今、この場所から・・・

いつか素晴らしい世界になって、誰でもが望む旅を楽しめる、そんな世の中になりますように祈りつづけます。

残酷な歳月 1(小説)

2015-12-03 14:05:27 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

(一)
人は生きている限り時間と言う、眼に見えない存在が人間を支配して、喜びや感動、そして苦しめもする、それは人間がこの世に誕生して心を持ち、文明による発展と感情を支配された瞬間だ!
科学、文明、人間、思想、そのすべてにおいて争う事が私はこの愚かさが信じられない悲しみに思える!
ごく普通の人々が、突然の耐え難い悲劇にあいながらも、声を出せずに泣き、涙を流し、この生きる世界でどれだけの人が苦しみ、悲しめば、神は、残酷な時間を止めて、悲しみの涙を、喜びの笑顔に変えてくれるのでしょうか!
過ぎて行った時間や歳月を取り戻す事は出来ない!
神が定めた運命なのだろうか、今、はじまろうとしている出会いを、ひとり、いや、ふたりの男がたどる、どうする事も出来ない運命、『残酷な歳月』

(夏の終りに始まる運命)
真夏の空気とは何処か違う透明感と少しだけ冷えた感じでジュノの頬をなでる風が不思議にさえ思えてくる。

夏の終り、北アルプス穂高の登山道は、お盆が過ぎて二十日にもなると、気の早い、ナナカマドがちらほらと微かだが色付き始めて、足早にやってくる、秋の気配を感じて、なんとなく、気だるかった気分がいつの間にか、ふたりは久しぶりに歩く、山の匂いに酔い、特に山の大好きな、加奈子は大きく手を広げては、爽やかな空気を胸一杯吸い込んで楽しんでいた。

「梅雨明け十日」と言う言葉がある!」

夏山の登山の最盛期には、北アルプスでも、いちばんの人気のコースである、涸沢カールをメインに夜明け前から、人があふれるほどの賑わいが、今はまるで嘘のように、登山者もまばらで、穂高のメインコースの登山道であっても、出会う人も少なく、滝谷のドームを登っているのは、ジュノと加奈子のワンパーティだけのようだ。

「オーケー、ジュノ、オーケーよ!」

弾む加奈子の声が冷たい風にさえぎられながらも、途切れがちにわずかに聞えて来る。
登山シーズンをずれた、今の時期は、晴天率がかなり低い中で、幸運にも、昨日と今日は、まるでジュノと加奈子の心を現しているような、雲ひとつない、透き通るような、青い空は、よりふたりの絆を深くして、ふたりを祝福するか、のように、文句なしのクライミング日和だ。

ジュノは岩に触れ、一歩踏み出そうとした瞬間、不意に体のエネルギーが抜けてしまいそうに、昨夜、加奈子との愛し合った、あの時の喜びの感覚が、ジュノの体じゅうを一瞬のうちに、駆け巡って、言葉に出来ないような幸福感と気だるさが共存した。
不思議さが伝わって来たような、強く、熱く、なにかが走った。

加奈子との愛を交わすとき、ジュノは、加奈子という人間の本質が、わからなくなる。
時には加奈子の体全体からかもし出される、官能的過ぎるほどの魅力は私をまるで別人のように狂わせて、酔わせてくれる。

だが、日常の加奈子は、知的で、美しさを控えめな気品を漂わせて、非の打ち所もなく、女性としての内面の奥深さを感じさせる。

時として、加奈子の発する言葉は音楽のような響きに似ていた。
今、加奈子は大好きな岩に触れられる事と、愛するジュノが一緒だから、声がうわずってしまうほどの嬉しさで、心が弾むようで、上機嫌だ。

ふたりはアメリカの大学の時からの恋人同士、加奈子は今もアメリカで暮らしている。
才能がある、知識豊かで、いわいる、出来る弁護士として、人気がある、信頼されて弁護士をしている。
ジュノは日本の大学病院で外科医をしているが。
「非常勤で心療内科医を、ヒマラヤ杉医院で診療もしている」

