今、この場所から・・・

いつか素晴らしい世界になって、誰でもが望む旅を楽しめる、そんな世の中になりますように祈りつづけます。

残酷な歳月 16 (小説)

2015-12-28 10:41:33 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
 (十六)

ジュノは、りつ子が胃がんであり、それも末期である事は、はっきりしたが、手術をするべきかが、迷う病状だった。

もし、手術が成功したとしても、おそらくは「半年」長くても一年の時間だろうとの診断であった。

りつ子は、地元の医師からも、おそらくは、同じ事を告げられているようで、どこかで覚悟しているようなところがあった。

ジュノは、りつ子との接点を極力避けたい気持ちが強く、りつ子の主治医は別の医師に担当して貰っていたが、何かと言うと、りつ子は、ジュノに会うことを要求する。

りつ子の今後の方針が決まらないままに、ジュノはりつ子を避けるように、思い切った行動をとった!

実父の故郷、「岡山へ」向かった!

ジュノはこれからのじぶんの人生に、果たしてどんな運命が訪れるのか、全く予想もつかない恐ろしさを感じて、体の震えが止まらないほどだった。

自分の新しい希望,そして逆に不安が途轍もなく大きいように思えるのだった!

空は何処までも高く
雲はゆっくりと流れて
そこにすむ人は誰ですか
美しき人は締めつけられるほど
せつなくてこの心が乱れる
幼き君を思う兄の想い
追い求めるしかない
幼い日の愛おしさで
父と母に出会える
そんな気がする幻


ジュノの考えも及ばない事が、その地にはあった。
父の故郷、「岡山県、M市」

新幹線の岡山駅から、タクシーで二時間、家もまばらな、山村風景の中に、ひときわ大きな古い屋敷があった。
『ジュノは生れてはじめてみる風景、父の故郷!』

この静かな、山村、父の生家は、この地では名の知れた名家だと、聞く、ここ、父の実家に向かうタクシーの運転士も知っていたほどの地元では昔からの旧家で、名家だったと、ジュノは知った!
ジュノがいろいろと思い悩む事など、無用な心配であった。

時間が早まわりするような息苦しさから、ジュノは何度も、何度も、深い深呼吸をして、「お屋敷」と言われる、その家の門の前にたった。


(新たなる運命)

仕事の都合上、岡山行きを、急きょ、つくり出した時間は短い為に、ジュノは、父の実家へは、東京を発つ前に、連絡をいれた。

ジュノがどのような人物で、どのような用件で、伺うかを、話して、驚いた事に、すでに、父の実家
『蒔枝家』
では、ジュノの事は知っていた!

『いつ、お尋ねくださるかと、お待ちしていました!』

との答えが返ってきたのには、ただ、驚き、ジュノは、何か言い知れない、期待感と恐怖感がないまぜに、落ちつかなさを抱えて、岡山に旅立った。

この「お屋敷」といわれる、大きな門と、古いつくりだが、どっしりとした,黒塗りの土塀が、古き良き時代をあらわし、その姿を観ただけで、ジュノは、懐かしさのような、親しみを感じた。

だが、十歳までの寛之としての記憶にはない、この風景であって、大杉さんに、子供の頃に、聞いたような、不確かな記憶から、ジュノは無意識に、思い描いていたのだろうか。

大きく、どっしりとした、門の扉はすでに開けられていて、ジュノが、この家の門の前にたった時には、すでに若い男性が迎えに出ていた。
『イ・ジュノさんですね!』 

との、言葉が、ジュノの不安を取り去るように、穏やかさを感じさせてくれた。
『お待ちしていました、さあ~ どうぞ!』

ジュノは挨拶を交わそうとしても、ただ、お辞儀をするだけで、言葉が出てこなかった。

見るからに、手入れの行き届いた、大きな庭は爽やかな風が通り、ジュノの緊張感を優しく、解きほぐすような心遣いを感じた。

門から続く、少し長めの敷石の通りが母屋へつづく、この家の正式な玄関なのだろうか、若い男性は静かに気品あふれた、重そうな引戸に手をかけてあけた。

風格のある、どっしりとした、黒光りする柱や、梁の太さには、ジュノは今まで見た事がない建築物で、驚きながらも、清潔感に気持ちの良い、応接間というのだろうか、懐かしい映画の世界で観た雰囲気がする落ち着いた部屋に案内された。

先ほどの若い男性がこの家の主だと、正式に挨拶があった!

お互いの挨拶を交わしたあと、ジュノは、どう話を進めようか、考えあぐねていると!
男性は、私の方から、紹介させてくださいと言って!

私は遠い親戚から、養子として、迎えられた、
『蒔枝直樹』 という者です。

ジュノは、今、祖父母は健在なのかが、とても、気になっていた事をいち早く察した、この男性は、ジュノが傷つかない言葉で、祖父母の事を話し伝えた。

やはり、祖父は十五年前に、「七十八歳で、亡くなったこと」
「祖母は、八年前に、亡くなった」と話した。

今、この家に、住む者は、「私だけなのです」と、直樹と名乗った、この男性の話だった。

直樹は、祖母から、生前に、ジュノさんのお父上の事、ジュノさんの事を、お聞きしていますので、存じていましたが、私も、どうお話すればよいのか、何からお話すればよいのでしょうか!

少し、お休み頂いたあとに、おじいさま、おばあさま、そして、お父上のお墓へご案内いたしますので、すこし、お休みください!

と、言って、直樹はその場を立って行った。

ジュノの通された部屋は、造りこそ古いが、ガラス戸の重厚な造りの引き戸越しに、日本庭園風の庭が美しく見えていた。

すこし時間が過ぎた頃、直樹は、ジュノを「蒔枝家の墓所」へ案内して・・・
驚かれるでしょうが、今は、ありのまま、お参りして頂き、後ほど、お話をさせて頂きます・・・

ジュノは、直樹の落ち着き払った態度が、とても気になっていた。
今回、生れて、はじめて、訪れた!
「父の故郷!岡山!」

しかも、ジュノが、連絡するまでは、母が死んだ事も知らないはずだ!
ジュノ(寛之)も、妹の樹里も、行方不明のままだったはず!

案内された、「蒔枝家」の墓所には、驚いた事に、私、ジュノ(寛之)は死んだことになっていて、父と共に墓所に葬られていたのだった!!

これはいったい,どういう事なのだろうか?
ジュノはあまりにも大きいショックなことだった!

この、蒔枝家では、ジュノを亡くなった事にしなければならないほどの、事情が、それほどの事があったのか!

私は十歳だったけれど、幸せな子供時代であったし、あの事故の事も、はっきりとした記憶が 『ジュノとして、寛之として』 あるのに。

この私の人間としての証明はどうすれば良いのだろうか!

私は生きた存在
誰が私を消してしまったの
あの幼き日が
あの美しき日々が
何処に行ってしまったの
父の故郷の真実は
美しき人を戸惑わせて
冷たい石に刻む
惨酷な真実
私がどんな罪を犯したのですか


      つづく




残酷な歳月 17 (小説)

2015-12-28 10:39:58 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
 (十七)

(自分の存在)
ジュノが亡くなった日とされていたのは、あの穂高での事故があった日から、およそ、一年が過ぎた時期になっていた。

その事が、これからの、ジュノの運命なのか、通らねばならぬ、「寛之」と「ジュノ」としての生き方を試されるような事が待っていたのだ。

大杉さんと言う人物の存在が、ジュノの人生の中で、
『どうすることも出来ない、心の中の重石!』

ジュノの人生のすべてをかえて、何が目的だったのか!
大杉さんの真実の姿をあきらかにする事が、ジュノの未来なのだろうか!
しかも、父の故郷と同じ、この地は、大杉さんにとっても、
『大切な故郷のはずだ!』

ジュノ(寛之)の実の父、『蒔枝伸一郎』

そして、大杉さん、そして、ソウルの養父の三人は、東京大学での親友として青春を過ごした。

ソウルの養父は韓国からの医学留学、実の父の一年先輩だった事は聞いていた。

故郷が実父と同じ、ごく近い地で大杉さんは育ち、中学、高校も同じ、東京大学では、大杉さんはドイツ文学を学んだ。

だが、直樹の話では、「蒔枝家」と「大杉家」は昔からのつながりの深い、間柄だった事!

大杉さん自身は、朝鮮半島で、生れて、五歳まで、朝鮮で育ち、終戦の混乱の中で、両親と共に、日本に引き上げて来た時は七歳だったと、直樹は、生前の祖母から聞いておりますと、話した。

大杉家は、元々は蒔枝家の親戚で、蒔枝家の分家筋にあたるが、一家で、朝鮮半島に渡り、音信不通の状態が長く続いて、帰国したのは、大杉さんの両親と大杉さんの三人だけで、何も持ち帰ることが出来ないほど、命さえも危険を乗り越えての帰国だった事を直樹は何度も聞かされていましたと話した。

身一つでの引き上げだったとか!
その時期に、日本の占領下の地に暮らしていたひとたちが誰もが体験した、悲惨な出来事が多くあった。

「太平洋戦争は日本の敗戦が決まった、戦後、間もない時期で、日本も、朝鮮も混乱していた時代だった。」

誰もが、自分だけ何とか生き延びて、祖国、日本に帰れる事だけが望みの、すさんだ、世の中だった。

岡山での、大杉家は子供は大杉さん一人だから、大杉さんの両親はすでに他界して、空き家になってから、もう二十年もの間、誰も守る者もいない、荒れるがままに放置されている状態だと、直樹は話した。

あの穂高での事故の一年後に岡山に、帰郷して、大杉さんは、ジュノ(寛之)も、亡くなった事を、蒔枝の祖父母に報告していた。

美しき人はどんな運命
待っている人などいるはずもなく
傷つくだけの旅
悲しみだけの旅
記憶のない風景が
美しき人を優しくつつむ
心をえぐりとる現実は
誰が描いたストーリー
何もかもがガラス細工
私の求める愛は何処にも無い


仕事に追われる身の忙しいジュノは、無理に時間をつくっての岡山行きだったから、予想もしていなかった、驚きの真実を受け入れる事が出来ない思いながらも、今、何かを変える事も出来ない。

眠れないひと夜を、父の実家「蒔枝家の客間」でジュノ自身が、何者なのか分からなくなる恐怖におびえながら、朝をむかえた。
そして、混乱する気持ちのまま、早朝には東京に戻った。

岡山で知らされた事、ジュノには、想像も出来なかった事!
『自分はすでに死んだ、人間にされていた!』

しかも、その事を、祖父母へ、告げていたのが、大杉さんだった事が、ジュノは、大きなショックを受けて、どう、理解すればよいのかが、分からないままだった。
謎や、疑問、不安が深まるだけの、父の故郷への訪問だった!

