山岳ガイド赤沼千史のブログ

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13霞沢岳またもや撤退

2013年02月26日 | ツアー日記

 今年の冬山はどうも上手く行かない。予想に反して寒い冬になった為だろうが、高いところではいつも強い風に苦しめられる。雪などは多少降っていようが、ラッセルがきつくなるのは確かだが、なんとか行動が出来るが、強風はどうにもならない。今ここで無理をして頂上を目指し、引き返す段になった時動けないんじゃ、あっという間に死んでしまう。リスクは侵せないものだ。そのぐらい冬山は慎重にいかないと、とんでもないしっぺ返しが待っている。

 いつもお客さんに言うことなのだが、「冬山は、天気が良くて登頂率五割だよ」

というのは、紛れもない事実なのだ。いままでの経験上、統計的にも(数えたことはないが)そんなもんだろう。と言うわけで、最初に今回の山行の結末は皆さんのお察しの通りだ。なんでだ?

 

 土曜日なので沢渡にはタクシーが待機していてくれたが、平日は全く来ていないそうだ。いくら待ってもお客さんがいないからだそうで、予約しても、そのためだけに来ることは難しいとの事。そうなるとバスを利用するしか手はないので、朝早く沢渡からの入山は難しくなる。松本駅からなら、タクシーも快く乗っけてくれるだろうが。 

 

 

 釜トンネルから霞沢西尾根を目指す。西尾根は釜トンネル出口から30分ほど大正池方向に行ったことにある、国土交通省砂防事務所入り口が登り口だ。こんなにアプローチの短い北アルプスの冬山はそうはない。尾根に取り付くといきなり猛烈なラッセルが始まる。クラストした上に、30センチぐらいのさらさら雪が積もっているので、クラストを蹴り割るのに力がいるし、その下が南岸低気圧の通過で降った雪のためズコズコで、もがけど苦しめどいっこうに固まらず進まない。夏なら五分で来られそうなところを20分もかかってしまう。気が遠くなる。でも、冬は焦ってはダメだ。なるべく汗をかかぬようにじっくりやるのだ。

 尾根に登りあげると、日当たりの良いところはクラストが厚くなるので、上に乗っかれたりする。ああ、これは楽だ、固い地面は楽ちんだと、油断しているといきなりドカンと穴にはまる。この西尾根は、元来風当たりが強く、今年のように冬型の気圧配置が続くと、雪が吹き飛ばされて意外と積雪が少ない場所がある。その下は熊笹だったりするから、落っこちると首まで潜ってしまう。いったん落っこちると五倍は疲れる。

 

 そうこうしつつも、亀の歩みも少しずつ成果をみせはじめる。今日のところは曇天ながら天気も安定しているし、がんばれるところまでがんばろう。時々六百山辺りが垣間見えるが、あとはガスって何も見えない。

 

 西尾根ジャンクションの直下に、この尾根最大のがんばり所がある。そこは尾根が広いので積雪も多く、毎年苦労させられるところだ。これから登ろうとする斜面は胸に届きそうなぐらいな傾斜だ。肩は完全に雪面に触っている。

 先ずはピッケルで雪を払い、クラスト気味の層に膝蹴りを食らわす、そしてようやく靴を蹴り込む。この一連の動作を、30㎏の荷物を背負って何回も何回も繰り返す。二番目以降は大分楽になるのだが、それでも大変である。斜面の弱点を見極め、ひたすら上を目指す。何も考えない。一歩ずつうなり声を上げながら登る。もはやこれは快感だ。

 それにしてもお客さんは楽しいそうだ。お客さんって奴になってみたいもんだ。

 雪壁を突破し傾斜が落ちるとジャンクションに到達する。まだ早いので、もう少し進んでおくことにする。午後2時10分、2,200メートル地点を今日のねぐらとする。ここまで来ておけば明日の登頂は大分楽になる。