お互い、とにかく、いそがしいから、やっと、一年に一度、ふたりが逢う為に、おたがいの努力をして、逢う時間をつくっていた。

そんな時、いつもお互いの甘えから、ちょっとした喧嘩にもなったりするが、それは、少しだけ趣味の違いがある事から起きる、じゃれあう言葉遊びのようなものだった。

ジュノはどちらかと言えば、暖かい場所、南の小さな島、あまり、人のいない、海岸のきれいな海が大好きだった。

そこで、スキューバーダイビングや、海のスポーツをして遊びたい!
「誰にも邪魔されたくない、加奈子と過ごす時間が大事だった。」

山よりも海が好きになった事は、ジュノ自身も気づかない心の苦しみが無意識の内にジュノの中でつくられて行った、精神構造なのかもしれない!
だが、「加奈子は、とにかく、山が大好きだった」
特に、ロッククライミングが、何より大好きだった。

子供の頃に、両親の仕事の都合で、アメリカで生まれ育った加奈子は両親が登山やロッククライミングが好きな事もあり、ヨセミテやアリゾナなどで、クライミングを楽しんで成長した事で、加奈子はとにかく岩に触れる事が大好きなのだった。

だが、加奈子はアメリカでの教育を受けた女性ではあるが、
『心からジュノを愛している加奈子は!』

最後はいつも、ジュノの希望する海のリゾート地を選び、快く決めては宿などの手配も、手早く済ませては、ジュノをいつも驚かせている。
ジュノは加奈子のそんな姿に深い愛を感じて、嬉しかった。

だが、今回の休暇はジュノが加奈子に内緒で決めて、加奈子が日本に着いた時、穂高へ加奈子を案内する事と、しかも、加奈子の憧れである、滝谷を登る事を伝えた時の加奈子の喜びようは、ジュノの想像をはるかに超えていた事が、ジュノは改めて、今までの加奈子のジュノへの愛情の深さを思い、その夜はジュノと加奈子の特別な夜にする為に、密かに予約を入れていた。

上高地の帝国ホテルのスイートの部屋の静けさは少し、ベストシーズンを過ぎていた事もあり、ふたりを包み込んでしまうほどの静寂の時を保ち、お互いの鼓動を確かめられるほど、心がひとつになって、深く、深く、愛し合った。

そして今、ふたりは、お互いを信じあえる、最高のパートナーとして、
「穂高の滝谷ドームの岩に触れている。」

同じ頃、穂高、北尾根を挟んだ、岳沢に、一人の老人がじっと目を凝らして、吊尾根をみつめて、深いため息をつき、涙を流しながら、長い時間その場所を離れずにいた。
「そして、心の中で、叫ぶ!」
「友よ、君はまだ、僕を許してはくれないのだろうか?」

痛み続けるこの心と体に、今、岳沢を包む闇が足早に、もう何時間ここにいたのだろう、あの、忌まわしい、一瞬の出来事がまるで、幻だったかのように、静かに闇が迫って来た。
あの場所で、ふたりの変わり果てた姿は、今はないが、あの時抱き上げた、あの子の微かなぬくもりが、今もこの私の手に残っている。
あの忌まわしい事故から、
『二十六年の歳月が過ぎてしまった。』

黒い闇が迫る、吊尾根を見上げながら、大杉は深い、ため息とも、うめき声とも区別がつかない、苦しみからの、のたうつような言葉を搾り出すような声で、まるで独り言のように、又、友に語りかけるように、親友だった
『蒔枝伸一郎』に語りかけた。

「もう、これ以上、あの日、あの時を」
「この胸の中に閉じ込めてはおけない!」

避けようのない、後悔を持ち続けて来た歳月、君の大切な家族をさがし続けていても、もう、私には、あまりにも、苦しくて、辛すぎて、自分を責め続けては、生きて行く力もなく、この私に残された力と時間のすべてをかけて、君の大切な家族へ、本当の事をつたえる時がきたのだと思う。
「君の美しき魂の力を!」
「真実が伝わるように、僕を手助けをしてくれるね!」
君の愛する家族へ、君の美しき清らかなる魂が、きっと、私を導いてくれる事を願っているよ。

