻尾が見る物全てに張り付いている。道沿いに立つ道標には30センチもの巨大エビの尻尾もあって、まるで伊勢エビの尻尾だ。あまりの美しい造形にカメラマンのSさんもついついカメラを回す時間が長くなる。風はまだ強いが風下の日だまりは5月の陽射しが降り注いで暖かいから、気分はとても楽だ。

 この日は時間の都合もあり別山から真砂岳へ縦走し、大走りを雷鳥沢に下山した。ようやくスキーヤー達があちこちの斜面に散らばって、存分に新雪を楽しみ始めていた。この日は土曜日だったが、ゴールデンウィークを過ぎればいよいよスキー板は物置にしまわれるのだろうか、広大な斜面には目をこらさないとスキーヤーを発見できない。邪魔する物は何も無い自分たちだけの為にしつらえられた無垢な斜面に、みんな気持ちよさそうにラインを描いていた。いいなあ。忙しさにかまけて、まったく滑り足りない今年の僕のスキーシーズンを思った。

 雷鳥沢に降りたって室同駅までを登り返す。何処の山にも大概あるのだが、この登り返しってのが辛い。まさしく不条理とはこのことだ。途中ハイマツの中に雷鳥のカップルに出会った。2メートル程で見るリラックスした雷鳥の姿が可愛かった。雄は時々尾羽をクジャクのようにめいっぱい広げ、それと同時に赤い肉冠もぱっと広げてみせる。一生懸命アピールしてるんだ。だけど彼女は素っ気なく反対側向いたりしている。まだだよってね。雄もそれを知っているのか、ぐっとこらえて健気に寄り添おうとしていた。時間を掛けて愛は育まれていくのだ。

ほら、どうだい?綺麗だろ?かっこいいだろ?

そうでもないわよ

え?マジで・・・・・・そんなわけないだろ!

まあもうちょっとね・・・・・頑張ってね!

はい・・・・・・グスンッ

 再び室堂駅に戻ると、やはり駅舎周辺は台湾人で溢れかえっていた。回復して暖かな陽射しを浴び、みんな楽しそうに雪と戯れていた。これから梅雨時までアルペンルートは台湾人様々なのである。

 


毎日ツアー残雪の燕岳

2014年05月26日 | 毎日ツアー

 快晴に恵まれているが西風が強く燕岳にある燕山荘前のテ場では、テントを張るのにみんな苦労しているようだった。誰かの持ってきた鯉のぼりが引きちぎれんばかりに激しく風の中を泳いでいる。彼らにとって今日は相当な激流だ。カッと目を見開いて、負けてたまるかと頑張っている。五月の風の中を泳ぐ鯉のぼりはかっこいい。それが腹の中に大きく風をはらんで悠然と青空を泳ぐ様を見ていると、勇気が沸き上がってくるような気がする。

 最近は住環境の変化のためか、そんな時代じゃないのか、鯉のぼりを揚げる家が減っている様に思う。しかも、端午の節句を新暦でやる地域が多いから、五月のただ中に泳ぐ鯉のぼりの数はほんのわずかなものになってしまった。桃の節句も時期が早すぎる。梅もようやく咲くぐらいの時期に桃と言われてもピンとは来ない。七夕も梅雨ど真ん中で、天の川を見上げることも叶わず、なんかしっくりと来ない。お盆だけは旧暦なのもちぐはぐで。なんでかなあと悩んでしまう。日本人はそんな季節感を大切にして来たと思うのだが、そこら辺もうどうでも良くなってしまったのだろうか。やっぱ、五月の空を泳ぐ鯉のぼりがいい。

 この日の晩は相当強い風が吹き荒れた。テントで一晩を過ごす登山者達はかなり辛い思いをしていたのではないだろうか。ここのテント場は西斜面にあって、今日みたいな日は相当煽られたはずだ。シュラフの中の空気は顔の辺りを出たり入ったりして、その中はなかなか暖まらないから、足先を擦りあわせて眠れぬ夜を過ごすのだ。まあ、それも終わってみれば楽しい思い出になる。一晩ぐらい眠れぬことはどうって事はないのだ。そう思おう。

 そんなテント場を抜けてご来光を見るために頂上に向かった。ツアー全体では昨日も登頂しているので向かったのは三名の方だけだったが、喧噪を離れて静かな山を歩くのは清々しくて、昨晩飲み過ぎた罪を洗い流してもらえるような心持ちだった。ここ燕岳は花崗岩の奇岩が多く、イルカ岩や、メガネ岩にあたる光が美しかった。遠く槍ヶ岳が次第に朝日に照らされていく。

