【人類が凄い】地球一周し、少数民族の文化を記録した壮大なプロジェクト『彼らが消えて行く前に』
ネットで教えて頂いた画像です。これほんと凄い。僕ら文明人はダサイ生き物だなと思うのです。数千年熟成してきたファッションの何とも重厚で艶やかでお洒落なこと。ファッションブランドなんかクソ食らえのかっこよさ。・・・・・・・・・是非ご覧ください。
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サンピラー(太陽柱)現象、大気中の水蒸気が凍り付き太陽光を反射屈折させる
白馬へ向かう道は完全に凍りつき、黒光りするR148号線はまるでスケートリンクの様であった。木崎湖辺りでは正面衝突事故を見かけ、急ぐ気持ちにブレーキをかける。一台は横を向き、もう一台は完全に法面に乗り上げている。この週末は一気に寒さが緩んで雨となって、その後の再び冷え込んだのがその原因だ。今日は晴天の予報。多くは無いが新雪も降ったはずだ。
凍てつく道、ツルツルです
雪国の晴れ間というのは、とても明るい。それは、降り注ぐ太陽が雪に反射して、目を細めるほどに眩しいと言うそれだけのことではない。ひとたび冬型の気圧配置になると、それは何日も続いて、太陽は一向に顔を見せない事もあるから、その合間の晴れ間は、そこに住む人達の心の中まで明るく晴れやかに照らしてくれるのだ。この一日を存分に楽しもうと思う。
macco ohshima
前にも書いたが、明日は良いぞと確信すると、スキーの連れを求めて僕はあちらこちらに電話をする。最近新たに望遠レンズを手に入れたもんだから、それを使いたくて仕方がないと言うこともあった。白馬に住むガイド仲間の松原君に連絡をしたら、「明日はダメですね」との事であった。そしたら程なくフェイスブックに連絡が入った。それは松原君の彼女maccoちゃんからのものであった。
「あす女子スキー部の部活に行きますよ、八方です」
何人かの人の名がそこには有って、それはあだ名だったりするのでそれが誰なのかよく解らなかったのだが、「女子スキー部の部活」と言うことに惹かれ写真も撮れることだし参加させてもらう事になった。勝手にそこら辺のスキーヤーを撮影しても良いのだが、それをいぶかる人もいるからそれは気が引けるしね。
講師 永井ガイド
翌朝八方名木山ゲレンデに集合した蒼々たるメンバーに、僕は腰を抜かしそうになった。講師役は友人の永井ガイド、朝日小屋の清水ゆかりさん、富山の登山ショップチロルの奥様佐伯侑子さん、富山の山岳アイドル、スズままこと山本さとみさん、八ヶ岳の女性ガイド加藤美樹さん、そして白馬のアイドルmaccoちゃん。ここら辺の山関係者で、この人達を知らない人はいない。重鎮大集合。いわば、北アルプス北部の姉御達である。聞けば、毎週月曜日、部活と称してあちこち荒らし回っているらしい。この木曜日はシャルマン火打スキー場なのだそうだ。そのうち野沢温泉にも行くらしい。maccoちゃんもそうだが、あちらと思えばまたこちら、女性の行動力は凄いと思う。
ゆかりさん「赤沼さん、最近なんで来てくれんが?」(と言うような富山弁)
僕「はは、行きたいとこだけどね、集客がねえ、すんません」(タジタジ)
などと冷や汗ものの会話をしつつ、リフトに乗り込んだ。
清水ゆかりさん
最初こそ少しばかりガスが巻き付いていた八方だったが次第に気持ちよく晴れて、この日は絶好のスキー日和となった。気温は低い。リフトが長いと寒くて早く滑りたくなる。至る所に広く開けた斜面を持つ八方は、未圧雪バーンも多く、山スキーの練習には格好の場所だ。永井Gの後を追いかけて、皆さん果敢にパウダーに突っ込む。この日、新たに降った雪はわずかで、前日の荒れた斜面をすっかり隠すほどにはならなかったから、斜面はボコボコとして荒れていて結構滑りにくいのだが、流石山の姉御達である。楽しそうに滑っている。僕は先行させてもらって撮影させてもらった。