残酷な歳月は
人を狂わせて心を壊しても
運命が導く魂の叫び
山のこだまが私に伝える
もう、すぐそこに
愛する人がいると
あの日美しき人は感じて
一歩近づく
貴方の呼ぶ声を
聴いたのだろうか

「もう、許してくれるだろうか、君の大切な家族は!」
「イ・ジュノ」三十六歳、韓国国籍である、日本人、職業、外科医、そして、心療内科医でもある。
東京の有名大学病院で外科医を、池袋の小さな『ヒマラヤ杉医院』
で非常勤で心療内科医をしている。

恋人はアメリカ在住の日本人、津下加奈子三十六歳がいる。
あまりにも、仕事が忙しくて、ソウルに住む、両親にも、もう、二年近く、会っていない、もちろん、電話などでは、お互い、近況報告のように、連絡はしているのだが・・・








残酷な歳月 2(小説)

2015-12-03 14:03:53 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月(小説)
(二)
穂高から戻り、加奈子も二日ほど、ジュノの部屋で過ごして、あわただしく、ロスへ帰ってから!ジュノは「ただ仕事に追われる毎日だ」
一月が過ぎた頃、池袋のヒマラヤ杉医院で『心療内科医』としての診療中に、ジュノの元に、ひとりの老婦人が、運ばれてきた。

池袋警察のなじみの刑事、田山がついて来たが、老婦人を投げやりな態度で、いかにも、面倒そうに言った!
「どうも、不法滞在者の韓国人らしいのだが!」

かなり、危ない状態でね、警察に、通報があって、引き取りに行ったが、動けずに、口もきけないでさあ~と!

その、田山刑事のぞんざいな話しぶりが、ジュノには、いつもながら、すこし、嫌な気分になった。
池袋という街は、確かに、毎日が、雑多な事の繰り返し、似たような事で、田山刑事も、人間の優しさを持ち合わせていたとしても、日常の、このような、多くの出来事がぞんざいな言葉で、他人を傷つけてしまう事にも、心で気配りが出来るほどのゆとりさえない、日常を、ジュノも理解出来るが、ことさら、「どうも、韓国人」らしい、の一言が、ジュノの神経を逆なでする思いだった。

診察室のベットに寝かされている老婦人は、もう、自分では、体を動かす事さえも、不自由なほど、痩せ細り、いつ着替えたかも分からないほどの、季節はずれの夏の汚れた服装に、誰かが羽織ってあげたのか、ピンク色のショールを体に巻き付けるようにして、ベットに横たわっていた。

ジュノはまず、日本語で、言葉をかけてみる!
「お体の具合は、いかがですか?」
「どうしましたか、どこが、痛みますか?」

だが、なんの、反応もしない、そして、韓国語と英語で、同じ事を、尋ねても、やはり、何の反応もしない、ただ、この部屋のすこし、高い位置にある、明かり取りの為の天窓から、見えている、わずかに色づいた木々が風に揺れている姿を見ているのだろうか・・・

声をかけている、ジュノの方ではなく、微かに見えているようなゆれる木々から、眼を離そうとはしなかった。

田山刑事は、ジュノに、任せたとばかりに、さっさと消えていたが、どうも、最初に、警察に連れて行ったようで、その時の、調書のメモが、ジュノに渡されていた。

その中には、ある、古アパートの取り壊しが行われていた中のひと部屋に、このご婦人が、うずくまっていて、動けずにいるところを、田山刑事が、引き取りに行き、警察で、事情を聞こうとしても、何も話さず、今にも、倒れそうな状態に、困り果てて、ジュノのい
るヒマラヤ杉医院へ運んで来たと言う事のようであった。

このような事は、今までに、何度もあり、その度に、医療費は何処からも払って貰えず、この、小さな医院で、半ば置き去りになったまま、亡くなってしまうことも度々ある。
言わば、経営が成り立つほどの所ではないが、心あるひとたちの援助で、細々と続けている、医療施設だった。

だから、ジュノも、ほとんど、ひと助けのような気持ちから、続けている心療内科医としての良心からだった。

何度めかの呼びかけに、あの老婦人は、やっと顔を動かし、ジュノをしばらくみつめていたようだったが、言葉を話せるほど、元気はないとジュノは、その場を離れようとした時、消え入るような、微かな声で! 
『ヒョンヌ』

確かに、そんな、ふうに、ジュノには、聞えた。
『ヒョンヌ』
この言葉!