どんな状況の中でも、ジュノにはあまえることの出来ない日常!
仕事が、容赦のない現実が待ち構えていた。

まず、りつ子の手術が決定して、時間を置かずに、行われ、ひとまず手術は成功した。

我儘な、りつ子は、手術後の苦しみを、駄々っ子のわがままのように、騒ぎたてて、人を困らせる事を、あたりまえのように、振舞うものと、覚悟していた!

ジュノは、いつ呼び出しがあるのかと、困った「お人」だと思っていたが!

ジュノの予想に反して、術後のりつ子のすがたの変わりよう!

我儘ひとつ言わない、静かで、我慢強く、苦しみや痛さにじっと、耐えている、人間性もあるのだと驚きを持って、経過を診ていた。

大抵の患者は、普通なら術後の苦しみに耐えられずに、看護師を呼び出すことが多い中で、ジュノが見て来た、りつ子の今までの姿ではない、人格を見つけた事にとても興味を抱いた。

りつ子と言う人間を、もっと信用しても良いのかも知れない!
そんなふうに思うジュノの心境の変化だった。

手術後のりつ子の経過も、良いこともあり、ジュノはふと、岡山での出来事を思い起こしながら、今になって、不思議に、直樹に対して肉親のような、親しみを感じて、会いたい感情になる自分に戸惑うが、それと同時に、妹、樹里は、今どうしているのかが、
不安で気がかりだった。

りつ子の経過も良い事で、りつ子の地元の病院への転院を考えていたある日、突然、アメリカ時代の友人、マークがジュノを尋ねてきた、もちろん、りつ子への見舞いも兼ねている事ではあるが・・・

どうやら、お互い、何処までが本気なのかは、計り知れないが、りつ子とマークは恋人同士としてのつきあいがあったようで、マークは少し、りつ子の事が心配なのだろう。

三人で語り合う、わずかなひと時、りつ子の病室は、遠い昔の、アメリカで過ごした学生時代が懐かしい時間ではあるが、そこには、加奈子のいない事がジュノの気持ちは何処か寂しく、何か物忘れしてるような感情になった。

マークの突然の訪問は、ジュノも、りつ子にも、驚きと懐かしい思いと、ある不安が、的中していた。

どうやら、仕事での来日もかねているのだと!マークは強調したが、洩れ伝わって来ている情報では、マークは、ロスで、小さな出版社を経営してはいるものの、経営状態は危機状態だとか、どうやら、昔の間柄を頼りに、りつ子からの融資を期待しての来日のようだった。

そんな、マークからのジュノへの報告は 
『加奈子がロイと結婚した!』

と何気ない、意地の悪さが、見え隠れして、ジュノにつげる、マークの姿は、密かに、ほくそ笑む、心の貧しさを、ジュノは感じて、少し寂しい思いになった。


          つづく




残酷な歳月 18 (小説)

2015-12-28 10:39:11 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
 (十八)

それは、加奈子の結婚報告を聞いただけではない!!

親しい友としてのジュノのマークへの信頼が揺らいだ事の重さを感じたからなのか!
「ジュノの中で、信じがたい、加奈子の結婚!」

この事が、後に、ジュノの運命に大きく影響して来る事など、今のジュノには、予想すら、出来ない事だった。

ただ、ジュノの心の乱れ、いい知れぬ、不安なのか、嫉妬なのか!
冷酷なまでに、加奈子を拒否した事への懺悔の思いなのか!
言い知れぬ心が乱れる、ジュノの執拗なまでの自己保身なのか!
長い間のジュノ自身が気づかない、傲慢さが、見え隠れしていた。

嫉妬する想い
この心は彷徨い
美しき人を苦しめる
戯言に惑う想い
未来の君は
何におびえて
私を見ているのか
あの光の中で
幼子を抱く姿に
美しき人は嫉妬する
母の面影と重ねあわせて
いつかこの手に抱く幼児


(傷心)
ジュノの定まらぬ気持ち、加奈子とロイが結婚したと聞くと、傷心のままで、ロスへ帰して、一方的に別離を決めさせてしまった、ジュノの冷酷さから招いた事だが、加奈子の傷心をなぐさめたであろう、若く美しいロイの存在は、鍛え上げられた若き肉体の美しさとジュノにどことなく面差しが似ていた事が、ロイと加奈子、ふたりの間が、急速に深まって行った、加奈子の心!

仕事を持たないロイは加奈子の要求する、すべてを、提供し、それは時間であったり、加奈子の寂しさを埋める愛であったり!

若きロイの強い肉体は、加奈子の偽りの求めを叶える!
若き恋人の、自由な生き方で、認め合う、ふたりの行動は!

ふたりに近しい人たちには、加奈子とロイの異様さだけが目立つ事を心配する気持ちと、同じくらい、好奇な心を動かして、興味を持つ事だった。

ジュノの知る、加奈子の姿ではない!
別の加奈子がそこにはいる!

加奈子のそんな行動がジュノの心を乱しながらも、どこかで、加奈子の事には触れたくない!
いこじなまでに、ジュノは、あえて、聞く事を拒否していた。

加奈子の不自然な行動にも、何の連絡もせずにいた結果、ふたりの間に、子供が生まれ、そして、結婚した!

加奈子の決断が、どれほどの苦しみの決断であったか、ジュノの知る加奈子の姿を想いながら、申し訳なさと、嫉妬心の入り混じった、複雑さが、ジュノは、ふたりの事を考え、想像する事さえ、打ち消していた。

りつ子は手術後の人格変化とでも言おうか、あの我儘で、傲慢な、りつ子のジュノに対して、ねじりよるような態度が消えている事が、ありがたい事!

ジュノは、死を覚悟したひとが術後に人格が変化した患者さんを何度か見たことがある!

大抵は、それまでの性格とは逆の姿に見える事が多い。
たとえば、健康で、はつらつとした活動している時は、非のうちどころがないように思える、性格の良い人、誰からも好かれている、そんな人が、ある日、突然の病がわかり、しかも、手術には、死をも覚悟するほどであって、ジュノの手術によって、大げさに
言えば奇跡的に助かった!

そんな人が、元気に快復後、それまでの人間性とは違う、たとえば、逆の、わがままで、傲慢さをむき出しに!
「自己中心的な人間に変わってしまった姿。」

そんな事例を、ジュノは何度か見ているが、ジュノが思うに、おそらくは、手術後に現われた姿が、その人の本当の姿なのだろうと思うのだが。

人は、育った環境やまわりの人の影響で、自我を抑えることを覚え、又、持って生れた性格などを自分では気づかず隠して、常識的で、人に好かれる人間として、それは自分では意識などはなく、本当に自然な姿なのだろうと思う。

大抵は、性格の良かった人が、意地悪になったりする事で、まわりの人が、びっくりしながらも、病気が、そうさせているのだろうと、許してしまうのだった。

だか、りつ子は、不思議なほど、我儘も、傲慢さもなく、少しやつれた姿がなんとなく、気を引く美しさを、病人とは思えないほど、白く、透き通るような肌が、上品さを感じさせた危ういほどの色香がある。

そんな魅力のある女性だったのか!
「ジュノは正直な感情だった!。」

三日ほどのマークの日本滞在も、結果的に、りつ子から、どんな援助を得られたかは、ジュノは知らないが、上機嫌で、笑い転げるように、ロスに帰って行ったところを見ると、りつ子からの融資は、マークを一時的であれ、助けたのだろう。

りつ子の経済的な余裕と死線を超えた者の不思議な魅力を際立たせた、一瞬がジュノには、眩しくみえた。

りつ子も、程なくして、地元、安曇野の病院へ転院して行ったが、ジュノのいる病院を離れる日に、りつ子は、ジュノに話した!

私ね、本当に、貴方を信頼していたし、大好きだった!
「貴方を愛していたのよ!」

だから!
今!「特別な、ブレゼントを、用意しているの!」

まだ、もう少し、時間が必要だけれど・・・
『きっと、ジュノの運命が変わる!』
『素晴らしいものに、変わる事を、願っているのよ!』
そんな、謎の言葉を残して、りつ子は、安曇野へ帰って行った。

ジュノは、ただ、心の中で、たじろぎながらも、今のりつ子なら信じられる!
「信じたいとねがった!」

そう思うことが、ただ一つの糸口である、大杉さんや妹、樹里へ
繋がる、手がかりなのだから!

季節はめぐりゆく
いつしか秋のおわり
何かが美しき人へ
近づいて来る気配
それはまだ誰なのか
美しき人に見えない愛
冷たすぎた運命
痛すぎた傷あと
優しさが心につたわる
君は私を導く人なのか

ジュノにとって、加奈子の結婚!
りつ子が安曇野の病院への転院して行った事はどこかで、ほっとした思いがある反面、寂しさなのか、とても気になる。
「加奈子とりつ子」

ジュノには友として、又、特別な感情を持った人として、すべてが大切に思う存在や心のよりどころにしている何かが、自分から離れて行ってしまいそうな空虚さ!
「孤独感がつのる事に耐えていた。」



            つづく




残酷な歳月 19 (小説)

2015-12-28 10:38:30 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
 (十九)

虚しさや、孤独感がジュノを苦しめても、それにまさる、仕事や日常の忙しさによって、精神の落ち込みを辛うじて耐えていられる。

ジュノの精神の強さは、大人として成長していく過程や仕事によって養われた事なのだろうか、どんな精神状態に置かれていても、外科医としての能力を失うことはない!
『ジュノの素晴らしい人間力だ!』

人は、備わった能力の半分も使われていないのだとか、おそらく、ジュノは、生まれ持った能力が、すべての事にすぐれているのだと思うが、長い苦しみの日々の中で、
ジュノ自身の持つ能力を引き出せた時!
「たぶん、並外れた気力の集中が出来る人間!」

外科医としての能力を、自ら引き出し、魂のすべてをこめて、メスをにぎる事で、すばらしい結果を生み出す事が出来るのだろう。

安曇野に帰った、りつ子からは、何の連絡もないまま・・・
『特別な、プレゼント!』
とは、どんな事なのか?

ジュノは、ふと、岡山での事を、思い出していた、もう一度、尋ねたい気持ちが強い!
あの、岡山では、具体的な事が何もわからないままの帰京!
心残りの多い帰京だった。

大杉さんの事も、妹、樹里の行方の情報も、わからない事も大きいが、なぜか、無性に直樹に会いたいと親しみを感じている。

ジュノは、直樹のいる、岡山に行きたいと、心から思うのだった。
忙しい中で、ジュノは、再び、岡山へ向ったが、ジュノは、生理的に飛行機を受け入れられない!出来ないのだ!