 日差しもあるので、このテント場は暖かく快適だ。水を作りお湯を沸かし、お茶を飲んだりお酒を頂いたり、この、ほかに何もしない今時間は実に楽しい。

みんなで、山の話やら、金が値上がりしている話やら、作った水はPM2.5入りだねとか四方山話はつきない。

 今日の晩飯は?それはこの間の焼岳と同じ、赤沼ツアー名物チーズ焼きカレーと、焼きそば。どちらも軽く、しかも食事にもなりつまみにもなる。お客さんにも大好評のこの一品。だが、このインチキ料理を美味しくしているのは、一人一人の今日のがんばりであることは紛れもない事実だ。人は頑張る自分が大好きなのだ。無風のテントの中は暖かく笑いが絶えない。この時我々は翌日の悪天候など想像も出来なかった。

 夜半から天気はおかしな感じになってきた。時々猛烈な風が押し寄せたかと思うとテントを押しつぶそうとするが、突然ぴたっと止む。しかも毎回風の方向が違って感じる。元々私は山の中で、特に冬山ではあまり眠れないのであるが、この風はあまりにも突然猛烈な勢いで襲いかかってくるので、飛ばされるのではいかと不安になる。

 

 4時半起床。昨夜の断続的な風は、絶え間ない地吹雪に変わっていた。

「今日はダメだね」

「そうですね、撤退ですね」

 焼岳でも交わされた会話が今日も交わされるが、今回は下りに集中するとしても若干の恐怖を感じる程だ。相変わらず、方向を定めず荒れ狂う風は、テントを押し潰そうとする。背中でテントの壁を背負ってはこれに逆らおうとする私。

 

 冬テントは水分補給から始まる。冬山ではポット一本意外行動中に水分をとることは難しい。なんせ、何でもかんでも水分という水分は凍ってしまうので、持ち歩くことに全く意味を持たない。よって、朝の飲みダメが必要不可欠となる。お茶を飲み、ラーメンをすすり、またお茶を飲む、そんでまたお茶を飲む。腹チャプチャプになるまで飲めば良いのだ。

 

 明るくなるのを待って意を決し、外に飛び出した。テントを畳むのも四人がかりだ。飛ばされぬように、みんなでしっかりテントを捕まえ、ポールを抜く。案の定テントポールは曲がってしまっていた。本体を丁寧に畳んだりする事も出来ないので適当にザックに押し込む。撤退の日はそれで良いのだ。

 猛烈な地吹雪の中ひたすら尾根を降りる。顕著な尾根なので迷うような事はないが、登路の雪壁やら急斜面のトラバースやら、ことごとく昨日のトレースは消えていた。しかし穴に落ちても、ラッセルをしても下りは楽だ。昨日7時間かかったところを2時間半で降りてしまった。砂防事務所辺りには、スノーシューの一行が賑やかに休憩をしていた。しゃばに帰って来たのだ。

 また来年来て下さいね。風呂に入り、稲核の渡辺にて蕎麦、松本駅解散。

 


石巻、三陸の旅その1

2013年02月21日 | 石巻、三陸、福島

 大森食堂は、津波で何もなくなった南三陸町志津川の大森地区の山を背負った場所に立っていた。昨年の夏マスターが安曇野、松本で震災の語り部として招かれ、その時私がギターを少し弾かせてもらった縁があったので機会さえあれば是非訪ねようと思っていたのだ。10メートルほど山を登ったところには民家が残っているが、一階には津波に襲われた痕跡がある。

今回の三陸の旅は突然始まる。出発前々日に震災後南三陸でずっとボランティア活動を続ける友人民さんが突然仕事場に訪ねてくれた。

「ちーくん、石巻でライブやんない?」

その一言で突然今回の旅は動き始めた。ずっと思っていたけどなかなかその機会がなくて、いや、びびって二の足を踏んで東北へ向かわなかった私の頭のなかでパチンと何かがはじけたのだ。

 

 仕事を終えた朝、雪降る中を長野道から北陸道、磐越道を一気に走って東北道に入る。途中磐梯山PAで喜多方ラーメンを食べただけで、600㎞を走りきった。誰かが待っていてくれるのはうれしいものだ。石巻で民さんと合流し、先ず石巻全体を見渡せる高台へ向かった。途中車から見える町は一見普通に見える。だが、ところどころ虫食い状態で家がない空き地も多く、そこはみんな津波で家を壊されたところなのだそうだ。

 高台からは石巻全体が見渡せた。港を中心に東側は、住宅地だったのだろうか、一面が何もない更地の状態だ。コンクリートの建物以外は全てなくなっているのだ。言葉が出ない。