ジュノには、ずーと昔、何処かで、幼かった頃なのか!
確かに、聞き覚えのある言葉だった。
『ヒョンヌ』

だが、ジュノは、その言葉が、何を意味する事なのかが、分からないいや、思い出せないと、言うべきなのだろう。

そんな、複雑な心境におちいって、混乱しているジュノに、追い討ちをかけるように、ジュノに一本の電話が、この小さな医院のデスクの電話が、ジュノを呼び出した。
ジュノの記憶の奥深く閉じ込めていた、あの声が電話の向こうから聞えた。

『大杉という者だが、私を覚えているか?』

と、忘れる事など出来ない、あの声がした。

幼かったあの頃
貴方は優しかった
いつもふたりで競い合った
暖かな背中を
消えかけた面影が
美しき人を傷つける
あの幼かった妹に
夢の中で手をつなぐ
今どこを彷徨うのか
凍えてはいないだろうか

(忘れえぬ声)
あの声を忘れない為に!
いや、忘れようと思い努力した事もある、その混乱する苦しみの中の記憶に、ジュノはどれほど自分を痛めつけ、もがいた事か!
「やっと心の奥深く、閉じ込めていた、あの声!」
「二十六年の歳月、十歳の子供だった、あの時!」

突然の出来事と、二十六年の過ぎて行った日々がまるで、早回しする映像のように、幼かった日々とが折り重なるように、ぐるぐると、回りだしている。

あの声が、あの日に、あの場所の記憶がジュノの悲しみや怒りなのだろうか、思い出したくない気持ちとは、裏腹に現われて、身体中に響く声がする。
『十歳の寛之としてのジュノが、そこにはいた。』

ジュノは、あの声にばかり気を取られて、混乱したのか、何を話したのか、思い出せない!
だが、気がつくと、すでに電話は切れていた。

あの電話があった、数日が過ぎた日、突然、ソウルに住む父からの電話に、ジュノは、長い間、閉じ込めていた、疑問や不安が動き出す恐怖を感じて、全身を緊張させた。
「何かが動き出した」
「何かが起きている!」
「混乱と焦り、眼に見えない、恐怖感!」
「ジュノ自身を包み込んでしまいそうな、緊張感!」

何かにたとえようのない、ジュノの理性さえも奪ってしまいそうな、心の中で謀反をかきたてるものがいるような不安感であった。

「あす、母さんとそっちへ行くから、」
「会わせたい人がいるから」

と話した父の様子からも、ジュノは、何かを感じ取った。
「ジュノは両親の待つホテルへ急いだ・・・」

ジュノはアメリカの医大を卒業して、研修医としてのスタートは東京だった、なぜ!、東京を選んだかは、はっきりとした意識は無かったけれど、心の奥底に、自分は日本人だという、思いがあったのかもしれない。

東京で暮らすようになって、両親は、意識的なのか、ジュノの部屋には、よほどの事がないかぎり、来る事がない、今回も、ホテルに部屋を取っていた。

ジュノはホテルの部屋の前で、なぜか、今まで感じたことのない、緊張感で胸が締め付けられそうな思いになりながらも、いつもと変わらない、明るい笑顔をつくり、ドアを開けた。
「その、瞬間!」

あまりにも、年老いた両親の姿に、ジュノは、かける言葉も無く、愕然とした思いで両親のまえに立った。

確かに、二年もの間、仕事の忙しさを口実に、ソウルの家に帰らずジュノ自身にも気づかない、養父母を避けたいという気持ちが働いていたのだろうか、だが、どんな言い訳をしたところで、今の両親をほおって置いた事は事実だ。
ジュノは、申し訳ない気持ちで心が痛んだ。

部屋の奥に、すでに「会わせたい人」が来ていたようで、両親との挨拶もろくにせずに、なぜか、気まずい雰囲気で、ぎこちなく、父が
『大杉さんを知っているね!』

と、ジュノに紹介するでもなく、会わせて、父は、次の言葉を選ぶように話し出した。
二十六年前の事故の時、ジュノを助けたのは
『大杉さんなのだよ!』

岳沢のあの場所へ、誰よりも早く駆けつけて、ジュノを夜通し抱いて、必死で歩き、病院へ運んだ人は
『大杉さんなのだと!』

養父の言葉は、なぜか、伏し目がちに、苦しそうで、ジュノには、素直に受け止める事が出来なかった。
十歳の少年だったあの時の、突然の出来事!

