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https://twitter.com/Thouartmore より:
高遠弘美
プルーストの魅力の一つに小説の時間がはつきりしないことがありますが、一方で特定できる場合もあります。ウイリー・アシェが再構成した年代記によれば、語り手が生まれたのは1880年、ジルベルト、アルベルチーヌも同年。1888年、伯父の家で語り手はオデットと遭遇。1889年、スワンとオデットの結婚。
(承前)1890年、母親のおやすみのキスの挿話。1892年、コンブレーで休暇を過ごす語り手はジルベルトの姿を見かける。……これらは『事典 プルースト博物館』に記されてゐます。ただ、私個人としては、年代記は曖昧でもかまはないのではないかとも考へてをりますけれど。
スワンと結婚した後の10年後辺りにアドルフの家に行ってることになりますね…そして私は8歳にしてオデットの手にキスをしたいという願望に駆られてることになります。しかしながら、この小説に限っていえば、あまり年代や時制を意識するのはもしかしたらナンセンスなのかも知れませんね…
みあ
高遠弘美訳の『失われた時を求めて』を読んでいると、日本語に対する限りない尊敬と愛情が感じられる。母国語に対する畏怖の念こそこの翻訳の本質をなしており、ある意味失われつつある言語に甘美な果実の味わいを染み込ませているのだと思う。
『失われた時を求めて』を読んでいると、訳もない寂寥を感じてしまう。それは書かれた内容があまりにも美しく、そしてそれはもう永遠に味わえないことが自明で、それが悲しい。儚い追憶は何故か私の心を突き動かす。思い出すという行為は悲しい祝福に似ている。(高遠訳「スワン家のほうへⅠ」。