お茶を飲んでも、まあ、賑やかだ。山の女達はスカッとしてて、会話もポンポン弾み気持ちが良い。感情表現も上手な人が多いと思う。そんな人達と、冬の晴れ間こんな風にスキーをして、遊ばせてもらってとても楽しかったし、富山弁も可愛らしかった。また機会があれば、混ぜて頂こうと思うのだった。
スキーは楽し
年が明けて、優先順位が上位にある生活のためのあれやこれやがようやく片づいて、一月中旬から三回スキーに出かけた。僕は大概前日にスキーに行くことを決めるので、それからあちこち電話をしてパートナーを見つける。
「明日、山滑りに行かない?」
「明日かあ、だめだよ、無理!」
まあ、そりゃそうだわな。そうそうホイヨッ!と付き合ってくれる奴なんかいない。大概みんな予定があって、スキー場の仕事やら、バックカントリーツアーやらやっていて、結構計画的に日程をこなしているのだ。僕の場合、冬のアルバイトは(アルバイトと言えるかどうか、僕は高速道路の除雪隊を25年もやっている)全くお天気相手なので、天気が良い時は結構暇ができる。事前に新雪が降って天気が回復すれば、すわ山スキー!と言うことになる。
ゲレンデスキーならば一人でどこへでも行けば良いのだが、山スキーとなると、雪崩や激突や骨折や諸々の心配があるので一人では出かけにくい。だから、今年行ったのは全てゲレンデスキーか、人の気配を感じるその周辺ばかりだ。それにしても、僕はとにかく圧雪していない深雪滑りが大好きなので、ゲレンデの脇や、少し歩いて新しい雪を見つけて滑ったりする。
ゲレンデは、夜中に圧雪車で綺麗にならされ、朝一番には見事な一枚バーンとなる。デコボコがないからとても滑りやすく、潜ることもないし思い切りかっ飛ばす事だって出来る。しかし、山に降る自然のままの雪はそうはいかない。当たり前だが、雪面は柔らかく、大雪の時は足の裏に堅い感触を感じないから、スキーは前後左右に不安定だし、刻々と変わる雪質にも対応して滑らなくてはならない。でもそれを滑り切る事が喜びであり、そのフワフワとした感触が実に楽しいのだ。その感覚はサーフィンに近いのかも知れない。
そんなわけで、今日はひとり、白馬コルチナスキー場に出かけた。このスキー場は小谷村最北に位置し雪が多い事で有名だ。白馬辺りと比べても、感覚的には二倍降る。だから、雪が頻繁に更新されるのが魅力だ。おまけに、ごく早い時期に最近流行のバックカントリースキーに対応して、ゲレンデの中の樹林帯までを自己責任で滑走可能とした。要するに、リフトを使ってどこを滑っても良い訳だ。
そんなところに深雪スキーヤーが集まらないわけない。ひとたび新たな雪が降ると、このスキー場のリフトには朝早くから、深雪スキーヤー達が(ボーダーも)並ぶ、その数ざっと二百人。そのうち半分以上が外国人。そしてその全員がバージンスノーを滑ろうと集まっているのだ。ニセコなどもそんな状態らしいが、白馬界隈も相当なものだ。
オーストラリア、ロシア、スウェーデン、アメリカ、「おいおい、お前ら日本なんか来てる場合じゃないだろ?」と思うのだが、聞けば、日本の雪が最高なのだそうだ。とにかく降る量が多いから、常に雪がリセットされて、かなりの確率でパフパフ滑りを楽しめるから。カナダや、アメリカやヨーロッパは降る時は降るが、降らないとなったら何日も降らないのでそうで、短い滞在でパウダーに当たればラッキーらしい。そんな理由で、現在日本の雪は世界一と言われている。世界的に見ても、こんなに雪が降る場所は珍しく、カナダの西海岸や、パタゴニア辺りぐらいのものだと聞く。へえ、僕らは最高の場所に住んでいるんだね。
前置きがやたら長くなってしまったが、今日のコルチナスキースキー場は天気は最高で、ここのところ降っていなかったので、クレイジーなスキーヤーも居なくてゆったりと快適だった。クレイジーな連中が集まる日には、僕も同じくクレイジーになって、幅広の板を履いて我先にと新雪を貪り回る。人より先に滑らないとあっという間に美味しいところは、ズタズタにされてしまう。滑り屋同士のその駆け引きもエキサイティングで面白いのだがそれも少々疲れるのだ。だが、今日はそんな心配は無用で、僕は落ち穂拾いをするように、わずかに残された新雪を探しては滑った。ひとつ丘を登れば手つかずの新雪バーンがそこにある。その為の道具をご紹介しよう。