わずかな意識の中の記憶、途切れがちに聞える「山靴」の音なのだろうか、ジュノが不確かな意識の中で真っ赤な景色がうごめく記憶の中を走る。
『暗闇の中で泣き叫ぶ自分の声が聴こえる』

養父は、私が生きて、助かった事は、奇跡だった!
大杉さんのとっさの判断と行動がジュノの命を救った!
大杉さんの必死でジュノを助けたい思いが奇跡を起こしたと言う!

養父の、その姿が何処となく、おどおどとしているように感じて見える。
そして、はっきりとした私としての意識や記憶があるのは!
『なぜか、日本ではなく!、ソウルでの生活だったのか!』

今の両親が私のそばにいる生活!
欺瞞な心を隠した、幸せな笑顔の私がいる生活!
だけど、私には、幼かった頃の『蒔枝寛之』の本当の笑顔の記憶がはっきりとある、消す事の出来ない、記憶がある!

私は何処から来たのですか
私の命を誰が奪おうとしたのですか
今はじまる運命は
もう誰にも換えられない
誰からも愛される
美しき人は心の奥に
秘めた確かなる記憶
あの山靴の音が
私の新たなる道しるべ
愛に満ちた輝きの歩み


(山靴の音)
あの日、私たち家族のあとを追いかけてきて、あの場所で、何故、
「大杉さんは、父を突き落としたのか!」
「あの、危険な、吊尾根の岩場から!」

私は一瞬、体が、何かに触れたような気がしたが、そのあとの事の記憶が曖昧だけれど、ただ、不思議な感覚でよみがえる。
「山靴の音」

なにかを、蹴りながら歩く靴の音か、それとも、ジュノ自身が岩に叩きつけられた時の音と、激しい耐え難い痛み!
耳の奥で、ゆっくりと、なが~く、ひきのばされた音!
「梵鐘の音のように聴こえる、不思議さと恐怖!」

そして、誰か、私を呼ぶ声が聴こえて、体中がくだけてしまうような、引きちぎられてしまうような耐え難い痛さに、泣きながら気がつくと、今の母が優しく声をかけてくる!
「もう大丈夫よ!」
「もう怖くないのよ!」
と言って、私の傍により添い、抱きしめてくれた。
そんな事を何度もくりかえして、私は知らず、知らずに「寛之」から「ジュノ」に換わって行った。
「幼き日の不確かな記憶!」

疑問と不安と恐怖が入り混じった、歪んだ記憶、あの頃、不思議な事に、ソウルの病院で、ジュノとしての確かな認識を持って行った。

最初は、十歳までの日々は、長い、なが~い、夢の中での事のように思いながら、ひとつ、ひとつの記憶をたどり、確信して、心の奥深くに、寛之としての『私』を閉じ込めて行った。

その悲しみと苦しみのすべてが、今、二十六年の歳月を、飛び越えるように、目の前にいる、この老人が
『大杉、その人だと言う!』

ジュノは、体のすべてが粉々にくずれて行くような、一瞬にして、
「自分が何処かへ飛び散ってしまうような、恐怖感を覚えた。」

どの位の時間が過ぎていたのだろうか、その場で、気を失っていたのだろうか、気がつくと、ジュノはひとり、養父母のいるホテルのベットで横になっていたのだ。

しばらくは、今、ジュノ自身がおかれている状況が理解出来なかった、ただ、ぼんやりとした気力が抜けたままで、暗い闇がジュノを包んでいたが、窓から差し込む、きらびやかな光、街あかりに、いつの間にか、長い時間が過ぎて、夜である事を感じた。
母が静かに部屋に入ってきた、すぐあとに父の姿がつづいた。
「驚かせて、ごめんなさい!」
母の、今までにみた事のない気丈な姿で、ジュノに語りかけた。