囚われ人になったような、恐怖が、飛行機に乗る度にジュノの感覚を狂わせる。

だが、仕事柄、そして長く、アメリカで暮らしていたこともあり、飛行機での移動は避けられない事だったが、そんな時のジュノは、科学者としての知識が消えてしまうのだった。

今のジュノには、何よりも貴重な「時間」!
その時間よりも、生理的に受け入れられない、飛行機を避けて、今回も、新幹線を使い、岡山に着いた。

ジュノを迎えに来てくれていた、直樹の姿の優しさが、不思議なほど、ジュノに安心感をあたえてくれた。

それはまるで、ありえない事なのだが、長い歳月を会えずにいた、親兄弟にめぐり会えたような感情とは、このような、心が打ち震える事なのだろうかと、ジュノは想う。

ジュノの姿を見た、直樹は、穏やかな美しさと落ち着きのある物腰が、まるで、その場所だけに光が射す、明るい空間のように・・・
今のジュノはそれほどまで、優しさに飢えていた!

十歳の時のあの事故で、すべての運命が変わってしまった事が、ジュノの絶対的な、矛盾を閉じ込めた思いと、並外れた精神力が、ジュノ自身の気づかない人間性をつくりあげた。

秋の深まる田園
凍てついた心をかくして
美しき人はつくり笑い
君は何をみつめる
優しさが心に痛い
幼き日々が父をみる
美しき人が求める
愛しき人を求める
幼児の柔らかき手を
この胸に添えて 


(再び岡山での日々)

再びの岡山は、過ぎて行く時間がゆっくりだと思っていたが、ここの季節は、秋の深まりが、足早に、もう、木々の色も、冬の気配を感じさせて!

紅葉の時期もすぎて、所どころで、枯れ葉舞う姿は、時折強い、晩秋の光輝く、寂しげな、ひとりのバレリーナの孤独な舞い姿のように、くるくると!

冬の前触れのように、突然、空もようが変わり、黒雲が渦巻きながら一瞬の速さで通り過ぎて行く、秋の雨は冷たく、木の葉を濡らした。

岡山駅から、直樹の運転する、セダンは少しの上り坂も、軽快に走る。
いくつもの峠道を越えて、少しずつ近づく、父の育った家!

一度だけの訪問なのに、父の家の前にたつと、とても懐かしい感情になり、胸が熱くなる思いになる、そんなジュノ自身の感情も初めて感じるものだった。

直樹は、前にもまして、細やかな心使いをしてくれる。
ジュノが、何を話せばよいのか、ジュノの中で、あまりにもたくさんの思いがあり、言葉より先に感情が爆発しそうなほど理性を失いかけている。

そんな、ジュノの姿をみて、直樹は、優しさ、落ち着きのある言葉で、冷静に、話し始めた。

私はこの家の者として、迎えられたのは、八歳か九歳の頃に、実の母に連れられて、この家に来ましたが、その頃のあまりはっきりとした記憶ではないのです。

母と祖父母の取り決めがどのような事だったかは、わかりませんが、あの日以後、実母とは一度も逢っていません。

祖父母はとても厳しい方で、子供心に、辛さのあまり、この家を出ようかと何度も、思った事もありましたが、今になって思う事は、祖父母の厳しさもわかりますし、今、この家を守って行ける事は、祖父母の教えが、とても大切であったからこそ出来ているのだと思います。

ジュノさんには、これから、私の知っている、おじいさま、おばあさまから受け継いだ事、すべてを、お話したいと考えていますので、これからも、いつでも、ここに帰ってきてください。
『この家は寛之(ジュノ)さんの家』
でもありますので!

ジュノに対して、遠慮がちではあるが、祖父母の生前の姿を、思い出しながら、ありふれた日常の出来事などを、寛之(ジュノ)が興味を持ちそうな事を選んで話し、時間のたつのを忘れてしまうほど、ジュノは、聴き入ってしまった。



つづく



残酷な歳月 20 (小説)

2015-12-28 10:37:02 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
 (二十)

なにしろ、十歳までの寛之(ジュノ)は、正直にいえば、実の父の思い出は、それほど多いものではなかった。

やはり、大学病院に勤める外科医だったが、とにかく、忙しい人で、あまり、寛之(ジュノ)や妹の樹里と一緒に過ごす時間もなく、仕事中心の人だったと思う。

でも、年に何度かは、登山やハイキングをした。
父と母、そして、大抵は、大杉さんが一緒だった!

今、思えば、なぜ!両親が登山やハイキングに興味があったのか不思議な事だ!
たぶん、大杉さんの影響が大きかったのだろう。

夏休みには、大抵は、八ヶ岳を家族で登り、その時は、いつも、大杉さんがいて、ジュノを何度となく、おぶったり、肩車をしてくれた、そんな時は、いつも、妹の樹里はうらやましくて!

「どうして、お兄ちゃんばかりに!、大杉のおじちゃまは!」
『大杉のおじちゃまは、お兄ちゃんばかり、好きなのね!』
「私にも、肩車してほしいのに・・・」

と言って、駄々をこねて、泣きまねをするのがいつもの口ぐせだった。
そんな、思い出をジュノは、直樹の話を聴きながら、懐かしく、何度も思い出して、なぜか胸が苦しいほど切ない気持ちになっていた。

秋の深まった山里の朝は、寒さが、手足にきつく感じられる中を、静かで人の気配も無い・・・

複雑な興奮と安らぎの入り混じった、夜が明け
静寂と優しい冷気の渡る庭を歩いてみるジュノ!

たまに、感じる木々の葉を揺らしている風の音だけが、この広い庭を、ジュノはまだ、解きほぐせない緊張感がもどかしく、ひとりで庭の美しさを楽しんでいた。

この前、来た時には、気づかなかった、広い、この屋敷には、古い蔵と、弓道場があったのだ・・・

お蔵は、それほど大きいものではなく、もう何年も、手入れがされていないようで、黒い塗り壁が少し剥げ落ちている!

小さめな、お蔵の姿はこの家の歴史を物語るように!
重厚さを現していた。

今のジュノには、この庭の華美さのない、落ちつきの美しさが心や体にすんなりと受入れられる心地よさがあった。
「何処となく、見覚えがあるように!」

記憶にはないはずなのに、いつも、見なれたような、懐かしい思いが、不思議な気持ちで、この庭の風景を眺めていた、表現の出来ない感情だった。

言葉に出来ないエネルギーを、ジュノは受けた気がした!
ゆっくりと庭を歩き、弓道場へ歩みよって行く。

誰もいないとばかり、思っていたら、直樹の弓を射る姿がみえた。その姿のあまりにも、しなやかなる姿!
『凛とした美しさが際立ち!』

思わず、呼吸が止まるほど、ジュノの心を揺るがした感情!
息を止め、立ち止まる緊張感!

直樹の立ち姿をみた時、ジュノは一瞬、時が止まってしまったかと思うほどの感動をおぼえた!

全身が熱くなるような、衝撃と言おうか、言葉に出来ないほど、この身に迫る感情にジュノ自身が驚く!

直樹の全身から、放たれる、力強さと、邪心のない無欲とは、このような、美しさをあらわす姿なのだろうか!!

静寂の中で観る君
その輝きを射る無心
今は亡き人の魂のように
美しき人に感じさせて
理解できぬ矛盾が
又一つの謎を
秋の深まりに染めて
山里の風景は何を
父のまぼろしを追う
美しき人に答えてはくれない

(直樹の姿)
直樹の美しい弓を射る姿は、ジュノの心に強烈な印象で、今までの、直樹に対する感じていたものとは、かなり違った。

ジュノは、弓道の経験がなく、だが、どこか、憧れるような思いや、興味は幼い頃から、持ち続けていたような気がする。

確かな記憶ではないが、実の父は幼い頃から弓道の修行していたと、確か、大杉さんに聞いたような覚えがある。

だが、実の父は、なぜか、そのような事を話す事はなかった。
実家の事や自分の育った、岡山での事を意識的に避けるように!

その事は、ずーと後で知った事だったが、実の両親の結婚を、お互いの親の強い反対を押し切って、結婚したが、どうしても、正式な結婚として、父の家でも、韓国の母の家でも、認めてはくれなかった。

弓道の指導者として、また、祖父母から受け継いだ、この家の多くの財産を管理しているのだと、ジュノ(寛之)に、大まかな、今の、蒔枝家の実情を直樹は話した。

直樹は、今、一番に、ジュノ(寛之)のお墓の事、そして何より、死亡届が出されている事を(後に分かった事だが、ジュノの出生届が出されていなかった)今、弁護士に相談して、おりますので、と、ジュノに説明して話してくれた。

だが、ジュノは、即座に!
「いや!その事は!」
『まだ!このままの状態にしておいてほしい!』
と、直樹に頼んだ!

確かに、ジュノの気持ちとしては、ひどく、ショックな事ではあるし、
『心が穏やかではいられない!』
『自分が死んだ人間にされている!』
今、新たに知った、実の父の苦しい胸のうちを!
父は、両親から、結婚と同時に勘当された!

だが、故郷を捨て、岡山の実家と疎遠になってしまっても!
子供たちに、父は、自分の故郷の事を話せなかったとしても!
『父は母との結婚を選択した!』

父と母の愛の深さだったと知った事が、ジュノは嬉かったし、感動を覚えて、幼かった日々を特別な思い出として、心に刻んだ!

忙しい時間の中で、直樹は、ジュノに対して、心から接してくれている事がよくわかる、それが、ジュノにはただ、嬉しかった。

祖父母から直樹が引き継いだ、この家の仕事と蒔枝家は!