これは、ディナフィット社製のTLT金具を付けた超軽量板。このTLTはヨーロッパの山岳遭難救助や、山岳耐久レース用に開発された超軽量金具で、板も軽くブーツも非常に軽い。救助や山岳耐久レースは歩くことがとても重要だから、軽いことは圧倒的に有利になる。滑る時は踵は固定されるが、歩く時はフリーになって歩くことが可能になる。
そして、通常山スキーは歩く場合はスキー板の裏にシールというものを貼り付ける。シールとはナイロン製の一方向に毛並みがそろった毛皮のようなものだが、昔はアザラシの毛皮で出来ていた。だが僕が今日使っていたのは、ウロコ板と言われるもので、使い古しのスキー板に、友人のバン屋クラフトの松原さんにウロコを刻んでもらった。急斜面はシールの様には登れないが、緩斜面なら大丈夫。シールを付けたり外したりの手間がないので、歩いて滑って、また滑って歩くという、登ったり降りたりのルートにはとても具合が良い。ほんの三十メートル、ちょっとそこまで登るのに、シールを着けるのは大変面倒臭い。だから、大きな山を登らない時はこの板を使うことが多い。滑りは若干抵抗がかかるが、それはこの際目をつむる。とても軽快で、自由自在に雪山をうろつき廻れるのだ。深雪など気にせずあっと言う間に、あの山の上へ行けてしまう。僕のような天の邪鬼山スキーヤーには最高のパートナーだ。
もっとこの素晴らしさを伝えたい所だが、とても一回や二回で語り尽くすことが出来ないので続きはまた後日。
鼻の頭のかさぶたが気になって仕方が無い。なんで、鼻の頭にかさぶたが出来ているかというと、それは先週行った西穂高岳の時の後遺症なのだ。
一週間ほど前、僕はBSTBSテレビの日本の名峰絶景探訪シリーズのロケに同行した。その時の朝方の冷え込みはマイナス20℃にもなり、風速20メートル程の強風が一日中吹き荒れていた。そんな中でも撮影の可能性を求めて、稜線を行く我々には容赦なく厳冬期の季節風が吹き付け、わずかに露出する顔面は体感気温40℃の外気に無防備に晒されることになった。もちろん目出し帽にゴーグルをし、ジャケットのフードを被ってはいるのだが、どうしてもゴーグルと目出し帽の間には隙間が出来る。これを作らないように目出し帽の上にゴーグルを乗っける様にすると、立ちのぼる自分の呼気がゴーグルの中に進入してたちまちレンズが曇り凍り付く。こうなると視界は奪われ、行動すらままならくなってしまう。だから少しだけ隙間を空けて居るのだが、そうすると鼻の頭や頬のラインは完全に露出してしまうからどうしようもないのだ。
行動中、「鼻の頭痛てーー!」とは思っていた。こりゃ凍傷になるなと。帰れば案の定、僕の鼻の頭はヒリヒリと痛み、数日でかさぶた状態となった。気になって仕方がないのだが、下手に触るとそれをはがしてしまい血が滲むから、なるたけ触らないようにするのだが、やがてそのかさぶたが自然にはげ始めて端っこがヒラヒラとめくれて、僕の視界の片隅に見える様になると、もうどうしようもなくはがしてしまいたい衝動に駆られるのだ。でも、それは根性で我慢する(笑)。
凍傷はやけどと似ている。やけどは高熱によって皮膚の細胞が死滅するものだが、凍傷は極端な冷たさで皮膚の細胞が凍り付き死滅するものだ。重度になればそれは皮膚のさらに奥深くに浸透し、末端の血流を止め、やがては手足の指や鼻を切断しなくてはならなくなる。今回の僕の凍傷はそんな重度のものではなく、アイロンを一瞬鼻の頭にくっけた位のものだが、それでも少しだけ僕の生活は憂鬱になる。鼻の頭が少しヒリヒリするだけで「神様ごめんなさい、早く治して下さい」みたいな気持ちになるのだ。小さいのお、ワシも。