そして、父が静かに、低い声で
「あまりにも突然に起きてしまった事の!」
「すべてを話す時期が来たようだね!」

そう言いながらも、次の言葉は、途切れがちで、辛く苦しそうな父の姿が何を意味するのだろうか。
「ジュノを愛しているよ、いつまでも、変わらずにね!」
「私たちの大切な息子である事を忘れないでね!」
その事だけは、何があっても変わらない事だからね、と言って、また、言葉が途切れた。
『ジュノのパパが、亡くなったのは、事故だったのだよ!』

ジュノは、その時、とても、ひどい怪我で、とても、助かるとは思えなかったほど、怪我がひどい状態だった。
「本当に、貴方だけでも、生きていてくれた事!」

とても嬉しかったのよ、と、母がまるで、父を手助けするように、話して、ジュノを、又、抱きしめた。
確かに、ジュノには、父とほとんど、同時にあの岩場から落ちた事は記憶にある。
『落ちて行く瞬間と言った方が正しい!』

両親の話す事を待ちきれずに、ジュノは、まるで、問いただすように聞いた!
『ママはどうしたの!』
『樹里はなぜ、ここにいないの!』
立て続けにジュノは訊いた!

その時のジュノはまるで、幼児の寛之に戻ってしまったような気持ちになっていた。
心の奥深く閉じ込めていた、悲しみが、まるで、ジュノの体から、爆発するような感覚が襲ってくる!

抑えようの無い、激情する悲しみと怒りが!
理性ある、日頃のジュノの姿は、そこにはなかった。

父も母も、何を問われても、もはや話を続ける事が、あまりにも辛すぎて、しばらく、黙ったままだった。
重い、沈黙が続いたあとに、母が口を開いた!
『ママにはね、ジュノは、最近、お逢いしているのよ!』

田山刑事さんが、お連れした方が、
『ジュノと樹里ちゃんのママなの!』
樹里ちゃんは!と言って、母は、言葉を詰まらせて、思わず、すすり泣きして、すこし、落ちついたのか!
『樹里ちゃんは、今も行方が分からないままなのよ!』
と、母はやはり、今までに、ジュノに見せた事のない、気丈さを、取り戻して、話し続けた。

             つづく









残酷な歳月 3 (小説)

2015-12-03 14:02:58 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
(三)
二十六年前、事故が起きた、吊尾根の岩場から、母と妹が行方不明になり、つい最近まで、大杉さんがさがし続けて来たのだとジュノにはなした。

そして、最近やっと、母の居所がわかり、大杉さんが訪ねた時に、不法滞在者として、警察へ連れて行かれる時だったそうなの。

どうすれば、一番、良い事なのかを、考えていた時の出来事だったと、母は説明して、次の言葉が続かなかった。
その場にいる事さえ、辛いようで、隣の部屋へ、今の母には、あまりにも、辛すぎる、現実を話す事で、疲れきってしまったのだろう。

ジュノは、今、何をすれば良いのか、ジュノは自分の気持ちさえ、混乱して何も思いつかないし、両親の話す事など、理解しないし、分かろうとも思わなかった。
あの、意識すら、はっきりとしないほど、変わり果てたご婦人が、
『母なのだと、今、告げられても!』

信じられない思いのまま、母だと、いわれる、ご婦人のいる場所
「ヒマラヤ杉医院へ」
ジュノは無意識に体が動いて、あのご婦人のもとへいそいだ。

母の面影が私を責める
何故今までこの私を
放浪の日々が
私を壊して行く
誰も私を知らない
優しさを捨てて
私は誰になっていたの
母を思う記憶が
ただ悲しみの中で
叫び続けた美しき人

都心のホテルから、東池袋にある小さな医院
『ヒマラヤ杉医院へ!』
ジュノは急いだ。
入院施設もあるのであのご婦人は、あの日から入院しているはずだ。
「あのご婦人が、私の実の母だと言うのだ!」
そして、確かに聞き覚えのある
『ヒョンヌ』