これは朝日、夕日?多分朝日

朝日が水が張られた安曇野の田園を照らす

メガネ岩

イルカ岩

タチツボスミレ

オオミスミソウ(雪割草)

オオミスミソウ(八重咲き)

 ツアー初日の5月3日、西穂高岳を震源とする地震があった。西穂高岳では最大震度5の揺れを感じ、余震は数十回の揺れを感じたとのことだった。それが引き金になったのか、燕岳の登山口に通じる県道が土砂崩落のため通行止めとなってしまった。翌朝6時から復旧工事は始まったが、僕等が中房に下山した後も通行止めは解除されず、数百人の登山者が中房周辺に足止めを喰らうことになった。最初は歩いて下山も考えたが、歩行も禁止との情報に、諦めてのんびりするしかない登山者達。風呂に入ってビールを飲んで、昼寝をしたり、おしゃべりしたり、そよ風に当たったり、気ままに時を過ごす。どうしようもないこんな時間、それは忙しさに負われる現代の人達には逆に貴重な体験とも言える。ぼくらの生活には今、そんな時間がなさ過ぎるのかも知れない。全てはうまいこと仕組まれていて、緩い時間、曖昧な時間、適当な時間は存在を許されていないのが現代だと思うのだ。登山口へ降りてポツンと何も無いバス停で2時間に一本しかないバスを待ったり、かつては普通にあったそんなどうしようも無い時間。この間も、友人とそんな話をしたばっかりだ。だが、それも悪くないなと思う。そのうちなんとかなるだろうとあきらめて、神様のプレゼントを楽しむのだ。

開通を待つ車列・・・・・・午後2時30分に一旦解除された。

 自営業者として突っ走ってきた。少しだけこんな時間を持とうとふと考えた。いや、まだ出来ないか。


遙かな尾瀬 遠い空~~♪

2014年05月21日 | ツアー日記

 ♪遙かなお~ぜ~~、遠いそら~~~♪

 と言う歌があるが、それは本当のことだ。鳩待峠から残雪の斜面を尾瀬ヶ原に降りて、山の鼻からひたすら竜宮を目指す。五月あたまの尾瀬ヶ原は、ほんのわずか水たまりのような湿地が顔を覗かせ始めてはいるが、その殆どはまだ一面の残雪に覆われていて、僕等はひたすらそのザラメ雪の雪原を歩いて行く。尾瀬ヶ原の夏道と言えば木道だが、それに沿って歩いて行くと、時々雪が薄いところがあって突然落っこちたりする。初めは笑っていたお客さん達も、度重なるそんな事に次第に口数が少なくなる。緩んだザラメはズムズムとして足が取られるから、一歩が一歩というわけにも行かず、体感的には二倍の距離を歩いたような感じする。常に次の一歩がボコッとはまらなないかどうか心配しながら歩くのはかなり疲れる。水芭蕉も、ワタスゲも、リュウキンカも、僕等を励ましてくれる物は殆ど何も無い一面雪の尾瀬ヶ原は確かに美しいのであるが、何とも退屈でもあるのだ。遙かに遠くぽつりと見える竜宮小屋までの長かったこと。遙かな尾瀬は、本当の事である。

冷たくないのかね?水に浮かんでて、雨も降ってるし・・・動物たちは何一つ持たず暮らしている

所々川に出くわすから,やはり歩くのは木道沿いになる 

 明るくなるのを待って竜宮小屋を出る。僕等が目指すのは景鶴山。一応この山は登山禁止と言うことになっている。ここ尾瀬ヶ原一帯はご存じのとおり、あの東京電力の私有地で、それを管理する東京パワーテクノロジー(旧尾瀬林業)と言うところが景鶴山だけを登山を禁止としているのだ。その理由はよくわからない。

 景鶴山に登るためにはどうしても通らなくてはならないヨッピ川にかかるヨッピ橋と言うのがあって、数年前のことだが、鳩待峠に「ヨッピ橋は工事のために通れません」と言う張り紙がされた事があったが、実際行ってみると工事など何もやってなくて、いつもと変わらぬ敷き板が外されたヨッピ橋がそこにはあった。

 最近はそんな嫌がらせも何も無いが、そこまでしてここを登山禁止にする理由はいったいなんなのだろう。山頂までは100パーセント雪の上だ。東京電力が言うような植生破壊の危険性などあるはずもない。まあ、私有地だから、所有者が勝手な事を言えるのは解ってる。だが具体的に我々の登山を阻止する行為を何もしていないのなら、お目こぼしに与っていると考えて、ありがたく登らせて頂こうと思うのだ。もちろん自己責任で。