 

 高台をおり、ライブ会場「千人風呂」に向かう。そこは、震災当時ボランティアにより公衆浴場が運営されていた場所の傍らにある。元々が布団屋さんで一階店舗は広く、そこにステージと客席がある。詰めれば百人ぐらいは入れそうな会場だ。丁寧に手入れされたギターが何本もあり、ここの運営を任されている熊さんとギター談義に花が咲く。アップライトピアノや音響機器もそろっている。ここも、一階天井まで水に浸かったそうだ。

 熊さんによると、震災後町から人が消えてしまったのだそうだ。だから、ここでイベントを開いて、人に帰って来てもらいたいのだそうだ。あそこ行けば誰かがいて何かやってる、そんな場所にしたいのだそうだ。ライブは無料、出演者ももちろんノーギャラ。みんなの心意気で運営されているのだ。気合いが入る。

 打ち合わせを終え南三陸へ、コンビニもみんなプレハブで営業している。辺りはすっかり暗いのでよくわからないが、ヘッドライトに照らされる町であったであろう場所には何もない更地しか見えない。おまけにやたら埃っぽい。地元の商店で、地元産のひらめ、びんちょうまぐろの刺身や、ホタテの煮付け、煮魚と酒を買い込んで、ボランティアセンターのあるベイサイドアリーナへ向かう。

 ここはもともと高台にある体育館だが、その周辺に、役場、診療所、ボランティアセンターが集結している。ボランティアセンターは超大型テントだ。ボランティアの人達は、この周辺の駐車場で車の中にな寝たり、テントで生活をしているわけだ。

 ボランティアリーダーの長田さんを交えていろんな話を聞かせてもらった。ボランティアの数が減っているが、やるべき事はまだまだあるということ。ここ南三陸は個人のボランティアをまだ受け入れているので、是非来てもらいたいとのこと。朝、ボランティアセンターに来てくれれば、そのまま活動させてもらえるとのこと。報道では解らない現場のいろんな問題があるんだなあと感じた。

 

 翌朝、民さんと北へ向かう。54号線はリアス式海岸沿いに細かい半島を登ったり下ったりしながら北へ延びている。高いとことは何もなかったようなのどかな風景だが、下って小さな入り江にはいると突然何もなくなると言った事の繰り返し。高台には仮設住宅もある。周辺の山も塩を被ったところの杉は枯れてしまい、全て伐採されていた。津波到達警戒ポイントの標識が入り江の入るとき出るときには必ずある。

 気仙沼に入ると右側に打ち上げられた貨物船が見えたので行ってみた。有名な奴だ。辺りには何もない。基礎だけが残る更地の一角にそれはあった。思ったよりかなりでかい。何とも信じがたい光景だ。

 気仙沼港周辺はコンクリートの建物が多いので、まだ町の体を残しているが、壊されたシャッターが錆び付き痛々しい。

 さらに車を北へ走らせ陸前高田へ。ここに着いて唖然とした。ここは気仙川の河口に広がる町だが、広大な町のあとには何もない。若干の瓦礫は残るが、見渡す限り何もないのだ。海際には堤防もなく、地盤沈下の為か、あちこちに水が浸水している。かろうじて残った五階建てアパートには、4階まで水が押し寄せた痕跡が明らかだ。

 所々ダンプや重機が動いてはいるが人が見あたらない。この町に暮らした人達は今いったいどこで暮らしているのだろう?やりきれない思いになる。それぞれの町に暮らす人々にとって、故郷は自己のアイデンティティーそのものだったりする。しかし今それが失われ、帰る事は許されず、これからのことも何も決まっていない状態なのだ。多くの方が亡くなって、ちりぢりばらばらの空の元で慣れない土地での暮らしを続けているのだ。

 

 

 南三陸に向け、折り返す事にする。更地の片付けのため、ダンプカーが出たり入ったりするものだから道路はどろどろ。トンネル内はもうもうたる土煙で視界が悪い。この日は冬型の気圧配置が強く、北上山地を越えてきた雪雲が千切れてゲリラ雪を降らせるものだから、私の車はいつの間にかラリーカーの様に土まみれになってしまった。 

