嵐の前の静けさ
今日は8月17日である。目が醒めると朝8時となっても空はドンヨリとして薄暗く、北アルプスでは地響きの如く断続的に雷鳴が轟いている。黒部川上廊下を悪天候で撤退してきた15日以降、16日17日と激しい雨が降ったり止んだり。北アルプスでは遭難や行方不明者が相次いでいるようだ。
沢靴とモモちゃん
平ノ小屋のアイドルモモちゃんのお見送り
僕らが上廊下を遡行開始したのは13日であるが、この日は取り敢えず天候は安定していて、厳しいなりにも何とか遡行が可能だった。だが、平水であればスクラム渡渉(何人かでスクラムを組んで歩いて沢を渡りきる技術)でこなせる場所は、とてもではないが危険すぎてそれは叶わなかった。だから増水した川の弱点を見つけ、ひとりがロープを引いて激流に飛び込み泳ぎ渡り、他のメンバーを浮かせて引っ張ると言う方法を全ての渡渉で使った。
時間は倍も掛かった。人を引くのは相当に体力を消耗する。もちろん体は全身ずぶ濡れだし、ザックは水を含んでずっしりと重くなる。大概の渡渉をスクラムでこなして時々泳ぎ渡渉というのがまともな上廊下の遡行述だから、今年の水量は半端でない事が解る。
泳ぎ渡渉 ぶっこ抜きの力業、だけどこれ一番安全(楽しくて仕方ないとお客さんは言う)・・・だよね。
それでも僕らは先行の2パーティーを追い抜いて「口元のタル沢ゴルジュ」という差し渡し300メートルに及ぶ最大の難所を突破しようと試みた。ところが、ゴルジュ内の大淵は足が立たぬほど深く、30メートルを指一本だけ壁のクラックに引っかけて水中ヘツリで進んだものの、その先の激流の落ち込み付近では対岸に泳ぎ切る場所を見つけられず突破を諦めた。
この場所は下手に飛び込むと岩の下に潜り込む水流に呑み込まれる。かつて激流の中を撤退した時ここに飛び込んで九死に一生を得た事がある。増水の川を撤退中ロープを引いてここに飛び込んだ僕はあっという間に水流に飲まれ、訳もわからず水中をもみくちゃにされたあげく、遙か先で水面にぽっかり浮かんだ事があるのだ。幸いにもそれだけだったが、もし何処かにロープがひっかかったり、グルグル回る水流につかまったら敢えなくお陀仏であったかもしれない。だから無理は利かない場所であることは解っていた。
上廊下は毎年その姿を大きく変える。広大な集水域を上流に持つこの川は、ひとたび大増水となれば狭い川幅いっぱいに濁流が砂や砂利を押し流し、終いには直径数メートルの大岩までも転がし始めるのだ。濁流の水面には波に翻弄されながら巨木が流れ、河床では大岩が転がりお互いぶつかって地響きの如くゴトゴトと音を立てる。それが夜であれば水中に火花さえも見ることがあり、辺りにはきな臭い匂いが立ちこめるのだ。
そんな大増水が収まれば河床の岩と砂の配置は全く違ったものになって、今までの淵が砂で埋まり、それまでの河原に大淵が出現したりするのだ。だから、上廊下の景色は毎年違って見えて「あれ?こんなところ有ったっけ?」と言うことになる。小さな沢の沢登り、普通の登山やクライミングでは、こんな風に毎年状況が変わるなんて事は先ず無い。これは上廊下ならではのことで、何回来ても初めて来るような感覚が決して僕らを飽きさせない。「さーて、ここをどう突破しようか」といつも考える。去年のやり方は通用しない。これが上廊下遡行の最大の魅力だと言って良い。
僕らがその日の突破を諦めた頃、朝方追い抜いてきた後続パーティーが追いついてきた。見れば彼らは若い5人組で、その中のひとりの女性が僕の相棒の小林の友人の友人と言うこともあってゴルジュの状態を説明した。彼らは全員上廊下初遡行と言うことであったが、果敢にもゴルジュに入って行く。狭く深い大淵とそれらを繋ぐ激流の落ち込み。陽が入らない300メートルの大ゴルジュ帯は過酷な場所だ。突破する者も待つ者も寒さで歯の根が合わない程ガタガタと震える。普通なら見ただけで「無理っ!」と思う場所だ。その弱点を見つけ突破する。その方法は毎年変わる。