さて、今回のBSTBSのロケにあたり、ゴーグルをしないふとどき者が三人いた。それは、カメラマン二人と、ベテランガイドのM氏だ。カメラマン二人には前日「顔面を出すなよ、鼻がもげるぞ!」とさんざん脅かして居たのだが、彼らはカメラのファインダーを覗くという仕事上の都合から、いつの間にかゴーグルを外してしまっていた。カメラマンが仕事に来て、ファインダーが覗けないんじゃ仕方が無いし、彼らにとっては鼻がもげたとしても良い絵を撮ってやると言うプロ根性が有ったわけだから、僕はほっておいた。しかしもう一人のMガイドはそうではない。彼は確信犯的に端からゴーグルなど持ってきていないのだ。
「あれ、Mさんゴーグルしないの?」と聞くと
「そんなもん、なんでするだい?」と逆に開き直るのだ。
M氏は何度もヒマラヤの高峰に登ってきたクライマーだが、そんな時もゴーグルはしないと言う。マジで?うそでしょ?信じられなかった。
今回の話は、このふとどき者達を断罪する為に書いているのではない。実は終わってみれば、僕らゴーグル組がほぼ全員凍傷を負っていると言うのに、何故かこの三人だけが凍傷にならずに何ともないと言う事実があったと言う事を書きたかったのだ。ゴーグル組が、「ほら、ここやられてるよ」「君だってほっぺた、黒いぜ」なんてやっているのに、この三人はすこぶる血色が良く頬は鮮やかなピンク色をしているのだ。
そう言えば、僕も若い頃はゴーグルなんてしなかったが、凍傷にはならなかった。そもそも、まともなゴーグルなんて無かった時代だった。現在ゴーグルは良いものが出ているし、それを冬身につける事は、ごく標準的な装備となって居る。だが、当たり前だと思っていたこの装備の弱点が有るのかも知れないと、今回のことで思うようになった。
ゴーグルを曇らせないように身につけていることはかなり細かい配慮が必要になる。口や鼻から立ち上る呼気を内部に入れないように目出し帽を微妙に調整し、はき出す呼気の向きさえ気にして呼吸をしたりする。曇りが入れば直ちにゴーグルを浮かせ、外気を入れ曇りを取る。かなりの上級者でない限り内部を曇らせない様に管理することは結構難しいことなのだ。
確かにゴーグルを身につけると、鬼に金棒的な心強さがある。どんな激しいブリザードもレンズ越しに見れば、それはまるで暖かなお家の中から眺めているような感じがするし、オレンジ色のレンズを透して見る冬の情景は明るく美しい。何となく勇気が沸くような。だが、これが凍傷の原因となって居るとしたら、僕は考え方を改めなければならない。
もしかしたらだが、顔面を覆うと言うことは、顔面の表層の毛細血管たちを、甘やかす事になって居るのかも知れない。ゴーグルや目出し帽に守られて、めいっぱいの血流を運ぶことをサボっているのかも知れない。そんな時、血流が充分に行き届かない皮膚が一部露出しているのだから、ゴーグル組の顔面は寒風の餌食となってしまう。
ゴーグルをしない時顔にぶち当たるブリザードの雪つぶては、行ったことはないが、砂漠の砂嵐と同じほどに容赦なく僕らの目を刺す。そんな場合は目を細め、耐えるしか無いわけだ。晴天ならば、雪目も心配だ。雪目は太陽光が雪に反射し、紫外線で目を焼かれる目の火傷だが、これになったら、瞳は猛烈な痛みに襲われ瞼を開いていることさえ困難になる。目からは涙が溢れ続け、そうなると歩行は不可能だ。
さてさて、僕は今ゴーグルを身につける身につけないで、悩ましい問題に直面してしまった様だ。どちらにもそれなりの良さとリスクがある。果たしてゴーグルをしなければ僕は凍傷を防げるのか?お客さんに対してはどのように言えば良いのか。これに結論を出すには少しばかりの時間と実証が必要なようだ。