元々は、日本酒の醸造元であったが、まだ、祖父が存命の時に、蔵元を、信用のある人に経営権をゆずり、経営者の一人として、今も直樹は経営に参加している。

また、岡山の市内に弓道場を持ち、直樹の、主な仕事は、
『弓道の指導者!』

としての仕事と、この蒔枝家の資産管理がどれほどの気苦労が多い事であろうことは、ジュノにも察せられる。

だが、直樹はそんな愚痴を言う事もないし、むしろ、責任の重さが、私を支えてくれると、気負いさえ、ジュノはかんじた。


         つづく



残酷な歳月 21 (小説)

2015-12-28 10:36:08 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十一)

この私を、なぜ、「死者として」大杉さんは、わざわざ岡山に帰郷して、事故から、一年も過ぎている時期に、祖父母に知らせたのかが、ジュノには、とても、気になる事だった。

その頃には、ジュノ(寛之)は、ソウルで、体も快復して、養父母と暮らしている事を知っていたはずの大杉さんの、この行動が、ジュノには、あまりにも、大きな疑問であり、不安が、つのる事でもあった。

そして、今なお、大杉さんは、意識的としか思えない、自ら、身を隠している事!
ジュノから、逃げるように、避け続けている理由を、どうしても知りたかった!
その事を知った時こそ、妹の樹里の行方も分るのだろうと、思うのだった。

最愛の妹、樹里はまさかの場所、ジュノには、考えもつかない、場所!
『ジュノの身近に!』
とても近いところに、樹里はいたのだった!!

その事がわかり、ジュノが、樹里の存在を知る事は、まだ、長い苦しみの時間がジュノには必要な運命だった。

美しき人のそばで
密かにみつめてる
今はただ大切な人
心を押し殺しても
抑えきれないほどの
苦しみは私だけでいい
父よ母よ
いつかきっと
ただ一人の家族
貴方の思いが叶う

「直樹は言う、ジュノに見て欲しい場所がたくさんある!」

祖父母から受け継いだ、蒔枝家が今、所有している物や、話し、伝える事の多さに、二十七年の歳月の重さを、今、改めて切なさと緊張感を覚え、ジュノ(寛之)の残酷な運命を思い、心が暗くなるけれど、そんな思いのすべてを!
『一本の矢にこめて、直樹は射る!』

精神の集中、その事が、直樹の、平常心を保つ事のできる、唯一の方法だった!
今、『明かす事の出来ない、悲しみと苦しみの真実を隠して!』

真実を知った時のジュノ(寛之)の驚きと混乱する気持ちを考えると、直樹の心は、平常心を装いながらも、すぐそばにいる、ジュノへの背信行為のように思えて、ひどく心が痛く、辛かった。

それは、たとえ、ジュノ(寛之)への心遣いであったとしても、直樹は苦しかった!
無心に矢を射る直樹の姿は!
あまりにも、威厳と、輝き放つ魂を感じて!
ジュノは、これ以上近づいてはいけない!

そのような感情にかられて、ジュノの体がまるでその場所に固定されてしまったように、立ち、直樹の矢を射る姿を、息を止めるような思いで見ていた。

直樹は、立て続けに、十本の矢を射り、ようやく、ジュノが観ている事に気づいて、十メートルほどの距離を小走りして、ジュノに、近づいて来て
「おはようございます」 
「良く、眠れましたでしょうか?」
と言葉をかけてきた。

その、走りよる、弓道胴衣姿の美しさが、まるで、若武者の絵姿のようで、ジュノは、昔、絵本か何かで見た、「牛若丸」のような、絵姿を見ているような、錯覚さえしてしまいそうな気がしていた。

そして、「直樹の眼が、涙で潤んでいたように、感じて、その表情の、透明感が、悲しげで美しく見えた!」

直樹の全身から伝わってくる、何かを、ジュノは理解出来ないままに、不思議な感情が、直樹に対して、申し訳なさと、わけのわからない密かな罪意識のような感情があることに戸惑う。

思わず、「直樹を抱きしめたいような、思いに駆られたことが、ジュノには、驚きと言葉に出来ない!
『清潔感のある欲望!』
とでも、表現しようか、そんな感情が同居していた。

直樹のかけてきた、言葉に、すぐには、答えられないほど、うろたえているジュノの心を、ひた隠して、ジュノは、「おはよう」と一言の挨拶をした。

ジュノの今までの人生の中で、出会ったことのない、情感!
この、気持ちを持て余すほど、整理出来ずに!
ジュノは、知らず、知らずに緊張していた。
しばらくは、ジュノの中で、突然、現われる、直樹の弓を射る姿に、心を乱されるが、それは、決して、不快なものではなく、むしろ、心地よい感覚でもあった!

今日の夕刻には、東京へ戻るジュノに、直樹は、ゼヒ!お見せしたい場所があるので、朝食の後、すぐに出かけましょうと、ジュノをせかせるように話して、準備を致しますので、お先に席を立たせてくださいと言って、直樹は、弓道場を出て行った。

何となくこの場所を離れたくない気持ちとは裏腹に、直樹との会話が途切れた事が寂しい思いがジュノを戸惑わせて、ゆっくりと庭を歩いてから、食卓についた。

そして、今、はじめて会った老婦人が、ジュノの食事の世話をしてくれて、挨拶をして・・・
「直樹さまとは幼い頃に、この家に来られた時から、お世話させていただいて、おりまして・・・」

今は、こちらの、離れに、住まわせて頂いております。
乳母の「金崎ゆき」と言います。

『どうぞ、直樹さまを、お攻めにならないで下さいまし!』

何の認識もなく、唐突に言われた、この言葉が!
「直樹さまをせめるな!」

そんな言葉を、ジュノは、どう解釈すればよいのか・・・

朝の少し冷えた風が
美しき人をつつむ
貴方を思う心が
偽りの行為であっても
いつかは真実に触れる
美しき人の今感じた想い
そっと抱きしめたいほど
切ないこの心に戸惑いながら
少しずつ貴方に伝わる
愛こそがすべてのはじまり

(蒔枝家の宝)
ジュノには、何の事なのか?

金崎ゆきと名乗る、ご婦人の、突然の申し出に、どう反応すればよいのか、返事のしようもなかった。

直樹の運転する、ランドクルーザーは、山道をぐんぐんと登り、ヒノキなのだろうか、道の両側を深い緑が少し暗い森に変わり、時には、怖いほどの黒味がかった木々が、何処までも、高くそびえたつ、太い樹木の放つエネルギーは、ジュノを緊張感で身震いするほどの感覚にする。

森や木の事に素人のジュノでさえ、明らかに、立派な樹木の森だと、わかった!

しばらく、右へ、左へ、と、ジュノの体は、否応なく揺らされて、もみくちゃにされながら、一時間は、車が走っただろうか、車道も、行き止まりになった場所で、直樹は・・・

「申しわけございませんが、ここから、もう少し、先まで、歩いてくださいますか!」
と用意してきていた、歩きやすい、靴を、ジュノに渡した。

ジュノは、もう、ここまで来ているのだからと、直樹の言うがままに、靴を履き替えて、直樹の後に続いて歩いた。


      つづく



残酷な歳月 22 (小説)

2015-12-28 10:35:00 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十二)

穂高以来、山へは出かけていないし、仕事の忙しさや、今のジュノの置かれている状況では登山や岩登りなど、出かける心の余裕もなく、久しぶりの山歩きは、足や体にきつく、息苦しさを感じさせた。

ただ、今、眼の前の直樹が、何も話さず、黙々と歩くだけが、ジュノには不可解な思いだったが!

ジュノは、直樹が、変に気を使い、話しかけてこない事が、かえって、心が落ち着き、ゆっくりと歩けることがありがたくて、この二年の間に起きた、さまざまな事を思い起こしながら、まるで、映画の中の場面を早回しをして見ているような感覚になる。

ジュノの願いとはかけ離れた事ばかり起きた、いろいろな事の中で、実の父の故郷で、今、いい知れぬ幸せな気持ちを感じながら、さまざまな出来事を、繰り返し思い出していた。

山を歩く事は、穂高でのあのおぞましい事故を、そして、その後のジュノの人生が否応なくついてまわる事だ!!

森から、無意識に受けるエネルギーとは、人の内なる思いのようなものが、繊細な感情となってよみがえる事なのだろうか・・・

山道を歩き出してから、どのくらいの時間が経っていたのか、ジュノは、不思議と、時計さえ見る気持ちにならず、歩いていた。

息苦しさの中でも、ふと、言葉に出来ない幸福感とでも言おうか、少しずつ、ジュノの気持ちを穏やかにしてくれている事いい!

少し先を歩いている、直樹が、振り返り、ジュノに、一言つたえた。
『もうすぐです、ほら!』
『あそこの木々が切れて明るい青空が見えている場所!』
『あの場所が見えますか!』

お疲れのところ、辛いでしょうけれど、もうちょっとですから、と、声をかけてきた。
どうやら、山の稜線が交差する、ひときわ明るい場所!、
小さな峠に、何があるというのだろう!

初冬の冷える風が
美しき人の頬をせめる
足先が少しだけ痛み
未来を語るように
この不安と期待が
美しき人の心がはやる
君は何を望み
美しき人に伝える
森の精霊と幻と静寂
心の声で聴く真実


ジュノは山道を歩きながら、いつの事か思い出せない、夢を見ているような、錯覚に囚われる瞬間があった。

山への畏敬の念を、知らず、知らずに、感じてのことなのだろうか!
『着きました!』

直樹が笑顔でジュノに言った!
『おつかれさまでした!』
『ここが、どうしても観て頂きたい場所です!』

そこには、少しだけ開けた、木々の間をぬうように、二十メートルの高さがあるだろうか!

いや、もっと高いかもしれないが、まるで、槍の剣先のように!

とんがり状の大岩が天に向かって突き出たように、そこだけが森の中から、周りを光照らして、その姿はまるで
『大海原を照らす、灯台のように!』

天からの恵みの光が、樹林の海を輝かせている!

山道を下ばかり見ながら歩いていたので、近くで見上げた、その迫力にびっくりした!

あきらかに、まわりの樹林の中から、異質な力を放ちながら、聳え立つ、威厳を保ち、威風堂々とした岩峰の姿だった!
直樹が言った!

『ゼヒ!この岩の上に登ってみてください!』

ジュノさんを、ここにお誘い出来た事の意味をわかって頂けると思いますので、と、言って、薦めてくれた。

大岩の片面は、きれ落ちた岸壁になっていて、覗き込むと、眼がくらむほどの高さだが、岩峰の半面をみて、一箇所だけ、登れると判断できる、階段状の溝がひとすじ!

それは、何か、期待と叡智のすべてを示す道のように!
岩の頂上まで続いていた。

ジュノは、直樹にすすめられるまま、岩に取り付いた!

岩に触る感触が、穂高以来の事で、少し緊張したが、それほどの危険を感じる事もなく、まるで、ジュノには慣れ親しんだ場所のように、岩のてっぺんに立って、思わず、息を呑み、歓声を上げてしまった!!

この黒い森を明るい青空が照らす風景は、まるで、深緑の波がうねる、海原を見ているように、幾重にも連なる。

この風景の偉大さが、ジュノを圧倒して、迫り来る!
エネルギーを受けて、ジュノの血潮をたぎらせてくれる!

