西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
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パリで訪れてみたいサンドゆかりの場所

2018年10月05日 | 手帳・覚え書き
 


*46, rue de Meslay :未来のジョルジュ・サンド(オロール・デュパン)誕生の場所

*7, Boulevard Montmartre:Théâtre de Variété 幼いオロールが母親に連れられて行った劇場
近くに、オペラ・コミック、テアトル・フランセ(フランスシアターThéâtre français ) あり 

*Saint-Louis-d'Antan 教会およびパリ1区の区役所:Casimir Dudevant とオロールの結婚式 1822年9月17日
56, rue Neuve-des-Mathurins : デュドゥヴァン夫妻(オロールとカジミール)が春と夏を過ごした時のパリの住所 
                1823年6月30日、長男モーリス、ここで誕生 

*カフェ: Café de Paris  24 Boulevard des Italiens / Frères de Provençaux
1820−30年代  パリのダンディや知識人が集まったカフェ(ミュッセ、サンドも)

*レストラン:Trois Frères provençaux : Palais Royal の回廊の中にあった「パリの中で最もパリらしいレストラン」
オロールは好んでこの界隈を散策している

*1824年9月 夫妻はパリから遠くないOrmesson に家を借りる オロールにとってあまりにも孤独な日々

*53,rue du Faubourg- Saint-Honoré : オロール、孤独を逃れてパリに住む
オロールの母は、近くの 45,rue de la Chaussée d'Antinに、 夫Casimirの父もまた、50 rue Sainte-Anne に住んでいた。

*31, rue de Seine : 作家となったジョルジュ、義弟が貸してくれたパリのこの住所に住む 1830年12月
    足繁く通った劇場:オデオン座 イタリア劇場 ジムナーズ座 オペラ座
    サン・シモン主義者たちの集会にも参加  便利な男装をして劇場に
    ルーブル美術館の絵画鑑賞        リュクサンブール公園の散歩(現在、この公園にサンドの銅像あり)
    チュイルリー、モンソー公園、植物園もお気に入りの散歩の場所 

    Figaro紙、Revue de Paris 誌に記事を書く

*25,quai Saint-Michel に転居 mansarde 1831年7月半ば  年300フランの家賃
ベリー地方出身の友人達とよく行ったレストラン:"D'Agneau", 8, rue des Fossés-Saint -Germain(現在は、rue de l'Ancienne Comédie)
お気に入りのレストラン:le Resaurant Pinson : 作家志望の若者や真面目な学生たちが集まったレストラン

*19,quai Malaquais 「青い屋根裏部屋」

*カフェ" Pont Saint-Michel":オロールとジュール・サンドォの待ち合わせカフェ ここで『アンディアナ』の編集者に会う
詩人ミュッセとの出会い 1833 ヴェニスへ恋の逃避行 別れと再会を繰り返したあと決定的別離  
夫との別居訴訟(当時、離婚は禁止されていた)   弁護士ミッシェル・ドゥ・ブールジュとの恋愛 
『ある旅人の手紙』『アンドレ』『マテア』
友人関係の拡がり:リストとマリー・ダグー夫人、フェリシテ・ドゥ・ラムネーなど/リストとマリーの住むスイスに子連れで滞在

*以降、l'hôtel de Florence, rue de Mathurins, l'hôtel Parmentier, 38, rue Laffite など、あちこちに住む

*16, rue Pigalle  (現在は20番地) 庭園の奥まったところにある家
ショパンは、自分の友人の紹介で、5, rue Tronchet に

*オルレアン広場5番地 5,rue d'Orléans  1842年8月、ジョルジュ・サンド転居

ショパンは、9番地に 見事な客間に二台のプレイエルが置かれていた:一台はグランドピアノ、もう一台はアップライト

ドラクロワは、この界隈のNotre-Dame de Lorette に住んでいた モーリス、1848年まで師事

オルレアン広場:ヌーヴェル・アテンヌに位置する芸術家の住む集合形式の建物 中央の広場を4階建ての4棟の建物が囲んでいる 

オルレアン広場は、ジョルジュにとって第二のノアン:「フーリエのファランステールより自由がより確約された芸術家のコミュニティ」

招待客:ルイ・ブラン キャヴェニャック ドラクロワ ミキエヴィッチ エドガー・キネ アルカン・エネ ポリーヌ・ヴィアルド

近くに画家Ary Scheffer住む:16 rue Chaptal (現在のロマン派美術館 Musée de la Vie romantique):ショパン、Ary Schefferをよく訪問した。

*8, rue des Condés, モーリスのためジョルジュが手当した住居  
1848年, 第二共和制の成立 
ジョルジュ、政府の中核を担うルイ・ブランやベリー出身の友人たちのために政治記事や女性を擁護する記事を次々と発表

*22,rue d'Antin, l'hôtel de France に宿泊:1849年12月 
『捨て子フランソワ』の上演を見るため(初演;オデオン座・初演11月23日)大成功、1850年4月まで140回のロングラン

*3,rue de Racine, 1851年1月、彫金師アレクサンドル・マンソーのアパルトマン 『クローディ』の上演 サンマルタン劇場

*3,rue de Racine,  1851年11月、恋人マンソーと同じ建物の3階を賃貸契約  1861年 マンソーと同じ階の部屋に移る

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Un grand merci à Madame Claire Le Guillou pour ces données très précieuses.
  










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