※ ところで、凍傷には傷害保険は適用されないと言うことをご存じだろうか?皆さんが加入している登山保険というものは基本的に傷害保険である。傷害保険は、怪我を対象にそれを保証するものだが、火傷は間違いなく大丈夫。だったら凍傷だって良さそうなものだがそうはいかない。それは何故かというと傷害保険にはその原因が「偶発的克つ突発的」でなければいけないと言う条件がつく。残念ながら凍傷はそれには当たらない。「なんでそんな寒いところに行ったの、あなた?」「鼻が痛かったら帰ってくれば良かったのに?」と言われてしまえばそれまでだ。ガイドが「顔大丈夫?指先痛くない?」とやかましく言うのはそのせいだ。凍傷に怖じ気づくのなら冬山など行かない方が良い。みなさん、呉々も凍傷は自己責任ということで。
安曇野を離れ、東京や大阪な雪の降らない地域へ行った時、そこで出会った人達に安曇野は雪が沢山降るんでしょ?と良く聞かれる。今どのぐらい積もってますか?とか。でも実際の安曇野は、そんなに雪が降る地域ではない。長野県イコール雪国というのは誤解で、北部は確かに豪雪地帯を抱えるが、中部から南部は意外と雪の量は少ないのだ。僕の住む安曇野市有明界隈は現在の積雪は数センチだ。我が家から大糸線沿いに北へ三十キロほど行くと、そこは白馬村や小谷村だが、雪の量は極端に多くなる。
頭の中に北アルプス周辺の地図を思い浮かべてほしい。白馬村の西側には後立山連峰や白馬三山が連なっているがそのさらに西には高い山は見あたらない。そして、富山湾から北へ斜上する海岸線はぐっと北アルプスに近づいている。要するに白馬の裏側には、すぐそこに日本海は広がって居る。だから、海を渡ってきた冬の季節風がまともにぶち当たるから、降雪がハンパ無く多いのだ。
それに対して、安曇野の西側を辿っていくと、前山である常念山脈の西側には、槍穂高連峰や裏銀座の山々がどんと連なり、さらにその西側に黒部五郎や北ノ股岳などが控えている。そして、そのさらに西側には低山といえども分厚い山並みが幾重にも連なり、能登半島の付け根辺りでようやく日本海に到達する。白馬岳辺りから日本海までの距離は四十キロほどだが、安曇野は百二十キロほどあるだろう。北の方と同じように季節風雨が流れ込んだとしても、そういった西側の地域に雪をドンドコ降らせてきた湿った季節風も、いよいよ最後の常念山脈を越える頃には乾いたからっ風になってしまうのだ。だから、冬型の気圧阿配置の日、安曇野から見る北アルプスに輪郭のぼやけた雪雲がフワッとまとわりつ居ていたとしても、安曇野や松本上空から東側は晴れている事が多い。そして晴れて放射冷却が起こると、気温がグングン下がり、マイナス10℃以下という日も珍しくはない。
新たな雪が白馬辺りに降ると、僕はいそいそと新雪滑りに出かける。あれやこれやのスキー道具は車に摘みっぱなしだ。我が家から八方まではだいたい車で四十分ほど。雪かき無しに、ゲレンデに立てるわけだ。対して、白馬に住んで居る友人達は、降ったその日の朝は先ず雪かきというお努めから始めなくてはならない。そうしないと、出かける事もままならないし、よしんば家から出られたとしても、そこら辺カットすると奥さんたちはいい顔をしない。それでは新雪を楽しんだ後の帰り道が遠くなると言うもんだ。
長野県北部にはこういう言葉が伝わる。
「一里一尺」・・・・・・一里北へ行くと一尺雪が増えると言うこと。
「どうせ倒れるなら、南へ倒れろ」・・・・・・・人生に於いて何か退っ引きならない事になったとしても、少しでも南に行けと言うこと。
今はそれほどでもないとしても、雪国の暮らしは過酷なのだ。僕の住まいが安曇野で、ほんとよかったと思う。
冬晴れの安曇野そして木崎湖界隈
ようやく暇が出来て、今シーズン初のスキーに行こうかと、朝靄に煙る木崎湖辺りをいそいそと軽トラックで走っていると、突然僕の携帯が鳴った。誰かと出てみれば、それはある人物からのものであった。
ジサマと大石臼
このジサマ、名を「原拓」さんという。・・・・・・「はらひらく」・・・・・・「腹開く」・・・・・・冗談のようだが、紛れもない本名だ。このジサマの正体は、蕎麦粉の製粉屋だ。要するに我が家で収穫した玄蕎麦を、巨大な石臼で蕎麦粉にしてくれる名人なのだ。御歳、八十九才。未だ蕎麦に対する情熱は衰えず、頼めば