日本の樹林の森は、黒味がかった、濃い緑の味わい深い色あいで、ビロードの絨毯を敷き詰めたようにひかり輝き!
所々に赤や黄色のえのぐを染め、ちりばめて、描いたように!

秋の色が、この風景を際立つ、美しさは、なんと、表現しようか、しばし、言葉を失う世界がそこにはあった。

直樹は、明るく、今まで、ジュノに見せていた、どこか、緊張感のある表情から、すっきりとした笑顔が、とても、綺麗だった。

男性に対して、使う言葉ではないかもしれないが、とても、ハンサムと言うよりも、綺麗、「美しい」の表現が、似合う、美しさと上品さが、育ちの良さが、嫌味なく、こちらに伝わってくる!

『好青年』の姿だった。


      つづく



残酷な歳月 23 (小説)

2015-12-28 10:33:16 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十三)

岩の上に直樹とジュノが並んで座ると、もうあきスペースのない、狭い頂上だが、ジュノは、とても、気分が良かった。

直樹は、静かな口調で話す
『ジュノさんに、この場所をどうしても、見て頂きたくて!』

お疲れだと知っていたのですが、ご無理していただきました。
いかがですか、
『素晴らしい、場所でしょう』

ここが、『蒔枝家の一番の美しい宝なのだと、私は思うのです』

そして、この場所から、見えている、ほとんどの山々が、蒔枝家の所有の山なのです。
先祖代々、引き継がれている、とても、大切な財産なのです。

直樹はいったい、どんな、心づもりで、ジュノをここへ案内して、この、美しい風景を、見せたのだろうか?

どう、ジュノは判断すれば良いかは、ひとまずは、何も考えずに、直樹の心づかいに、素直に受け取っていこうと思うのだった。

その時のジュノにはまだ、直樹の思いや考えに、至れないほど、この美しい感動に浸っていた。

身近に
すぐそばまで近づいてる
美しき人の運命
君が誘うこの深い森が
魅了する魔法の力
羞恥と理性さえも
おぼろげになる
底知れぬ欲望に
たじろぎながら
この透明な世界に
美しき人の惑い


(思いの残る帰京)
今の、いままで、ジュノは、自分が、『蒔枝家』 の直系の子孫なのだと、考えた事もなく、ましてや、蒔枝家の財産がどれほどの物か、など、考えるすべもなかった。

「ただ、父の姿が恋しいような思いなる」
「ジュノ自身の心のよりどころがほしかったのだろう」

ひとのぬくもりを感じる「蒔枝の家」が、なぜか、胸が熱くなる!
そんな気がしたのだった。

直樹が、この『蒔枝家』の大きな資産を、ジュノに見せることが、どんな意味がある事なのか、その時の、ジュノは、思いも至らない、ただ、この風景が、あまりにも、感動的な、美しさでジュノは、直樹の心遣いに感謝していた。

短い、岡山での滞在も、東京に戻れば、いつもの忙しい、ジュノの外科医としての、スケジュールが、否応なく、待っていた。

りつ子が安曇野へ帰ってから、もう、どれだけの時間が過ぎたのか、ジュノは、りつ子の言う!
『特別な、プレゼント!』 

とても気になっていたが、今だ、りつ子からは、何の連絡もなく、プレゼントの件もそうだが、りつ子が転院した、安曇野の病院からも、その後のりつ子の病状についても、ジュノの元へ、報告されてこない事が、気がかりだった。

りつ子の、手術は確かに、外科的には成功はした、りつ子は一時的に元気な姿を家族や周りの人たちに安どした思いにするだろうが、末期のガンである事には、変わりなかった。

手術で、取り除く事の出来ない物があった事が、ジュノは、安曇野の病院のりつ子の担当医だけに、伝えていた。

それは、りつ子の、家族からの願いでもあったが、おそらくは、りつ子自身も気づいていることだろう。

だが、言葉には出さないけれど、りつ子はすべてを感じ取っているのだろう
自分の命の終りの近い事を!

ジュノはそう感じて、りつ子の心を思いやる、医師としてではなく、古い友人としての思いがあることが、ジュノの心を複雑なものにしていた。

クリスマスも近い、ある日、ジュノの元へ、りつ子から、荷物が届いた。
『りつ子からの特別な、プレゼント!』
これが、そうだというのだろうか?

待ちかねていたジュノ、ダンボールの箱を開けると、大きなリボンのついた包みが、入っていた!

綺麗な包装紙に包まれた、その包みを開けると、三冊の古いノートが入っていた。
何処の、作業日誌のようであった!

ジュノは、汚れて、古ぼけた、このノートに、何が記されているのか、心臓の鼓動が、わけもなく、乱れてしまう、自分の意志ではどうする事も出来ないほどに・・・

先ず、一冊目のノートのページをめくったが、ただ、単純に、作業の進み具合を、簡単に記されていた。

たとえば、「何番目のさくが、壊れてしまったので、誰と誰が、作業に当たり、本日だけでは、終わらず、明日も作業に当たる事」

そのような、書き込みが、数ページ、続いて・・・
ジュノは、気づいた!

この日誌は、りつ子から聞いていた、りつ子が、理事をしている、施設と同じ、キリスト教会が、運営している、安曇野に牧場があり、そこの牧場の、作業日誌のようだった。

天使と悪魔の心で
美しき人を惑わせて
理性と官能のはざまで
生きる事への問いにもがき
時として怠慢すぎる精神
軽薄すぎるほどの惨めさ
美しき人の心をかき乱して
終りの日は悲しくも来る
神は君を聖女に
姿は朽ち果てても


  つづく      



残酷な歳月 24 (小説)

2015-12-28 10:32:35 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十四)

ジュノは、一冊目のノートの1ページから、丁寧に読んで行くと、その中には、この牧場に、牧師さまが、時々、牧場の従業員の食事や寮としての住まいを、整理整頓をしてくれる、ご婦人を案内して来た事を記されていた。

そして、このご婦人は、ここの牧場に住んでいたわけではないが、何日か、お仕事をしては、どこかへ、戻って行く事が書き込まれていた。

このご婦人は言葉を話す事が出来ない事!
また、どうやら、記憶をなくしているようだとも書かれていた。

自分が誰なのか、わからないのだとの、説明があったけれど、どうも偽装しているように思えるのだとも?

そんなメモ書きが添えたページがいくつかあった。

このご婦人は、誰に対しても、一度も笑顔を見せた事がなく、それでいて、記憶がなく、言葉が話せないと聞いていたが、なにやら・・・

「ひとりの時には、小さな声で、歌を、歌っている」 ところを見た者が、何人かいて、とても美しい歌声だったことを記されていた。

なぜ!、「記憶喪失を装っているのだろう!」
と、又、どんな辛い事情があるにしろ、気の毒な事だね!

そんな言葉が書かれていて、誰もが気になる存在だった、けれど謎めていても化粧などはしていない、いつも地味な服装をしていて、目立たないけど、気にして見ていたようだ。

よく見ると「美人だね!」などと、噂するものもがいたようで、このご婦人が、ここに来た時には、男ばかりのむさ苦しい場が、何かしら華やぐ空気を作り出していて、確かに気になる女性だ!
そんな事も記した、ページがあった。

そして、何年かすぎた、ある時、中年の男性が尋ねてきた事があるが、その時のご婦人の様子が、とても、怖がって、会う事を拒否して、その男性の訪問のあと、ご婦人は、突然、いなくなって、教会関係者にも、牧場の者にも、誰にも、何も告げずに、出て行ってしまったとの、記載があった。

そのページには、りつ子の添え書きのメモ用紙が付けられていて、その時の事を知る、牧場の従業員に、私が(りつ子)会って、話を聞いてみたけれど、その女の人の怖がりようは、普通ではなく!

「恐怖で、人格が壊れてしまいそうに、表情が別人のように」
恐れていたと話す人もいた。

尋ねてきた男性の様子を詳しく聞いてみて、わかった事ですが、どうやら、「大杉さん」のようです。

「佐高のおんじー」にも、この事を話して、聞いて見たが、たぶん、大杉さんだろうと、話していました。

そんな、書き添えが付けられていて、私の出来る事は、ここまで!
「私の力が及ばない事が、ジュノに落胆させてしまいますね」
そんなふうな、詫びる手紙が添えられていた。

ジュノの知る母の姿ではない!
すざましい、憎悪を見せた!
母の生きた日々のむごさからくる姿だったのか?

ジュノの知る母はいつも、穏やかで、誰に対しても、優しい言葉で話す人だった。
ジュノはもちろん、妹の樹里も、母に叱られている姿を見た記憶はなかった。
父に対しても、声を荒げての、争うなど見たことがなかった。
ジュノは、母はいつも美しくて、優しい!

幼き日に、ジュノを抱きしめてくれた、母の感触が、たまらなく恋しくて、ジュノの心が悲しみでいっぱいになった。

りつ子は、自分の体調が、悪い事は、何一つ、書かず、ジュノに伝える事だけを的確に書いていた。
今のりつ子の状態はおそらく、最悪のはず!

痛みが切れ目なく、りつ子を襲い、痛みを抑える為に、強い麻薬を使い続けて、意識さえ、はっきりとしないひびのはずだ。

何もかもが辛い、ベットでの生活が避けようのない日常になっているだろう。
そんな中で、これだけの事をしてくれた、りつ子の姿を思い、ジュノは又、改めて、りつ子の無償の愛を感じた。

一言、一言に苦しみと痛さに耐える、りつ子の姿が見えてくる、ジュノには、かえって、りつ子の病気の進行が、早い事が、想像できて、辛かったが、ジュノの医術を持ってしても、どうする事も出来ない事だった。

人間とは本当に不思議なものだ!

あれほどの嫌味な女性だとばかり思っていた、りつ子の変身と言って良いかはわからないが、生きて行く事の素晴らしさを見せてくれる人だ!
ジュノはりつ子の後人生を、そんなふうに思えた。

りつ子の実像は充溢した心!
心のまま、せい一杯、悔いの無い生き方が出来ている事を願うばかりだ。

ジュノの思いとりつ子の心をつなぎあわせた、母の姿を思いながら、無意識に深いため息をつき、ジュノは切ない感情になった。

人間はいつかは死が、誰にでも、訪れる!
その持って生れた宿命!