 志津川と言えば、防災センターの電波塔にしがみついて何人かが助かったあの場所だ。津波が襲ってくると言うのに最後まで防災スピーカーで住民に避難を呼びかけ続けた若い女性職員のいたあの場所だ。

 ここも町には何も残っていない。津波に呑まれた志津川病院もいまは取り壊されて瓦礫の山となっていた。そこに防災センターは鉄骨だけの姿で建っている。献花台が供えられ線香の香りが立ちこめる場所だ。父親の墓参りにも行かない私だが、思わず線香に火をつけ手を合わせた。

 腹も減ったので、念願の大森食堂へご挨拶に伺った。大森食堂はそんな更地にたった一軒だけポツンと建っていた。もちろんプレハブだが、外見からしてマスターの心意気を感じる店だ。

 中はいるとまだ昼少し前だったのでお客さんは一人だけで、マスターと、奥さんと娘さんがいらっしゃった。

 私の顔を見て、俄に思い出せなかったのだと思うが名乗ると「いやあ、ありがとう。来てくれたの!」といって手を差し伸べてくれた。大きくて分厚い手のぬくもりがそこにはあった。安曇野に来たときは、震災を語りながら、涙を流し、黙りこくってしまうような状態だったが、少し元気になったように感じた。やはり故郷で商売を続けここで暮らすことが元気のもとなのだなあ。とにかく満面の笑みで、みんな良くしゃべる。私も負けじと口を挟む。ああ、賑やか。気の遠くなるような問題を抱えていても、深い悲しみがそこに横たわっていても、今はとりあえず賑やかにしゃべる。

 

 名物ホルモン丼を頂く。ホルモンを甘辛く炒めて丼に盛ったものだが、味付けはパンチが効いていて実に私好みだ。昨日のカレイの煮付けも甘辛くて旨かった。

「また来ますよ」と再会を約束して店をでた。

 

 千切れた雪雲が依然激しいゲリラ雪を降らせる中、風呂に入るため北上川河口近くの山の中にある追分温泉に行った。よく手入れされた木造の宿だ。玄関前にはトヨタS8、ダットサンフェアレディー、ルパン三世が乗っているような黒塗りフォードなどクラシックカーが野ざらしで置かれている。しかしそれはみんな、ナンバー付きで実動車のようだ。東北の人はおおらかだなあ。

 入浴料はなんと300円。しかもシャンプー、リンス、石けんつきだ。ロビーには古いモーリスのギターが二台もあって、これもとても手入れされた良い状態。飾り戸棚にはマーチンやら、ギルドやらギター好きの私はすっかりやられてしまった。ミュージシャンの皆さん、ここに泊まりに来ましょうよ。きっと楽しい夜になる。

 民さんをボランティアセンターまで送るために再び南三陸まで行ってから塩蔵わかめ、タコちゃんTシャツ、酒盗、震災の写真集などを購入して夕方から東北道をひたすら南下した。失意の中にいる大切な友人二人に会うために。 

 

 

 

 

 

 


蝶ヶ岳救助要請2月11/12日

2013年02月16日 | ツアー日記

 焼岳ツアーから帰る途中私の携帯が鳴った。それは遭難対策協議会(以降 遭対協)からのもので、蝶ヶ岳で単独登山者が、道迷いで救助を求めているとの事。我々も下山には苦労したので、その過酷さが想像出来る。長塀尾根にテントを設営し、アタックザックにて登頂したが、降り積もる雪で帰りのルートを見失い、蝶ヶ岳ヒュッテ冬期小屋に避難しているとのこと。シュラフもないはずだから、それはそれは寒いだろう。

 急いで家に帰り、装備を整え、長野県警救助隊と風穴の里にて合流する。天候は依然悪いから、今日中のヘリ救助は難しいだろう。こういう時は、我々のような救助隊が、地上から現場を目指すのだ。県警隊員は2名、遭対協隊員が5名の編成で、今日のところは釜トンネルからすっかり日が落ちた雪道を上高地に向け歩く。テント泊なので、焼岳から下山したばかりの体には、重い荷物がこたえる。

 到着は午後8時。雪を溶かし、水を作り、簡単な食事をとり少しウイスキーを頂いて就寝する。

 

 夜半、頭がやたら寒い。痛いほどだ。風がないのでシュラフの中は暖かだが、半分出た頭が寒さで悲鳴を上げている。シュラフにすっぽり入って、体を丸めた。

 3時半に起床し出発の準備をするが、気温はマイナス17度。これでは頭が痛いはずだ。遭難者は冬期小屋に入っているとは言え、どれほど寒い思いをしているのだろう?

