女性の声に限定して考察してみると、「母なる声」が作家に多大な意味作用を及ぼした事例として、ジャン=ジャック・ルソーとマルセル・プルーストの場合が挙げられる。
ルソーは、母親代わりだったド・ヴァランス夫人の銀鈴のように美しい声を耳にし、彼女が教えてくれる音楽や「母なる声」のもたらす幸福な日々を送っていたが、夫人が彼を愛人とするやいなや「ママンの声そのもの」を失い、ライヴァルの病死により、さらにエディプス的な罪悪感と「深い喪失感」を味わうようになる。これまでの「坊や」としての役割、それに付随していた快楽の真の対象を失ってしまったからだった。
(ルソーは数学に異常なまでに没頭するようになるが、その結果、重度の耳鳴りに襲われ、ついには難聴になってしまう。彼が音楽家の道を断念したのは声変わりが原因と人口に膾炙しているが、実際にはそうではなかったようだ。)
『失われた時を求めて』の第二巻に収録された「ゲルマントの方へ」には、マルセルが、当時はまだ目新しかった電話の向こうに祖母の優しい声を聞き、心地よさを覚えると同時に別離の強烈な不安を抱いた経験が記されている。
これらの例は、ラカンの「鏡像現象」に加え、「母なる声」あるいは「音響の鏡」が幼少年期の自己形成において重要な役割を果たすことを明らかにしている。
しかし、ドナ・スタントンは、「芸術を典型的な転覆的実践であると唱えるクリステヴァの芸術理論にとって、母的/原記号なるものは重要であるが、母は依然として(・・・)もの言わぬ、しかし物語られる受動的で本能的な一つの力にとどまる」と指摘する。
参考文献:
Domna Stanton, "Difference on Trial : A Critique of the
Maternal Metaphor in Cixous, Iriguaray and Kristeva" in
Feminsm and Psychoanalyses, Corneil University Press,
1989.
Jean=Josephe Goux, Les Inconscients, Paris, Editions
du Seuil, 1978. Symbole économique, Cornell University
Press, 1990.
Didier Anzieu, Le Moi Peau, Dunod, 1985.
ルソーは、母親代わりだったド・ヴァランス夫人の銀鈴のように美しい声を耳にし、彼女が教えてくれる音楽や「母なる声」のもたらす幸福な日々を送っていたが、夫人が彼を愛人とするやいなや「ママンの声そのもの」を失い、ライヴァルの病死により、さらにエディプス的な罪悪感と「深い喪失感」を味わうようになる。これまでの「坊や」としての役割、それに付随していた快楽の真の対象を失ってしまったからだった。
(ルソーは数学に異常なまでに没頭するようになるが、その結果、重度の耳鳴りに襲われ、ついには難聴になってしまう。彼が音楽家の道を断念したのは声変わりが原因と人口に膾炙しているが、実際にはそうではなかったようだ。)
『失われた時を求めて』の第二巻に収録された「ゲルマントの方へ」には、マルセルが、当時はまだ目新しかった電話の向こうに祖母の優しい声を聞き、心地よさを覚えると同時に別離の強烈な不安を抱いた経験が記されている。
これらの例は、ラカンの「鏡像現象」に加え、「母なる声」あるいは「音響の鏡」が幼少年期の自己形成において重要な役割を果たすことを明らかにしている。
しかし、ドナ・スタントンは、「芸術を典型的な転覆的実践であると唱えるクリステヴァの芸術理論にとって、母的/原記号なるものは重要であるが、母は依然として(・・・)もの言わぬ、しかし物語られる受動的で本能的な一つの力にとどまる」と指摘する。
参考文献:
Domna Stanton, "Difference on Trial : A Critique of the
Maternal Metaphor in Cixous, Iriguaray and Kristeva" in
Feminsm and Psychoanalyses, Corneil University Press,
1989.
Jean=Josephe Goux, Les Inconscients, Paris, Editions
du Seuil, 1978. Symbole économique, Cornell University
Press, 1990.
Didier Anzieu, Le Moi Peau, Dunod, 1985.