どんな運命であっても受け入れねばならぬ、不本意な、時間を生きたり、満足な悔いのない生き方が出来たと思いながら死ねる人もいるだろうが、誰でもが、良い死に方が出来るとは限らない・・・

ジュノの父や母のように!
あまりにも、不本意な命の終わり方!
死を迎えた時、どんな思いで、納得させるのだろうか・・・

両親の死を、受け入れる事を、絶対的な事実として、ジュノの人生のすべてに関係している事が、ジュノ自身の 『命』 をふと、考えずにはいられなかった。

私の無数の細胞が沸騰する、無限の怒りがうごめくような思いがする日々の中で、ジュノを取り込んでしまった運命を深く考える。

美しき人の耐えがたい
胸に捺された悲しみ
消す事の出来ない烙印
かたちのない痛み
愛と命と
美しき人の命のいとなみ
それはまるで宿命
振り払う事の出来ない
魂の叫びを
聡明な心で聴く



       つづく



残酷な歳月 25 (小説)

2015-12-28 10:31:37 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十五)

(大杉さんの生れた時代)

ジュノの養父母の話すことが本当であれば、あの穂高での忌まわしい、吊尾根での滑落事故から、奇跡的に助けられたのは私だけだという、実の両親と妹、そして大杉さんがあの場所にいたのは真実の事なのに?

ジュノ自身の命は、大杉さんの、そして今の父と母の献身的な愛情!
『無償の愛』
によって、守られた、ジュノの『命』だった。

りつ子からの 「特別なプレゼント」 も、ジュノには、すぐに、何かが、わかると言う物ではなかった。

ただ、りつ子の手紙に、気になる事が記されていた!

りつ子の手紙の中に、今の私には、すぐには確認することが出来なかったけれど、
佐高のおんじー(山岳ガイド)が、何度か、大杉さんを、事故のあった、穂高、吊尾根へ、母と妹の手がかりを捜しに行く、大杉さんを案内した中で何度か、岳沢小屋に泊まった。

そんなある晩、ふたりで、お酒を飲みながら、お互いのこれまでの生きて来た、思い出ばなしをしていて、ふと、大杉さんが、もらした事があったそうよ!

『大杉さん自身の出生の事を話した』
『今まで、誰にも話した事が無いのだけれど、と言いながら』
『消しようの無い、重い現実を!』

『大杉さんはたぶん、誰かに聞いて欲しかったのだろうね』
『誰かに(特に、ジュノに)聞かせたい!知ってほしい!』

たぶんそんな願いがあったのだろうと、佐高さんは、感じたそうだと、りつ子の手紙には書き添えられていた。

大杉さんは、大杉家の養子で、朝鮮半島が日本に統治されていた時代の1937年か~8年ごろに、朝鮮人の女性と日本人との間に生れたが、自分の本当の生れた日や父親が誰なのか、今も、わからないのだ!と、とても、寂しそうに、話した事があったそうです、とも書き添えていた。

大杉さんの本当の母親と、大杉家の両親が、親しい関係であった事で、子供のいなかった、大杉さんの養父母である大杉家の両親が、日本の敗戦の気配が濃い、1945年の春に、混乱する状況の中で、日本へ引き上げてくる時に、一緒に、大杉夫妻の実子として、連れてこられたのだと、話していたそうです。

りつ子は、意識的に、この事を、箇条書きするように、手紙に書き込んであった!

ジュノは、りつ子の手紙を読みながら、ジュノ自分の中で、大杉さんの衝撃的であった事が、どこかで、ジュノは、説明の出来ない、信じがたいけれど・・・
『納得感』とでも言おうか?

不思議に落ちついた気持ちが広がっていく事が、ジュノの、その時の心情だった。

ジュノは、作業日誌の1ページ、1ページを丁寧に読みながら、母の生きた存在をなんとしても、読み取りたくて、時間が許す限り、その事に、まるで、のめりこむように見ていた。

だが、単純な、作業日誌の記述では、母の居た、生活の様子は、中々読み取れずにいたが、ジュノは、落胆と期待との心の狭間で、その作業日誌の中に、ジュノは確信したと思えた。

『母の存在!』
『母の生きた姿を』

特に、小さな声で、歌を唄っていた場面では、ジュノは、幼い頃に母がよく唄ってくれた、「庭の千草」だと、わかった。

「庭の千草も~ むしの音も~」
「かれて~ 寂しく~ なりにけり~」
「ああ、白菊、嗚呼~~~」

父の好きな曲で、母は、家族がそろった日は、必ず、歌って聴かせてくれていた、確かな記憶からだった。

母は、ソプラノの歌手としての勉強の為に、日本へ、留学して来たけれど、父と知りあった事で、結婚してからは、教会の聖歌隊の指導をしていた事を、ジュノは覚えている。

子供の小さな胸に
美しい母がまぶしい
時には母の唄う声に
目覚める美しき人
あまりにも母の愛を知らず
あまりにも父の雄雄しき姿を知らず
心の空洞がきしむ
美しき人の望み
真実がある事
どんな運命であっても


若き日に、父、「蒔枝伸一郎」に、実の母を紹介したのは、他でもない、大杉さん自身だった。

ジュノの実の父と大杉さんは高校も大学も一緒!
大杉さんこと『大杉春馬』は岡山で同郷で幼馴染み、兄弟のように育った。

ソウルの、今の父は、学年が一つ上で
東京大学の医学部で学ぶ、韓国からの留学生だった。

大杉さんは、東京大学でドイツ文学を学び、今の養父と、大杉さんは、友人関係であった事から、大杉さんの誘いから、東大の赤門近くの、キリスト教会へ出かけて、紹介されたのが、ジュノと妹、樹里の、実の母『イ・スジョン』であったのだ。

そして、ジュノのふたりの母は、韓国で、姉妹のように育ち、大親友で、この教会が、お互いの伴侶との出会いだった。

二つの兄弟、姉妹の出逢いは明るい未来と愛に満ちた生涯を約束された、誰もが羨むほどの出逢いだったが、その出逢いこそが残酷な運命なのだろうか?


          つづく


残酷な歳月 26 (小説)

2015-12-28 10:30:50 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(二十六)

あの時代の国際結婚が、どのような問題があったにせよ、又、ジュノには、父と母が、どんな恋愛をして、結婚したのか、わからないが、今、はっきりしている事は、両親の結婚は、『正式な届出がされていなかった事だった』

その事が、十歳までの寛之として、又、妹の樹里も、このふたりの
『子供の正式な、生きた記録がない事!』

寛之と樹里は、存在しなかった事になっていたのだ!

その事が、わかったのは、岡山での実父のお墓参りで
『蒔枝家の墓所には寛之は死者として』
の名前が刻まれていた、残酷な現実!

『寛之としての誕生の戸籍さえ存在しなかったのだった!』

私の、寛之としての、誕生の証しは、記録されてはいなかったのだ、妹の樹里も、同じように
『国籍も戸籍も無い人間にされていた!』

今、何処で、どんな生活を送っているのか分からない、妹の樹里の事を考えると、ジュノはたまらなく、不安と焦る気持ちで、身の置き所も無い、辛さで、樹里が幸せで暮らしている事を、祈るしかなかった。

あの事故により、母はあの悲惨な運命に、狂わされた人生を、送り、不本意な死を受け入れるしかなかった。

なぜ!忌まわしい、残酷な歳月を、母はどんな思いで、生きていたのか、を考える事さえ、ジュノは、全身に痛みを覚える。

ふと、「気がつくと私は、こぶしを握り締めて!」
どうしようもない怒りに、身震いして、耐えるしかない!
こんなにも微力な人間なのだと悟っていた。

今のジュノには、母の生きた存在の証しを、りつ子が知らせてくれた、あの安曇野の牧場だけが頼れる細い糸のような情報だけれど、牧場へ、ジュノは尋ねて行く事が、母に、そして、妹、樹里へつながる大切な場所だと思えるのだった。

今は亡き母の生きた証しを捜し求めても、悲しみがますだけだと、分かってはいるが、ジュノはただじっとして何もせずにはいられない。

母の生きた日々の残酷さを思うと、誰にぶつけてよいか分からない怒りと憎しみ、母の運命を呪いたい気持ちになる。

母の居たと思われる牧場へ、母をを尋ねた、中年の男性が大杉さんであるならば、いったい、どんな事情で母を追い求めていたのだろうか?

母を尋ねた人物を確かめたところで、今は、どんな、心の安定が得られるというのか!
ジュノが安曇野の牧場を訪ねたところで、真実が分かるはずも無い事も承知している!

母と妹は、あの事故以来、大杉さんからも、ジュノの養父母からも、逃げるような生活だった、そうせねば生きられなかった原因を知りたかった。

ジュノ(寛之)の十歳の時、あの穂高、吊尾根での事故が、私たち家族と大杉さん、そして、養父母の運命を大きく変えてしまった事情とは、どんな事だったのかと、改めて、ジュノはこみ上げる怒りを、抑えられずに、大杉さんという人間を考えあぐねていた。

期待はあまりしていないと、思う一方で、どうしても何かを期待してるジュノ、りつ子が知らせてくれた、安曇野の牧場を訪ねたが、母がいたのは、短い期間でもあり、又、その頃にいた従業員は、誰も、残ってはいなかった。

ただ、ここの牧場は、古い記録も、きちんと保存されていて、りつ子が、ジュノに贈ってくれたノート以外にも保存されていた。

その中の一冊に、りつ子が知らせてくれた、大杉さんだと思われる人物が、母だと思われる女性が消えた後も、何度も、たずねていた事が、ここの作業日誌には記されていた。

安曇野での確かな情報もつかめないままで旅から帰る、落胆する思い。

ジュノは忙しさと、自分の中で起きている、物事の歯車が、少しずつではあるが、運命の歯車がくるい出し、変化が起こりつつある事を感じる。

今は現実には確証は無い事であっても、心の片すみで、ジュノの鋭い感性が、何かを、期待しているような思いがあり、日々の外科医としての忙しさに、没頭する事で、心の乱れをかろうじて、押し隠していた。

久しぶりで、ゆっくりと心を休める時間が取れた日・・・

そう言えば、母が最後に過ごしていた、アパートを訪ねた時に、持ち帰った、母の持ち物を、まだ、ちゃんと見ていない事を思い出して、あの時、ジュノは、母の持ち物かどうか、わからないままに、あの部屋にあった、すべての物を、持ち帰っていた。

美しき人の新たなる旅が
心の旅がはじまる
母が残してくれた愛が
今は気づかなくても
運命は必ず満たされる
美しき人の強い力で
もうすぐそばにいる事を
君はなぜ言葉に出来ない
切り離せない絆
愛だけが君を近づける


        つづく




残酷な歳月 27 (小説)

2015-12-28 10:30:03 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
(二十七)

荷物の中には、数点の衣服と、窓につるされていた、ジュノの知る母の姿とは、あまりにも違いすぎる、ホコリまみれの汚れたカーテンが小さな窓にかけられた、3畳ほどの狭く、汚れたあの部屋!