 アルファ米の朝食を済ませ5時には出発する。快晴、星が降り注ぐ様だ、風もない。これなら、朝一番のヘリ救助が期待できる。

 明神に着く頃、夜が明け始めた。とりあえず蝶ヶ岳が見通せる場所で、ヘリの救助を待つ事にする。明神岳が朝日を浴び始めた。この時の気温はなんとマイナス24度。足先が千切れるほど痛いので、全員地団駄を踏んでヘリを待った。

 午前7時、遙か蝶ヶ岳上空にヘリの音が聞こえる。程なく無線に無事救助の連絡が入り一同喜びの声を上げるが、これは遭難者が無事であった事に対してではなく、これから予想されるラッセルをしなくて済んだ事への歓喜の声だったのかも知れない。全く不謹慎なり人間の心とは。

 晴れやかな気持ちで釜トンネルへ下山する。川面から覗くバイカモがきれいだ。外はマイナス20℃なのに、湧き水に守られて、こんなに青々と、目に痛い。いつもからかって遊ぶ岩魚ちゃんは見えない。いったいどこにいるのだろう?

 河童橋からは穂高がよく見えるが、予報通り薄雲が早くも広がってきた。今晩からまた雪になるから、ヘリ救助されて本当に良かった。

 焼岳も冬は一際美しい。

 大正池からの穂高連峰、雲がかなり広がってきた。

 このあと救助隊から解放された私は、もう一人の仲間とともに、乗鞍スキー場へ転進、ヘロヘロになるまでスキーに興じたのだった。ただでは帰らない、どん欲な山ヤ達なのだ。


厳冬期焼岳テント泊

2013年02月16日 | ツアー日記

 2月9日より三日間の予定で厳冬期焼岳ツアーに出かけた。お客様は4名様。

初日は大変良い天気。豪華に中の湯温泉に宿泊し温泉を楽しむ。露天風呂からは穂高連峰と霞沢岳が残照に照らされてまぶしく輝く。西の方はすっきり晴れているんだなと、明日への期待が高まる。左側の尾根が、今月末に行く霞沢岳冬ルートの西尾根。一気に頂上へ突き上げている。

 翌日起きてみると、あんなに晴れ渡っていたのに、なんと朝から雪模様で、既に10センチぐらい積もっている。一同一瞬落胆するが、美味しい朴葉味噌と、寄せ豆腐の朝食を頂き、出発の準備をする。天気予報では今日は良い天気のはずだから、何とかなるだろうと、かまわず出発。今日は焼岳を登頂し、りんどう平テント泊の予定だ。

 三連休の中日なのに、誰も登ってこない新中ノ湯ルート。我々だけが、新雪をかき分け、トレースを上へ上へとのばして行く。ラッセルは平均膝下ぐらいなので、さほど苦にはならない。時々吹く風に栂の木についた雪が落とされ、爆弾のごとく降り注ぎ歓声が上がる。二時間ほど登ったところでようやく山スキーヤーのカップルに追い抜かれた。すいすいと、山スキーは登っていく。いいなあ山スキーは。

 4時間半の格闘の末、りんどう平に到着。時間と天候を考えて今日の登頂は諦め早めにテントを設営する事にする。ここは北や西からの風を受けないので、天候が相当荒れても、わりとのんびり過ごせる別天地。みんなすぐにでも休みたいところなのだがここはもう一踏ん張り、ザックを背負ったまま、テントを張るために雪を踏む。踏んで踏んで、広く平らに、快適なテント場を作る。この作業手を抜くと夜が耐えられなくなる。デコボコの寝床は眠りを妨げる。今日いちばん息が上がったのはなんとこのタイミングだった。