ヨッピ橋を渡る、敷き板は雪の重みで壊れるのを防ぐため毎年外される。川に落ちればただでは済まない。

景鶴山山頂には誰かが設置した小さな看板があるのみ、ひっそりとした雪稜上のピークだ。

 この日景鶴までの雪の状態は非常に良くて、心配していた山頂直下の雪稜も問題なく登ることが出来た。残念ながら山頂からの展望は無かったが、再びヨッピ橋に戻る頃には青空が戻ってきた。ここからは再び遙かな尾瀬を満喫する。今度は山の鼻を目指して、ズムリズムリと歩いて行く。今回は正面に至仏山が迎えてくれてはいるが、行けども行けどもその大きさが変わらない。またしてもぼくらは雪穴にはまりつつ歩く。沼を渡る木道に残るわずかな雪がまたやっかいだった。それはまるで綱渡りの様である。落ちたら大変なことになる。山の鼻に着いて、最後は鳩待峠まで登り返して登山は終わる。

至仏山

首まで落っこちてしまったお客さん、おいおい、なんでそこ踏むねん?(笑)

 尾瀬ヶ原は阿賀野川の上流只見川の源流に当たる。その昔燧ヶ岳の火山活動によって谷がせき止められ出来たといわれる広大な高層湿原地帯だ。上高地なども似たような成り立ちの歴史があるのだろうが、この広さは僕等人間の想像を超えたものだ。東京電力がここを手に入れた時、ダムにしてしまえと言う計画があったそうだが、それは幸いにも実現しなかった。この貴重な大湿原がダムに?・・・・・・人間とは恐ろしい事を考える動物だ。神をも恐れぬ行為の結果が今同じ福島県で起きている。

端午の節句は旧暦に限る。鯉のぼりは五月の空をずっと泳ぎたいんだ、きっと(花咲の湯)


テント泊残雪の笈ヶ岳4月29、30日

2014年05月18日 | ツアー日記

 新緑がようやく芽吹き山桜もちらちら見える隣の尾根を眺めながら急峻な尾根を行く。樹林の尾根とは言え、粘土混じりのこの尾根は気を抜けない岩稜だ。登りはまだしも下りは妙に恐くて、疲れた体でこれを最後に下りきらなければいけないのだから、このルートは一筋縄ではいかない。

 笈ヶ岳には登山道が無い。だからこの時期残雪を利用して登る。このルートは頑張ればなんとか日帰りも可能だが、僕はテント泊が良いと思う。山毛欅の巨木の冬瓜平(かもうりだいら)で幕営し、ゆっくり時間を掛けて遙かなる山を楽しむのだ。

 白山一里野から部分開通したスーパー林道を走って、自然保護センターからカタクリが一面咲き乱れる遊歩道を歩くと野猿公園に達する。そこはジライ谷の出会いで、最近では笈ヶ岳へ向かう最も最短のルートとして使われるようになった。僕のツアーでも以前は一里野を基点として山毛欅尾山を越え長大な尾根を縦走して笈ヶ岳を目指していた。アップダウンもかなりあって、雪の状態が悪い時は登頂できない事もあった。山毛欅尾山から見る笈ヶ岳はうんざりするほど遙か遠くに見えたものだ。それに比べたら、このジライ谷ルートと呼ばれるこの尾根は圧倒的に短く画期的なコース採りとは思うが、いかんせんこの樹林の岩稜はいやらしい。不条理はどこにでも転がっている。とは言えそんな不条理をなんとか克服するのが登山の楽しみであり,僕の仕事ではあるが。

タムシバの蕾

春の花たちに励まされて登る イワウチワ

タチツボスミレ

冬瓜平 笈ヶ岳も見えるが奥に見えるのは大笠山だ

 夜半から降り始めた雨が時折フライシートを叩いた。そんな事もまどろみの中で全部覚えている。テント泊ではいつもそんな感じで熟睡とはほど遠い僕だが、だからと言って日中の登山が出来ないかと言えばそんな事は無い。体は横たえているだけでも充分に回復する。長期の登山であればまた別だろうが一泊ごときで、「眠れなかった」と落胆する事はない。その落胆する心持ちの方が登山の妨げとなるから、そんなことは一切気にしないことだと思っている。