ジュノはなぜか、あの時、どうしても気になって、この奇抜で派手な色あいのカーテンをあの部屋に残して帰る事が忍びない思いに駆られて、持ち帰ったのだった。

持ち物の中には、なぜか、二~三歳用の、女の子の可愛いフリルのついた、薄い色のピンクのワンピースが一枚入っていた、どちらかと言えば、かなり、着古された物だった。

擦り切れたブラウスや下着が一組ほど!
あまりにも粗末な、母の洋服の間から出てきた!
『一冊の本!』

この母の持ち物を、ジュノが、持ち帰って直ぐに、ひとつ、ひとつ、見たはずであったのに、あの時は気づかなかったのか・・・
『イ・ゴヌ』
『キム・ソヨン』
と言う名前の記された、読み古された、詩集が一冊入っていた。

その詩集に挟まれた、生後間もない、赤ちゃんの写真があったが、写真の角々が擦り切れた、白黒写真だが、明らかに色やけして、かなり、古いものだとわかる、誰が写されているのかはわからないけれど、一枚の大切な写真のようだった。

詩集を読んでみると、あきらかに、内容は反戦の詩だった。

「さようなら、さようなら」
「正しき道を捨てた者よ」
「神はもう何処にもいない」
「若者を照らす光は消えて」
「闇がすべてを支配する」
「暗黒の世が支配する」
「この呪われた民の哀れ」
「救い主を闇が抑えて離さず」

このような内容の詩がつづいている、母はこの詩集を、おそらく、いつも大切に、持ち歩いて、何度も、何度も、読んだのだろう、手垢で汚れ、本の角々が擦り切れている。

所々に、メモ書きがされているが、かなり古い時期に書き込まれたのだろう、あおいインク文字が、判別できないほどに、薄くなっていた事を思うと、本当に長い時間が過ぎて行った事が、ジュノの心を締め付けるような思いにさせた。

母はこの詩集を繰り返し、繰り返し、読んで、どんな事を思い、考えていたのだろうか・・・

母は永遠にこの世界から排除されてしまった定めを、ジュノには認める事など出来ない!
そして、とても古い、写真の人物は誰なのか、おそらく、母にとっては、大切で、生きる心の支えだったのだろう。

この、色あせた、今にも、砕けてしまいそうな写真が、ジュノは、大切に又、母がしていたように、そーと、詩集にはさみ、閉じた。

今はもういない
母の面影を
美しき人の手が
頼りなく抱きしめて
夢の中で感じる
母のぬくもり
愛に飢えた手は
ただ悲しみの
美しき人の姿
色あせた私がいる


(母は不条理な運命に耐えて)
母の荷物の中からは、ほかの何も手がかりになるような物は、なかった、数枚の着古した衣服があっただけで、あまりにも、生活感のない、不条理さを感じて、母の残酷な運命の理不尽さを悲しみよりも、誰に向ける怒りなのか、底知れぬ不安と切なさがジュノを苦しめていた。

ただ、詩集の中に挟まれていたメモ書きの一枚が、ジュノはなぜか気になって、時々思い出しては見る、そんな日が続いて、思い切って、養父母に訪ねた。
「白山上」「南天堂」の文字・・・

最初は養父母も気づかなかったが、思い出してくれた!

父と母、そして今の養父母たちが、まだ、結婚する前に四人で会い、楽しく過ごした思い出の場所だった。

今はもう、お店も、地名さえ無くなってしまったが、両親たちが若い頃、まだ、お互いが大学生で、どちらからともなく、魅かれ合う、恋心がめばえた時期によく待ち合わせの場所としていたのだと、養父母が教えてくれた。

父も養父も東京大学に通う大学生で、母と養母は南天堂という書店の近くに下宿していたから、待ち合わせ場所として、都合が良かったとも説明してくれた。

父と母の若く、純粋な恋愛の始まりを思いながら、あの事故さえなかったら両親や妹の運命が変わることなく、今も家族、それぞれに幸せでいられただろうと思いながら、母は自分が誰なのかもわからなくなっても、幸せだった日々を忘れまいとして、メモ書きして持っていた事の母の心情があまりにも残酷で悲しくて、やりきれない・・・

そんな中で、安曇野のりつ子からは、何の連絡もなかったが、山岳ガイドの佐高さんから電話が来た。

りっちゃん(りつ子)からはあまりにも、不確かな事ばかりで、ジュノに申し訳ないからと、口止めされているのだが、それと、りつ子が、もう間もなく、お向かいが来る!
そんな、うわごとをいいながらも!

ジュノさんの事をとても気にしているので、やはり、話す事にしますと、連絡があった。

りつ子の父が佐高さんと同じように、山岳ガイドをしていた時期にりつ子の親父が聞いてきて、家族で話題になった、話だそうだが!

他のガイド仲間が偶然に出会った事、古い話なので、関係者もおそらく、忘れてしまっているかも知れないが、不確かな事の連絡で、すまないね~といいながら・・・

あの二十七年前の事故のあと、半年か、そこいら、過ぎた時期に、ジュノさんのお母さんと妹さんと思われる人を、日本海側の町!
『糸魚川温泉の宿』


       つづく

残酷な歳月 28 (小説)

2015-12-28 10:29:08 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
(二十八)

小さな温泉宿で手伝いをしていた女の人で、六~七歳の女の子を連れて、宿に住み込みで働いていた女性、あの穂高での事故の後、りつ子が小屋締めを手伝った時、無断で小屋にいた母と子だったようだと、ガイド仲間、何人かの話があった事を伝えてきた。

もう、二十七年も前の事だから、確かめる事ができるかはわからないが、もし、糸魚川の宿に訪ねて行くのなら、佐高さんも同行してくれるとも、言ってくれた。

母はすでに、亡くなっている事は事実だけれど、なんとしても、妹の行方を捜さなくては、その事が、ジュノの、今の一番の気がかりであった。

妹の行方に繋がる、どんな、小さな情報でも、ジュノは欲しいと、つい期待を持ってしまうのだが・・・

やはり、糸魚川温泉には、古い話でもあり、又、母と妹が、糸魚川にいたと思われる期間は短いだろう事が想像できたから、何の手がかりも無いままに、ジュノは、冬の日本海の荒れ狂う海を見て、落胆するばかりだった。

母は、樹里の事を誰にも、何も話さず、まるで、樹里の存在を隠すようにして、なぜ、何一つ、手がかりを残してくれなかったのか、いらだちと共に、不思議で、不安な感情を持った。

この、あまりにも、怖いほどの激しく荒れて冷たい冬の海を見て、この海を隔てた先に、生れて、育った、母の国がある!
懐かしい家族の待つ祖国がある!

この海を、どんな思いでみていたのだろうと、母の気持ちを思い、ジュノは胸のつぶれるような痛さを感じた。

母と妹がいたかもしれないと言う海辺の小さな宿!
この小さな宿は、おそらく、母と妹がいたかもしれないが、今までのいきさつを考えた時、母は、自分たちの存在を出来るだけ、誰にも知られないように気をつけて、暮らしていた事を考えると、やはり、難しい事だった。

この小さな宿も、不慮の事故で、十数年前に、代替わりしていた事で、益々母たちの存在を確かめる事は困難だった。

それでも、佐高さんと枕を並べて、その夜は、この小さな宿で、やすんだが、ジュノはほとんど眠れずに、朝を迎えた!

一晩中、冬の海は、波の音がまるで、誰かを呪うかのように、唸り声のように重く、激しく、ほえ続けていた。

ジュノは、何も見えぬ、くら闇の海を、漂いながら、まるで、怒れる魔物が襲い掛かってくる夢を、明け方の浅いねむりの中で、何度も見ていた。

その魔物の姿は、時として、大杉さんのあの優しかった笑顔で、私を抱き上げてくれる姿と入れ替わる瞬間があって、ジュノは、いつしか、怯えと、喜びがない交ぜになる混乱する夢にうなされていた。

何度も同じような夢をみて、よほど、うなされ、怯えていたのか、佐高さんの呼び声で目を覚ました。

ジュノは身体中が冷たい汗にまみれて、鳥肌がたち、悪寒が走っている、全身から、力を奪われたような疲れを感じた。

ジュノの気持ちの中で、あまり期待を持たないようにしては、来たけれど、現実に、何の情報にも繋がらない落胆は大きい、ましてや、冬の日本海は、不気味なほど、深く黒さを増して体を締め付けるように唸る。

ジュノの心を、いっそう暗く、重い・・・
日本海の荒波は、ジュノに、底知れぬ不安と、説明の出来ない、怖さを胸に迫る。

何も知る事が出来ない、心残りは何処までも増幅して母や妹が、ここで暮らした地だと繋がる事の微かな望みさえつかめないまま、いつまでもここにいることも出来ない!

離れがたい、糸魚川の宿にジュノは心を残して、海を眺めていたが、忙しい身のジュノは、佐高さんに諭されるように、糸魚川を離れた。

荒海の砕け散る波
怒りの呼び声にも似て
美しき人の痛み張り裂ける思い
孤独が夜の闇をつつむ
離れすぎた距離
母と子の距離は遠すぎて
もう埋まる事のない
悲しみの海が荒れ狂う
黒い波は深く冷たく
屈辱と焦燥が母を壊した
美しき人の求める
母の祖国の香りは消えて


(壊れ行くジュノ)
糸魚川から帰り、ジュノは、ただ仕事だけを考える日々、けれど、どんなに係わる事を避けようと願っても、避けることの出来ない事は、
『人の死!』

人の死は、外科医という仕事柄、避けようのない場面に立ち会う事も多い。ジュノが、願い、祈っても、友人である、りつ子の死は、避けようのない事だった。

「突然届いた知らせ!」
「覚悟はしていた事だったが、りつ子の死は!」
ジュノにとって、ショックが大きく、ひどく残念な思いと悲しみが残る!