「わかったデ、持ってきまショ」
といつも粉挽きを引き受けてくれる。
ところが昨日、製粉を頼みに行ったらジサマは
「オラ忙しいデ、そうセ、一週間ぐらいかかるジ、それでもいいかい?」
と連れない返事だった。仕方が無いので、なるべく早くにって事で玄蕎麦を置いて、そのまま帰って来たからあまり期待はしていなかったのだが、流石このジサマ、蕎麦を打ちたい時に打てない蕎麦職人の気持ちがよく解る御人で、翌朝になって
「にいさん、これからやるデ、手伝いにきまショ」
と、電話をかけてきてくれたのだ。もうすぐ白馬と言うところで、僕は軽トラをUターンさせ、ジサマのささやかな粉挽き工場へ向かった。
着いてみれば、さっきは手伝えと言いながら、最初にヨッコラショと玄蕎麦を石貫き機に入れる時だけ手伝わせただけで、その後は一切手を出させてくれない。僕としては、粉挽きには並々ならぬ興味があるし、全行程を自分でやってみたいのだが、それは叶わぬ事なのだ。
ただただ、僕はこの八十九才のジサマのぶっ飛んだ会話の聞き役となって、粉が挽けるまでの2時間を過ごした。工場はさほど広くはないプレハブ小屋なのだが、電気ストーブが一つだけ点いているだけで他に暖房器具は何もない。コンクリートの土間からはしんしんと冷気が伝わって来る。2時間体を動かさずに、ジサマの話を聞くのもなかなか大変で、これなら先日行った厳冬の西穂高岳の稜線の方がまだマシかも知れないと思う(笑)。だが、こんな寒い工場で一人で元気に働けるジサマは、普通の人間とは少し違う。蕎麦挽きに対する情熱と、拘りは並々ならぬものがあって、それがこのジサマの原動力になっているのは確かだ。
このジサマは画を描いたりする。俳句をひねったりもする。絵や骨董を集めたりもする。投網で魚を獲ったり、友人とセスナを飛ばしたりもしたそうだ。若い頃には数々の浮き名も流したのだろう。いわゆる遊び人なのだ。工場の壁には、広告の裏にマジックペンで書かれたジサマの言葉が、無造作に画鋲で貼り付けられていた。それにはこうある。
「幸せとは生涯を貫く仕事を持つことだ」
うーん、納得。自分の好きな事をやり続ける事が幸せなのだと言うのだ。確かにこのジサマ、現在は八十九才で、話すことと言えば殆ど以前に聞いたことがある話だし、太平洋戦争の話から、いきなり目の前の梅の木の剪定の話に瞬間移動したりするし、入れ歯も時々飛び出しそうになったりしているのだが、その仕事は確実で一切手を抜かず、薫り高い蕎麦粉を挽いてくれる。
このジサマ、昨年体を壊し手術をした。手術のあと、粉挽きの量をかなり減らした様だが、こうやって見事に復活し元気に粉を挽いている。すごいエネルギーだなあと思うのだ。僕がこのジサマの歳になるまでには後35年ほどの月日が必要になるのだが、果たして僕は、何かに対してこんな情熱を持ち続けていることが出来るだろうか?全く自信がない。
蕎麦の味や風情というものは、粉の仕立てに寄るところがとても大きい。僕の蕎麦の味はこのジサマの粉挽きにかかっているのだ。このジサマが粉を挽いてくれるからこその僕の蕎麦なのだ。呼ばれれば僕はまたジサマの話を聞きに行くだろう。そして、そのうち少しぐらい手を出させてくれるかも知れない。よーし、それまで、しっかり付き合ってやろうじゃないの。だから少しでも長くこの蕎麦粉を挽いてほしいと思うのだ。
新年が明けてBSTBSの「名峰シリーズ厳冬期西穂高岳」ロケハンとロケに同行させて頂いた。5日と6日がロケハンで、ロケ本番は12日~14日だった。両日程とも気温がかなり低く、冬山経験の乏しいスタッフはいくつかの悩ましい問題に直面することになった。
厳冬期の北アルプスの稜線は、下界のみで暮らしている人にとってはまさに想像を絶する世界なのかも知れない。マイナス20度と言う事がいったいどんな事なのか、それは体験しなくてはなかなか理解できない次元のものだ。全ての水分が凍り付き、さらにそこに常に吹き付ける季節風が悪さをする。冬は、夏で言ったら台風並の風が、ほぼ毎日吹き続けていると言って良いだろう。風が止む日の方が圧倒的に稀である。