明け行く笈ヶ岳

 未明からもぞもぞやり始めて出発する頃には雨は一応収まってくれた。降りが酷くなれば帰ってこようと決めて出発した。雲の流れは速く、白山には雨雲が懸かりっぱなしだが、その北方に位置する笈ヶ岳周辺は時折青空も見えて不安定ながらも登山は可能だった。冬瓜平を抜け急な沢へ下り、対岸の雪の斜面を登る。尾根に出て再び反対側のコルへ下り良さそうな斜面を登って、ようやく白山から連なる北方稜線に達した。この稜線は石川県と岐阜県の県境で、東側の谷は荘川の流れる白川郷あたりだ。稜線を北へ辿る。柔らかめの雪に足を取られながらなんとか山頂に到着した。パラパラと断続的に雨が降るが、時折抜ける青空が僕等を励ましてくれた。

 再び登ったり下ったりしながらテントサイトまで戻って、全ての装備をザックに詰め込んで下山した。ここまでは余裕みんな余裕もあったのだが、やはり下りが大変だった。昨日4時間半で登り上げたジライ谷の尾根を、4時間掛けて下山した。下部岩稜帯は降った雨に濡れて、粘土が滑る。木の根も岩も、確かな感じがあまり感じられないそんな尾根だ。左右の斜面はさらにかなりの急斜面で、谷底には雪解けの沢が轟音をたてている。それを見ながら下るのはあまり気持ちの良いものではない。野猿公園に降り立つ斜面では雨に濡れた粘土質の道がずるずるに緩んでいて、僕は豪快に尻餅をついてしまって、最近流行の細身ののズボンにはすっかり泥まみれだ。ついでにジライ谷の渡渉ではお客様がひとり足を滑らせほぼ水没というオチまでついて、やっぱり、この尾根の下りは妙にいやらしいと思うのだ。車に帰りついた時の安堵感もまたひとしおであった。

ハルリンドウ・・・・・かなあ?

ネコノメソウ

 

 

 

 

 

 


プレイトーンズレコーディング中

2014年05月16日 | 音楽

我がバンド、プレートーンズは現在レコーディング中である。

山に通い、田植えをし、空いた日はレコーディングの日々。

友人であるゲストミュージシャン達も参加してくれて。

コントラバス、三線、フルート、サキソフォン、クラリネット・・・・・

そして録音されたものを熟成させ醸していくのだ。

次第に良くなる音、頭のことは音のことでいっぱいだ。

音、音、音・・・・・・・・

素敵な日々は続く。

請うご期待!

 

ベースマン岩原ab智、奇才安藤則男

たまにはスタジオでどっぷり音を聴く、音のすごさを思い知る

相方安藤則男とエンジニアの榎本君

いったい何本ギター持ってるの?・・・・・・多分20本以上、手は二本しかないのに・・・・バカ!


北アルプスの秘境「初雪山」4月5,6日

2014年05月07日 | ツアー日記

 これは少し前のことである。時は四月の初旬。日本列島が最後の本格的な冬型の気圧配置に覆われた時の事、僕等は自称北アルプスの秘境「初雪山」に向かった。縦走路の主脈から外れているため、登山道は無く雪を利用して登るしかない。栂海新道の犬ヶ岳辺りから見ると、その大きな山体がとてもよく目立つ。小川温泉から登るのが一般的だが、長大な尾根の横移動がまどろっこしいので僕は大平集落から入山する。

 この記事はもっと早く書こうと思いながら、この山行の直後に行った山スキーの事を先に書いてしまった後は、何か気持ちが纏まらなくて、僕はものを書くことにあまり集中出来なくなっていた。4月と言えば、田植えに向けてのアレコレがあって、それは、慣れた仕事とはいえ一つ一つをこなしていくのにはちょっとした緊張感があるのだ。失敗したら段取りが全て狂ってしまう。仕事の順序を考え、日にちを設定し、その合間も山に行ったり、スキーに出かけたり、僕は結構綱渡り的な生活をしていのだ。加えて春というのは、何か急き立てられる様な気分がする。ぼんやり冬にはまっていた僕は、いよいよそんな春の爆発に置いてきぼりにならぬようにしなければならないのだが、それがなかなか上手く行かない。そんな季節と僕自身の心の中のズレがありありと見えて少し憂鬱になってしまうのが、この四月なのだ。そんな春が僕は少し疎ましい。ずっと冬でも良いのに・・・・・・・・まあ、そんなわけ無いわな。これは毎年の事である。そして自営業者はまた走り続けるのだ。