外科医として、最善をつくした事には、間違いはないけれど。

手術前のりつ子の歪んだ性格でのジュノに対する嫌味な振る舞いを避けようとした接し方は、加奈子との後のつながりを思い出させて、無意識の内に、りつ子に係わりたくない気持ちから、やはり、絶対的に、最善をつくしたと言い切れないような、後ろめたさがあって、ジュノは、自分の中にこんなふうな、弱さを持ち合わせていた事にも、混乱した思いだった。

ジュノは心が重く、りつ子の安曇野へ帰る時に見せた、精一杯のつくり笑顔がジュノの意識から離れない気持ちであった。

外科医として、患者さんを、差別する事はない、どんな、患者さんの手術であっても、最善をつくして、ジュノはメスを握る事を誇りにしている。

だが、りつ子に対する感情は、やはり、違っていたのだろうか?
そんな、ジュノの心の揺れを、まわりの人間が知る事などない!



           つづく

残酷な歳月 29 (小説)

2015-12-28 10:28:22 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)

残酷な歳月
(二十九)

つねに冷静で優秀な外科医としてのメスを持つ手に精神的な影響など、するはずも無いと、誰もが認める、ジュノの外科医としての技術!

りつ子の葬儀もすみ、仕事の忙しさが、そんなジュノ自身の気持ちを気づかえるほどの余裕もないまま、変わらない日常が続いていた。

そんなある日!アメリカにいる、悪友のマークから、
「あまりにも突然の知らせが来た!」

加奈子とロイは、なかば、狂気が宿ったような、クライミングをして過ごしている姿が、異常だという!死をも恐れない、クライミング生活!
『そんな中で起きてしまった滑落事故』

どこまでの付き合いがあったかはジュノにはわからないが、りつ子の死をもおそらくは知っただろう、ふたりの友人の不幸によって、マークの正気を逸した、ジュノへの言葉が心に突き刺さるように伝える電話は、ジュノを攻める言葉がつづいた。

その言葉ひとつ、ひとつが、ジュノは、まるで自分ではない誰かが?
この体の中に入れ替わって、潜んでしまったように、体が重い日々が続いて、やっと、なんとか体を起き上がらせて、ベットに座った。
「ひどく気分が悪い!」
「体中がギスギスと痛み、悪寒がする」

そして思う事は、私は何のために生きているのかと、深い疑問を持った、ひどく混乱する理解出来ない感情は、何処か深い谷底に引きずり込まれるような、体ごと落ちて行く、そんな感覚に悩まされた。

見えない暗闇がジュノはただ、怯えさせて、何かに引きずり込まれてしまいそうな、不安感が立て続けに襲って来る!

体と意識が上手くかみ合わない、どうする事も出来ない、体調の変化が、次々と起きて、ひどいめまいで、意識がうすれて、気絶した。

どのくらいの時間、ジュノは倒れていたのか?
体が氷のように冷たい!

立て続けに起きる、悪寒に震えながら、一瞬、自分が誰なのか、分からない、呆然とした姿のジュノ!今まで、考えた事もなかった。
『ジュノ自身の生きて行く、目的がわからない』

すべての景色が灰色に見える!
恐怖なのかさえも、判断が出来ないジュノ!

何もかもが『無』であり、『幻』であって欲しいように思えて、ひどく、心が、混乱した。
そして、ジュノの中で、今までに、感じた事がない
『絶望感』

誰にも説明の出来ない体と心の感覚と怒りの感情、まるで、ジュノ自身のすべてが、粉々に砕けて、消えてしまいそうな恐怖と不安感が襲ってきた。

その感覚は、何度も、何度も、繰り返し、起きて来る事を、ジュノは自分では、どうする事も出来ずに、そして、自分がなぜ!ここにいるのかが、思い出せなかった。

時間が過ぎて、少しずつ、ジュノとしての記憶を取り戻したが、体は、相変わらず重くて、自分の意志のままに動かせないほど、見えない何かに、がんじがらめになって、全身の痛みと身動きの出来ない不自由さがただ、腹立たしくて、子供のようないらだちで、周りにいる人に、あたりたい衝動を抑えられずにいた。

ジュノ自身、あの時から、どのくらいの時間が過ぎているのか、その時、この部屋に入ってきたのは、あの、『ヒマラヤ杉医院』の看護師、多々良さんだった。
そして、韓国の父と母が、ジュノのそばにいてくれたのだ。

今までの、ジュノの鉄人的な体力と精神、神業のような、外科医として仕事の、すべてがジュノは無意味に思えるほど、疲れ果てていたのだった。

『ただここから逃れたい!逃げ出したい!』
今、ジュノに係る、すべての責任から逃げたい!

まるで、子供帰りしてしまった、ジュノの精神が壊れた瞬間の姿だった。

ジュノがすべての責任から逃れる事で起きる、さまざまな重大さを、推し量れるほど、冷静なジュノはもう、そこにはいなかった。

ただ、自分がいるこの場所から逃げ出したい、ただそれだけを考えるジュノ、やっと体を動かせるまでの体の回復を取り戻した頃、ジュノは漠然とした事ではあったが、何処かへ旅に出るか、又、放浪する精神をどう立て直す事が出来るのかを、考えていた。

そう、すべてを、リセットして、生まれ変わらなくては、この先の人生をジュノは、生きては行けなかった。

ずっと、心と体はまるで、別々の生き物のように、ジュノの意思と関係なく、ただ、そこに存在するだけのものになっていた。

だが、ジュノ自身の心、そして胸の奥の深いところで囁く!何かが?、そして、いつの間にか、又、気を失って、倒れていた。

ジュノが、気づいた時は、病院のベットの中にいた、誰が、どのように世話をしてくれた、考える気持ちの余裕もなく・・・
きっとある、何かが変わる、いつも、そんな囁きが聴こえていた。

もう耐えられないのです
今の美しき人は
苦しみと心をひとつに
出来るほど強い精神は
何処を捜してもないのです
優しい父も母も私に
求めるのは完全なる姿だ
この体が引き裂かれた
美しき人の孤独が
際立つ憂いは静かなる心の叫び


            つづく



残酷な歳月 30 (小説)

2015-12-28 10:26:50 | 小説、残酷な歳月(16話~30話)


残酷な歳月
(三十)

(ヒマラヤに向かう)
ジュノの体は激しい熱と悪寒の繰り返しで、まともに、冷静な精神ではなく、判断が出来ない、時として、粗暴な心で、悪態をつく、なさけない男としての姿だった。

だが、体はどうであれ、プライドと羞恥する思いが、ジュノの中でせめぎ合いをする。
養父母の優しさは、以前にもまして、暖かい心使いが、嬉しいが、その半面、ジュノは、三十八歳になる、大人でもあるわけで、時には、子供じみた、物言いが、ジュノの全身から鳥肌がたつほどの、嫌悪感を覚えてしまう!

養父母の行き過ぎた愛情は、時として、ジュノは、ふたりが大切にしている、愛玩物として共有する気持ちで、見ているのではないかと、疑う、錯覚さえ感じてしまう。

ジュノ自身の邪心であることは、わかりきっている事なのだが、確かな事は、深い愛情を持って、ジュノを案じていてくれる、今の父と母の心はわかっている。

そんな、いこじさと心の狭さを自覚した時、とても、ジュノ自身を苦しめ、寒々とした虚栄する自分をすべて、消し去りたいと言う声が囁く!

ふと、冷静になれた一瞬、このままの状態では又しても、養父母の心を踏みにじる事になってしまうけれど、ジュノは、外科医として、もうダメなのだと悟る。

『メスを持つ事は出来ない』
『外科医を続けてはいけない事!』
『今までの名声がひどく重くて、負担に感じて』

外科医としての立場のジュノではなく、そこにいる人間は、両手をもぎ取られた感覚で、ジュノ自身が見えていた。

今のジュノ自身の精神と体から判断した答え!
考え抜いて出したジュノの判断!

勤めていた大学病院へ、辞表届けを出して、誰にも、告げる事もなく、ひとりで、旅に出た、ただただ、今、この場所から、自分を消し去りたい思いにかられて・・・

旅支度も何もせずに、無意識に選んだ旅先は、ネパールだった。
加奈子といつか、時間をつくって行く約束の地、ネパール!、

加奈子の憧れの山!
『アムダムラム』

ふたりが愛し合っていた頃、加奈子の願いは、いつか、ジュノが雪山を登る事に興味を持って欲しかった事。

加奈子は言葉に出す事は無かったが、ジュノとふたりでザイルを結びあい、緊張感ある、雪壁のナイフリッジを、ジュノと加奈子の緊張感を最大に高めて、心をひとつに出来た時!

今までとは、全く違う、二人の幸せの絶頂感を体のすべてで感じられる事を加奈子は望んでいた。

もちろん、登山中は、恐怖と張り詰めた緊張感で、その時は集中しているけれど、登山がすべて、やり遂げた時、言葉で表現出来ない、幸福感が、心と体を、津波のように、次々と感じられる。

それは、気持ちの高揚と体がふわふわとした、ただ、嬉しさが、全身を包んで、溶けてしまうのではないかと思えるほど、幸福で、たぶん、体験した者でないと実感出来ない事だと思う!加奈子は、そんな感覚をジュノに体験して欲しかった!

『そんな時期が来たら、二人でヒマラヤに行く事!』
その時が来るまで!
『アマダブラム』
は、楽しみに、残しておくはね!

この言葉を加奈子は遠慮がちに、ジュノに言った事を覚えていた!だが、ジュノ自身は、あの穂高での事故以来、登山は好きになれなかったが、心のどこかで、いつも気になる事でもあった。

その辺の事を、加奈子は常にジュノへの気づかいが出来すぎるほどの繊細な気配りの出来る最高の女性であった。

どんなに加奈子自身の欲望が深い事であっても、決して、ジュノに対して、強い要求はしない!

加奈子の強い思いであっても、お互いの立場や仕事の忙しさも考えた、加奈子の思慮深さと、心からの願いだった。
「いつか、ふたりで、ヒマラヤへ向かう!」

ジュノに対する、深い愛情を感じた、そんな時、ジュノはいつも、すまなさと、ジュノの欺瞞に満ちた、ジュノ自身の醜さを恥じるばかりで、加奈子に、申しわけない思いで、自らの胸を突き刺す、痛さを感じていた。

ジュノは旅立つ前に、今まで務めていた、病院の近くにある、旅行社の「アドベンチャーガイズ社」を、何気なく、目にして、心をひかれて、思わず飛び込んだ。

加奈子のお気に入りの登山家が所属している会社だった。

この旅行社に、入った時も、ネパールへ向かう事を、確かな事と決めていたのではなく、ただ、ジュノを知る人が誰もいないところへ、行きたかった。

ジュノ自身の意志があったのかさえ、定かではなかったが、たぶん、無意識の中で、加奈子との約束を果たしたいと言う思いがあったのだろうか?


つづく