風速1メートルにつき、体感気温は1℃下がると言われている。この時の最低気温がマイナス19℃、風速は常に20メートルは吹いているとすると体感気温はマイナス40℃近くということになってしまう。
そんな中登山者は冬用ウェアに身を包み、毛糸の手袋にオーバーグローブ、頭には目出し帽にゴーグルを付け足下は冬用ブーツを履き、肌の露出を出来るだけ避けて、アイゼンピッケルでガシガシと歩かなくてはならない。もこもこの手袋をしていては何をするにも不自由で、ジッパーひとつ上げたり下げたりすることも容易ではないし、たとえ腹が減ったとしても、食べ物を口にする事でさえ面倒臭く感じる。日常生活の中で何気なくしていることを完璧にやり遂げる事が、冬山では重要な技術なのだ。そこら辺をちゃんと出来ない者はヘマをやらかし、パーティー全体を危険な世界へ誘ってしまう事になる。
そんな環境のなかで今回のロケは行われた。自分の面倒を見るだけで大変なのに、技術スタッフはカメラを回し、音声を録音する。モコモコの手袋越しでは、録音ボタンの感触も全く解らないから、どうしても薄手の手袋にならなければならないので技術スタッフは大変だ。おまけに通常の登山であれば、ゆっくり立ち止まらぬように歩き続けて、常に体を温め続けるところを、立ち止まりセッティングをして撮影をする訳だから、手の指や足先は冷え切ってあっという間に痛み出す。そんな中でもカメラマン達は痛む指先で複雑な機材を操作しなくてはならない。仕事とはいえそんな面倒臭いことを良くこなすものだと感心してしまう。彼ら百戦錬磨の技樹スタッフにとってもこれだけの低温と強風の中での撮影は初めてだったらしい。
ロケハンにも参加している才沢カメラマンは、ロケ当日にはカメラの保温などをしっかりと工夫してきていた。カメラを裸のままでこの環境にさらしたら、おそらくあっという間に動かなくなってしまうだろう。カメラはカバーで覆われ、中にはホッカイロがいくつも仕込まれていた。見たこともないソーラー懐炉も。それでも一時的にカメラは悲鳴をあげ、現場は撮影中止か!と騒然となった。ここまで来てカメラが動かないとなれば大変な事になってしまう。
その日の撮影を終え、冷え切ったカメラを暖かな西穂山荘に持ち込むと、即霜が張り付きそれはあっという間に氷付けになってしまう。急激に温めると内部は間違いなく結露し、カメラに決定的なダメージを与えてしまうから、小屋内の気温の低い所から徐々に暖かなところへ持って行き、2時間ほどかけて機材を温めなくてはならない。なんて面倒臭いのだろう。僕らみたいにのんびり酒など飲んでいる訳にはいかないのだ。
今回の撮影で、2台のビデオカメラは見事に回り続けた。演者の海洋冒険家白石康次郎さん曰く、今回の西穂高岳は「刺すような美しさ」だったと言う。その言葉通り、厳冬期の穂高連峰はどこまでもクリアーで眩しく美しかった。筆舌に尽くせぬとはこのことだ。きっと、そんな美しさも余すところなくビデオカメラに納まっている事だろう。技術スタッフの奮闘ぶりを想像してご覧頂きたい。放映が待ち遠しい。
放映予定
BSTBS
2月8日(土)21:00~
BSTBS日本の名峰絶景探訪シリーズ西穂高岳ロケ同行
BSTBS西穂ロケハン
1月8日の下北沢lownでの「カツラマズルカvsプレイトーンズ」ライブのオープニングの曲を鈴木義久さんがyoutubeにアップしてくれました。沢山の方にお出で頂きありがとうございます。
プレイトーンズは僕と安藤則男氏とのギターデュオです。今回は三線娘若林つやを伴って下北沢でライブをさせて頂きました。僕は安曇節やら木曽節やら、つやは沖縄の古典をと、さながら民謡バンドの様相を呈してきたプレイトーンズは果たして何処へ向かっているのでしょう?
