10歳の時に、おじいちゃんのうちで。
写真の整理が大好きだったおじいちゃんのアルバムの数は、とても多くて
それをこっそりとめくるのが好きだった。
ある日、誰もいないその部屋でみつけてしまった。
ひとつだけすべてのプリントがセピア色。
進んでいくにしたがって、それがすさまじい、あの戦争のさなかの写真だとわかる。
怖いもの見たさにめくり続けた先に私が見たもの。
戦場の本当のむごさ。悲惨さ。
ショックだった。
以来、戦争の映画もテレビもドラマも、あの光景を思い出す。
そのうちに、あんな状況の中からおじいちゃんは「生きて帰ってきたのだ」ということの奇跡を考えた。
だから私はここにいる。
あの時、子どもだった私は、おじいちゃんに聞けなかった。
どんな「思い」をしたのか。
そのあと、子どもの私がアルバムを開くことはなかった。
今年の夏、はだしのゲンが読めなくなった図書室についての意見がさんざんあったけれど、
まだ「絵」だからいいのだ。
写真のそれは「真実」でリアルだった。
「しずか」にすべてを物語っていた。
でも、子どもだった私でも、それを静かに受け止めた。それだけの力はあった。
むごいから見なければよかったとは思わなかった。
見てよかった。知って良かった。
そして、それを撮影したのは、自分の祖父だった、ということ。
つまり、つながったのだ。
自分の中で。歴史で習った戦争と現実が。
生きて帰れたこと、私が今ここにいることは「すごい」ことなんだと、はっきりわかった。
約20年前に、祖父は生まれ故郷の奄美大島に帰り、私は結婚して子どもを3人産んだ。
ひいおじいちゃんに会わせるために奄美に行き、迷ったが、
私はそのアルバムを長女と次女にきちんと見せた。
12歳、10歳だった娘らはやっぱりその写真をしっかり見て、きちんと受け止めた。
「・・・だめだね、戦争は」
はじめて奄美に行ったとき、おじいちゃんには、聞きたいことがたくさんあって
もう私も大人になったと思って、だから聞こうと思った。
でも聞けなかった。
話さないんじゃないかな、と祖父と初めて一緒にお酒を飲んだ主人も言った。
でも、ぽつりと言った言葉がすべてを物語っていたと思う。
「れいちゃんも、一生懸命に生きなさいよ」と。
8月におじいちゃんが亡くなって、98歳まで生きて大往生だと思う。
当時、あの日、あの時、あの状況の中、どんな気持ちでカメラのレンズを向けたのかはわからない。
でも写真がすごい絵図なのに、「しずか」だった。
悲しみ、怒り、悔しさ、あらゆる感情をとっくに通り越し、撮っている側は「無」だったんじゃないかな。
そのあとの平和になっていく日本の中で生きていく日々は、だからこその苦しさも多々あったと思うのだ。
昨日は49日の法要で、私はこっそり聞いてみた。
「一生懸命 生きるってどうだった?」
決してそんな風になりはしないと信じているけれど、わからない、今は。
子どもの時、平和であり続けるんだ、だから大丈夫とそのことに確信持てた。
これからもきっとずっと続くと安心できたのに、そう思えたのはたった数十年だったなんて!
それってどうなの?と。
写真の整理が大好きだったおじいちゃんのアルバムの数は、とても多くて
それをこっそりとめくるのが好きだった。
ある日、誰もいないその部屋でみつけてしまった。
ひとつだけすべてのプリントがセピア色。
進んでいくにしたがって、それがすさまじい、あの戦争のさなかの写真だとわかる。
怖いもの見たさにめくり続けた先に私が見たもの。
戦場の本当のむごさ。悲惨さ。
ショックだった。
以来、戦争の映画もテレビもドラマも、あの光景を思い出す。
そのうちに、あんな状況の中からおじいちゃんは「生きて帰ってきたのだ」ということの奇跡を考えた。
だから私はここにいる。
あの時、子どもだった私は、おじいちゃんに聞けなかった。
どんな「思い」をしたのか。
そのあと、子どもの私がアルバムを開くことはなかった。
今年の夏、はだしのゲンが読めなくなった図書室についての意見がさんざんあったけれど、
まだ「絵」だからいいのだ。
写真のそれは「真実」でリアルだった。
「しずか」にすべてを物語っていた。
でも、子どもだった私でも、それを静かに受け止めた。それだけの力はあった。
むごいから見なければよかったとは思わなかった。
見てよかった。知って良かった。
そして、それを撮影したのは、自分の祖父だった、ということ。
つまり、つながったのだ。
自分の中で。歴史で習った戦争と現実が。
生きて帰れたこと、私が今ここにいることは「すごい」ことなんだと、はっきりわかった。
約20年前に、祖父は生まれ故郷の奄美大島に帰り、私は結婚して子どもを3人産んだ。
ひいおじいちゃんに会わせるために奄美に行き、迷ったが、
私はそのアルバムを長女と次女にきちんと見せた。
12歳、10歳だった娘らはやっぱりその写真をしっかり見て、きちんと受け止めた。
「・・・だめだね、戦争は」
はじめて奄美に行ったとき、おじいちゃんには、聞きたいことがたくさんあって
もう私も大人になったと思って、だから聞こうと思った。
でも聞けなかった。
話さないんじゃないかな、と祖父と初めて一緒にお酒を飲んだ主人も言った。
でも、ぽつりと言った言葉がすべてを物語っていたと思う。
「れいちゃんも、一生懸命に生きなさいよ」と。
8月におじいちゃんが亡くなって、98歳まで生きて大往生だと思う。
当時、あの日、あの時、あの状況の中、どんな気持ちでカメラのレンズを向けたのかはわからない。
でも写真がすごい絵図なのに、「しずか」だった。
悲しみ、怒り、悔しさ、あらゆる感情をとっくに通り越し、撮っている側は「無」だったんじゃないかな。
そのあとの平和になっていく日本の中で生きていく日々は、だからこその苦しさも多々あったと思うのだ。
昨日は49日の法要で、私はこっそり聞いてみた。
「一生懸命 生きるってどうだった?」
決してそんな風になりはしないと信じているけれど、わからない、今は。
子どもの時、平和であり続けるんだ、だから大丈夫とそのことに確信持てた。
これからもきっとずっと続くと安心できたのに、そう思えたのはたった数十年だったなんて!
それってどうなの?と。