 雲間には傾き始めた太陽が雪雲を輝かせてまぶしい程。なんて美しいのだろう。昨日から降りつづく雪が、栂の森を静かに覆っている。

因みに、好天時のりんどう平はこんな感じ。背後には焼岳が、噴気をあげている。

 テントの中で、くつろぐお客様。この日の夕食は、赤沼ツアー名物、チーズ焼きカレーと、ポテトサラダ。私は元来酒飲みなので、いや山に酒を飲みに来ていると言った方がよい程なので、食事は全てつまみ兼用となる。焼きカレーはお焦げが絶品なのだ。自画自賛。

 狭いテントの中でもみんなでわいわいやりながら時を過ごせば、そこは今宵の快適なねぐらとなる。7時には就寝。夕方から、雪はさらに強くなり、風が時々テントをばたばたと押さえつけてくる。明日は、だめかな?まあ、考えても仕方が無いので、シュラフの中で、もぞもぞと朝を待つ。それほど寒くはない。時々テントを派手に突き上げたり揺すったりしないと降り積もった雪でテントが潰されそうになる。そのたび内張に張り付いた結露による氷がテント内に降り注ぐ。冷たいがこれが冬のテントの風物詩?笑、ま、気にしない。

 

 4時30分起床。なんと一晩に降った雪は、40センチはあろうか。トイレまでのトレースも全て埋まっているので、まずは雪かきから朝の仕事が始まる。

 朝食を済ませ、夜が明けると、りんどう平は、一段と深い新雪に覆われていた。

 今日の登頂は無理だね。南尾根がゴウゴウと音を立てている。下山を決める。

 すっかり消えてしまったルートを、もがくように、泳ぐようにひたすら中ノ湯を目指す。深いところでは、私の股下までのラッセルを強いられる。登り返しがやたらきつい。平均60センチってとこだろう。元々溶岩流で出来上がった為か、この尾根は広く、地形が複雑なので、こんな天候の時は、細心の注意を払って下らないとルートを見失う。たいした距離ではないが結構緊張する。GPSが大活躍する。

 

 

 枯れてもなお、威風堂々と立つ栂。

中ノ湯が間近になり林道を行くが、ここが意外にも今回のラッセルの最難関となる。完全股下までの、平地のラッセルはきつい、なかなか足が上がらず息ばかりが上がるが、何とか中ノ湯にたどり着く。

 お疲れ様!みんな晴れ晴れした顔で、健闘を讃え合う。雪山なのだからこんな事もあるさ。山と遊んでもらうってこんなことなのだ。こんな経験が一つ一つ自分の体に染みこんで行くのだ。そして、また山に恋焦がれる様になる。

 温泉で体を温め、蕎麦を堪能して松本駅解散。

 みなさん、ほんとうにお疲れ様でした。

 


戸隠 飯縄山スノーシュー

2013年02月03日 | ツアー日記

2月2,3日と戸隠周遊と飯縄山スノーシューツアーに行って参りました。お客様は2名。昨日あたりから急に気温が上がり、雪はべったり重い感じの第1日目、戸隠奥社入り口から戸隠牧場~随神門~鏡池までを巡り、元に戻るコース。戸隠連峰はガスって見えません。こんな原生林の中を、適当に進みます。まったく適当に、時には川に行く手を阻まれて。

随神門と杉並木、何とも重厚な雰囲気。最近はパワースポットとして、大人気です。この日も若い人が雪道を奥社へと歩くのが目立ちました。

鏡池は、この時期完全に凍って、雪に覆われています。その上に立つのも冬ならではの楽しみ

 

二日目は天候も回復して、戸隠スキー場からリフト利用で瑪瑙山へむかい、飯縄山を目指します。中腹にまとわりつくガスの為、行く手は見えませんが、コンパスを使いルートを決めていきます。咲きとぼりのオヤマボクチのかわいらしさよ

 

飯縄山直下から、太陽が霧の向こう側に輝き始め、期待感が高まります。

 

その先は思った通り、青空がひろがりました。霧氷が目に痛いくらいです。

飯縄山頂の標

積雪は1メートルぐらいかな。

山頂からは北アルプス、妙高、火打、高妻などが見えました。

頂上からは中社への尾根を下山。

この日はトレースがありましたが、なければ迷いやすい尾根です。

神告げ温泉で風呂と戸隠蕎麦にて昇天