噂では、懲りずに3月に再びやらせて頂くとの怪情報があります。請うご期待!!なんつって。
1月8日の下北沢lownでのカツラマズルカvsプレイトーンズのオープニング 動画だよ
昨年11月末にロケが行われた、甲武信岳がいよいよ明日、
1月11日(土)午後9時~
放映です。今回は甲武信小屋の小屋締めに密着する2時間スペシャル。オーナーの徳さんと一緒に徳ちゃん新道を登り、小屋締めのお手伝いを・・・・・・・いや、邪魔しに行ったようなものだけど、支配人の北爪君も良く付き合ってくれました。北爪君とぼくのブルースセッションもちこっとフィーチャーとの噂です。他のお客さんがいないことを良いことに、夜中の1時まで大騒ぎしてしまいましたからね。
是非ご覧ください。
1月8日に下北沢のライブハウスlown(ラウン)にて、東欧系のジプシー音楽を奏でるカツラマズルカとのライブを終えた後、ぼくはひとり小手指の友人N宅に泊まらせてもらった。その友人とは翌日一緒に共通の友人に会う事になっていたのだ。その「共通の友人」とは、ぼくの山のお客さんで、ぼくのツアーに何度も参加して下さっていた方だが、彼女は今、重い病気を患っている。だから一時退院中にお見舞いを兼ねて、お茶でも飲もうと言うことになった。
僕らは東京駅の南口ドーム下で待ち合わせた。新装されから初めて行った東京駅は、古い物を上手く使って、とてもシックでモダンな佇まいだった。周りがオフィス街だから、待ち合わせの10時頃には意外に行き交う人も少なく、新宿や渋谷なんかとは全く別な落ち着いた雰囲気の場所なんだと感ずる。
少し遅れてそこに現れた彼女は、幾分痩せたように見えたが、思いの外元気そうだった。思わず笑顔がこぼれる。お目にかかるのは若しかしたら2年ぶりぐらいかも知れない。
目の前の道を渡って、向かいのビルの喫茶店に入る。いかにもビジネスマンが好みそうなカチッとした店内は天井が高く落ち着いた雰囲気の店で、客も僕らの他は数人だったから、ゆっくりと話ができた。病気のこと、入院の事、そして一緒に行った山のこと。今、彼女が夢中になって居る事、そして、これからのこと。いろんな事を話した。病気なのだから、実は具合が悪かったのだとは思うが、たわいもない話に微笑む彼女の笑顔がとても可愛らしかった。
ぼくは、山岳ガイドという仕事を得て、沢山のお客さんと出会う事が出来た。本来のぼくは、山岳ガイドなどという社交性を必要とする商売など全く向かないタイプの人間だと思うのだが、ツアーのガイドだけでなくて、公募ツアーを企画してからは、ただのお客さんと言うよりは、もっと親密な関係の中で仕事をさせてもらっている様な気がするのだ。他の職種や、この世界の様々な人がどんな気持ちで自分とは別の人達と関わって居るのかは解るわけも無いし、僕らの世界が特別だとかでもないのだが、山は人と人の心をいつの間にか深く繋ぐ場であると、ずっとぼくは思っているのだ。古くからの山の友人は切っても切れない関係にある。何人かの山の友人達は、いつも繋いだザイルの先にいて、そこで何が起ころうと、そのザイルを切ったりはしない。・・・・・・・そんな風に感じさせる友人達がぼくには何人か居る。そして、そんな友人達に負けるものか!とも思うのだ。
それは、共に辛く危険な山を乗り越え、同じ釜の飯を食べてきたからそうなるのだろうし、山が見せてくれる美しいもの達や、風や雨や雪が僕らの心の扉をいつしか開いてくれて、素の自分のままで周りと関わりを持つ事になるからなのだと思う。そうなることが、全く自然に、いつの間にか・・・・・・そうなる。それが山の魔法である。
二時間ほど四方山話に花を咲かせて、ぼくが信州へ帰らなければならない時間になってしまった。再び三人で道を渡って、南口ドームへ着いた別れ際、ぼくはたまらず彼女を抱きしめていた。友人Nも。頑張ってね!と、応援しているからね!と、そんな気持ちを込めて、彼女をギュッと抱きしめた。彼女も華奢な体で精一杯ぼくを抱きしめてくれた。その時彼女の強さも弱さも、優しさもしっかりとぼくに伝わって来たのだ。それがガイドとお客さんと言う関係であっても、僕らは確かに友人として、繋がって居たのだとぼくはこの時初めて気づいた。僕らは既に山の魔法に掛かっていたのだ。
新宿から特急あずさに乗って松本に向かう。甲府辺りまでは青空が広がっていたが、南アルプスが見える頃から山には特有の輪郭のぼやけた雪雲がかかり、小淵沢辺りからは車窓の外は雪が降り始めていた。この日一面雪景色となった松本の街も山も、目に染みるように美しかった。
Nんちの らんちゃん