 強い冬型の気圧配置が列島を覆い、日本海には怒濤が押し寄せていた。冬の日本海はたまに見る分には素敵だ。うねる海が、陸の近くで急に競り上がり、砂を巻き込んだ波頭が激しく崩れ落ち砕け散る。海に縁のない長野県に住む僕にはびっくりするような迫力だった。ずっと眺めていたい気分になる。

 新潟と富山の県境の境川を上流に向かうと大平の集落に入る。少し先のゲートから雪が残った川沿いの林道をてくてく歩いた。所々雪崩後が道を塞いでいて、上流では林道は完全に埋まって斜面をトラバースしながら進む。滑落したら雪解け水の大平川へ呑み込まれて瞬く間に低体温症となって命を奪われてしまうのは確実だ。

 初雪山北尾根は末端こそ急で複雑な地形なのだが、そこだけ我慢すれば、後はブナとミズナラの快適な斜面が延々と続く。テントサイトはそこここにあるから、疲れたら何処で泊まっても良いのだが、これから強まる冬型が少し心配で出来るだけ上に登っておくことにした。明日の行動を短めににする為だ。途中熊の足跡を横切る。目覚めた熊がうろつき始めているのだ。春だからねえ。テントサイトはいよいよブナが疎林となる辺りに設けた。千切れた雪雲が時々辺りを覆い雪を降らせるが、比較的穏やかな夜。意外にも寒いことは無かった。

 目が醒めると辺りは10センチ程の積雪に覆われていた。明るくなるのを待って山頂を目指す。テントサイトから上部は見事な雪面が広がっている。時々刺す朝の斜光が新雪を照らしてキラキラと光る。ここは山スキーなら絶叫モノの極上斜面だ。最初にここを訪れたのは山スキーだったが、その時の感動は今でも覚えている。素晴らしいパウダースノーを、まるで日本海に滑り込むような錯覚に陥りながら滑る最高の斜面だった。またいつか、そう、来年辺り滑りに来ようかななどと思った。

 山頂直下はかなりの急斜面だ。そして明らかな雪崩地形。左の尾根から右の尾根に乗り移らなければならないが、ルート取りはかなり難しい。視界が悪い時は絶対に行かない方が良いだろう。さらに北西の支尾根に登ると雪は堅く緊張を強いられた。かと思うといきなり穴に落っこちてみたり、一歩一歩がロシアンルーレットのようだ。最後は傾斜は落ちたが、ボコボコの雪に苦しめられる。足は遅々として進まない。やはり昨日頑張って上部まで登っておいて正解だったなと思う。次第に降る雪が強まってきた。そして、いつもより時間を掛けて喘ぐように山頂に着く頃にはとうとう吹雪となってしまった。見えるはずの雄大な北アルプス最北の山々や青い日本海は、残念ながら打ち付ける様に降る雪のカーテンの向こうだ。体が冷える前に早々に下山するしかなかった。

 自分たちの踏み跡を頼りに下るが、見る見る降り積もる雪にそれはどんどん希薄になり、所々道を見失ってしまう。雪崩地形のところでは、霧も出て完全なホワイトアウトになってしまった。こんな時は慌てず、近くを探す。お客さんにはじっとしてもらって周囲を行ったり来たりすると、わずかに残る踏み跡を見つけた。慎重にそれをたどってなんとかテントサイトまでたどり着くことが出来た。何度も経験してはいるが、ホワイトアウトはほんとに恐い。三半規管が正常を保てなくなれば頭の中は混乱を極める。それはまるで真っ白な闇だ。慌てず事態を把握するしかない。落ち着こう。

 帰り道、大平川沿いの林道では、ミゾレまじりの猛烈な吹雪となった。既に標高は100メートル程だというのに、今回の寒気は相当なものだ。標高の高い栂池や、白馬辺りではかなり良い雪が降っていることだろう。「明日は最後のパウダーを楽しみに行こうかな」などと考えながらミゾレ降る林道を大平集落へ下山した。 

 因みに、僕はこの初雪山に7,8回訪れているが、誰ひとり登山者に出会った事はない。ただ人に会ったと言えば林道で猟犬を連れた鉄砲猟師には3回会っている。それは多分同じ人物で、「熊の足跡無かったけ?」と富山弁で僕に話しかけるのだ。猟期はとっくに過ぎている。多分法令で着なければ行けないと決められているはずのオレンジ色のジャケットや帽子も身につけず、鉄砲はケースに入れたままそれとなく藪に隠していたり。あのオヤジは間違いなく密猟師だ。今回林道を下山中、山スキーを担いだ登山者に初めて出会った。・・・・・・・・・誰もそんな事は言っていないのだが、僕は勝手に認定する。初雪山は秘境である。