天皇陛下、会見で声詰まらせたことも 伝えてきた思い
継承に向け準備を行っていく――。天皇陛下は誕生日前の会見で、2019年の退位に向けた思いを語った。即位から29年。年に1度の誕生日の機会に、陛下はこれまでも様々な思いを伝えてきた。
会見は20日、皇居・宮殿の石橋(しゃっきょう)の間であった。獅子の能面を着けた演者が舞う日本画家・前田青邨作「石橋」を背に、陛下は約12分間、用意した文章をゆっくりと読み上げた。
九州北部豪雨被災地の復興の取り組みを「心強く思いました」と述べるなど、今年も災害や戦争で苦労した人への言及が目立った。
2~3月のベトナム初訪問を振り返った際も、戦後も日本に帰らずベトナムの独立運動に関わった「残留日本兵」の家族を「幾多の苦労を重ねました」と紹介。日本の家族と交流が続いていることに「深く感慨を覚えました」と述べた。
即位して最初の誕生日会見は1990年。宮内記者会の要望で、この年に限って皇后さまが同席した。陛下は「日本国民統合の象徴として現代にふさわしく天皇の務めを果たしていきたい」と語った。
繰り返し言及してきたのは戦争についてだ。70歳を迎えた2003年の会見で、最も悲しい出来事として「先の大戦」を挙げた。300万人以上の日本人のほか、多くの外国人の命が失われたことに言及した。
戦後70年の15年は、会見の半分ほどの時間を戦争や平和への思いにあてた。多くの民間船員の犠牲について言及した際には声を詰まらせた。戦争を知らない世代が増えるなかで「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と語った。
家族への思いも口にした。05年は、長女紀宮さま(黒田清子さん)が結婚して皇籍を離れて約1カ月後の会見だった。「これまでおかしいことで3人が笑うとき、ひときわ大きく笑っていた人がいなくなったことを二人で話し合っています」と父としての率直な思いを語った。
ただ、質問数は徐々に減った。初期は17問もあったが、05年には3問に。14年に2問になり、会見で時間が余った場合に記者がその場で質問する「関連質問」がなくなった。15年以降は1問となった。
誕生日会見の質問は、宮内記者会が事前に宮内庁を通じて陛下に伝える。宮内庁によると、陛下は毎回、資料を読むなど時間をかけて回答を考え、直前まで推敲(すいこう)する。高齢化に伴い、その負担が大きくなったことが削減の理由だった。
病気など健康への配慮で会見がなかったことも2回あるが、その際は文書で回答を寄せた。宮内庁幹部は「陛下は国民との接点として会見を大切にされてきた。象徴の務めの一つだと思っていらしたのだろう」と話した。(島康彦)
■天皇陛下の誕生日会見の変遷
1990年 即位後初。皇后さまも同席
1996年 冒頭、ペルー日本大使公邸人質事件に触れ、人質解放を「切に祈っております」と発言
2005年 冒頭、北陸地方を中心とした豪雪被害に言及。「心を痛めています」
2011年 前月に気管支肺炎で入院。会見ではなく文書で感想公表
2014年 時間が余った際の関連質問を受け付けなくなった
2015年 この年以降、質問は1問に制限
■早朝の散策、ほぼ欠かさず
宮内庁は天皇陛下の1年の近況を発表した。国事行為として、138人の認証官任命式のほか、内閣から届く955件の書類に署名や押印をした。地方には静養をのぞいて10県を訪問した。11月の鹿児島訪問で即位後全47都道府県を2巡した。宮中祭祀(さいし)24回。早朝の散策をほぼ欠かさず続けているという。