僕らは少し戻った台地を今晩の宿と決め、テントを設営したり、薪を集めたりしながら彼らの遡行を見物していたのだが、1時間ほどして彼らも諦めて戻ってきた。この周辺には他には適当なビバークサイトは無いので僕らのすぐ脇にタープを張って彼らもビバークだ。幸いこの日は小雨がぱらつく程度で豊富な薪もあって暖かく快適なビバークとなった。ラジオで情報を収集し明日の作戦を立てる。翌日は曇り時々雨、翌々日は再び雨予報。思った程の減水はその日は無かった。立ち上る二つの焚き火の煙が夕暮れの上廊下を下流へと漂っていった。
上廊下にたなびく煙
釣る小林
口元のタルビバーク地、ぬくぬくの焚き火に笑顔
朝の天気予報を確認して僕らは撤退を決めた。減水が進まぬ事と、翌日の天候が悪いこと、予備日が一日だけの僕らには、このまま遡行を続けることには大きなリスクがあった。山は連日の雨でたっぷりと水を含んで保水力は殆ど無くなっているだろう。広大な集水域に降った雨はそのまま黒部川に流れ込んで来るから、雨が降れば直ちに増水することになる。しかもハイライトの口元のタルゴルジュを突破出来ないのであれば、ここを危険な大高巻きで越えるしかないので、それも大きな問題だった。ひとたび増水すれば、そう簡単に減水しない現状では引き返す選択肢しかなかった。
お隣の山岳会5人組は予備日が二日あるから高巻いて行くという。それなりの経験のある精悍な若者達?だったから多分大丈夫だろうと思った。
渋滞の下の黒ビンガ、ガタガタ震えて順番を待つ面々
撤退の中、下の黒ビンガでは登りの3パーティーと僕らで渡渉待ちの渋滞ができた。こんな事は初めてだが、他のパーティーの渡渉法を見物するのも興味深かった。
奥黒部ヒュッテで撤退の届けを出して平の渡しまで戻った。僕と西山は渡しに乗らず針の木谷へ、小林と下條はヌクイ谷へ釣りに出かける。最後の晩餐に使う岩魚をなんとしても捕って、傷心の僕ら自身を慰めたかったのだが、僕はひとつめの淵で糸鳴りがするほど引く35センチはあるだろうと思われる虹鱒を土壇場でバラしてしまった。その後は25センチの岩魚を一匹釣っただけで、針の木谷で一緒になった釣り師の金ちゃんに32センチを何故か頂いてなんとか形をつけることが出来たが、他のメンバーは大きな声では言えないが釣果ゼロ。お盆の釣りはそう甘くない。
平の渡し「白鳥号」 トローリング中につき超低速航行、見事岩魚を釣り上げていた
岩魚の宴
最終日、日本列島に横たわるように秋雨前線が出現し、黒部の谷は再び土砂降りとなった。横切る沢は全て増水して白泡をたてて激しく流れ下って行く。上廊下も間違いなく再び増水しているに違いなかった。ダムまでを歩きながら我々とビバークを共にした5人組、下の黒ビンガで出会ったパーティーもみんな大丈夫だろうか?と考えたが、僕らの判断は正解であったと確信を持つのだった。
何故かトランプマジックを披露してくれた平の小屋主人 さとちゃん・・・・飲み過ぎちゃだめだよ~~!
再び増水する黒部(御山谷)
その後北アルプスは悪天候続きである。今日17日現在、例の5人組も含め上廊下でのパーティーは全て撤退したという情報だが、同じ黒部の支流赤木沢で二人、槍ヶ岳の蒲田川右又ルートで3人、他にも奥穂や八ヶ岳で行方不明や遭難が相次いでいる。今日はドンヨリと低い雲、雷が山を揺らして、断続的に激しい雨が降っている。皆の無事を祈るしかない。
尺岩魚を釣り笑顔がこぼれる
尺岩魚刺身
ハナビラタケとタマゴタケの極上ソテー
岩魚の刺身を造る西山、不安げな小林・・・・まだまだだな