「あのわずかな記憶の中にある言葉!」
ジュノは車を走らせながらも、自分は何処へ向かっているのか、混乱する心と精神を辛うじて、何とか落ち着かせて、今、向かおうとしている。

今、母のいる「ヒマラヤ杉医院」の場所さえも、忘れてしまうほど、混乱して、分らなくなる瞬間がある。

あわてて、今、自分のいる場所を周りの風景を見て、確かめている。
ああ~あの場所へ、行くところだったのだと、思い返して!

どこを、どう、車を走らせたなど、覚えてはいなくても、日常の暮らしが体にうえつけている事なのだろう、気がつくと、「ヒマラヤ杉医院」
ジュノのもうひとつの医師として、仕事をしている場所へ、ジュノは無意識のうちに着いていた。

今の母がすでに心配して、連絡を入れていたのだろう、看護師の多々良さんが玄関でジュノを待っていた。

たぶん、母はある程度の事情を、この多々良さんに話してくれたようで、すぐさま、あのご婦人の部屋へ、ふたりは急ぎ足で歩いた。

多々良さんは五十代のすこしかっぷくの良い女性看護師、実質的にはここの副院長のような立場で、ここでのすべての実務的な事を取り仕切り、運営させている、仕事の出来る、ジュノがとても頼りにしている人物だ。

ジュノよりも前からいる、おそらく、ここの、創立者の一人だと聞いたことがある。
ジュノは何も言わずとも、ご婦人は服装を清潔な物に着替えさせてくれていた。

何処となく、生まれ持った、品のよさを感じられる、ジュノの母だという、このご婦人がベットに横たわる姿はあまりにも小さくて、やせ細っている。
体は動かなくても、あの時とは別人のように、たった三日前に会った姿ではなかった。
「もう、ほとんど、眠ったままの状態なのです!」

と、多々良さんの病状の説明では、もう、点滴もからだに入って行かないほど衰弱が激しくて、呼吸さえも途切れがちだとの説明だった。
「最後の手段をとらせて頂いたと説明した!」

ジュノにはあの時とは違う、とても、穏やかな表情をしているこのご婦人みて、心の中で、やはり、貴方は
『ママだったのですね!』 

と、もう、意識すらない、眠ったままで、身動きひとつ、出来ない、このご婦人の手に静かにそっと触れた。
少しずつ触れている感触は、幼かった頃の明るくて、美しい声で唄うあの歌声が、ジュノの体のすべてに次々と、あふれるようにつたわってきた。

母は韓国からの留学生で、父の勤めていた東大病院の近くの教会で、聖歌隊で歌い、指導的な立場だったような、ジュノは、幼かった頃の思い出がいくつもあった。

母の美しさを思いだしながら、今、眼の前に、あまりにも、変わり果てた母の姿が、表現の出来ないほどの、悲しみ、悔しさ、苦しみ、愛おしく、切なくて、ジュノの感情は、めちゃくちゃな、混乱と不思議なまでに、穏やかな感情になる瞬間があった。
「ジュノはただ、今、なすがまま、されるがままに力もない!」
すべてを受け入れて、母のそばにいた。

ふと、思い出したように、母の耳元で「ヒョンヌ」と誰かを呼ぶように言ってみた!
すると、気のせいか、すこし、母の表情が変わった気がした。
又、ジュノは母の耳に直接!私の唇が母の耳に触れる!
『ヒョンヌ 、ヒョンヌ』

と母に呼びかけるように言った。
ほとんど、母の顔色は、生気がなく、苦しさも力なく息をしていた。
ジュノの呼びかけで、微かに、母は微笑んだような気がした。

何度か、「ヒョンヌ!」と、母に呼びかけている内に、突然、思い出した!
『ヒョンヌとは、父の愛称、母だけが呼び』
『父への愛情表現の言葉だったのだ!』

母はその事を、たとえ、自分自身が壊れ、見失っても、忘れない父への愛情の深さだったのだろう。
その事に気づいたジュノは、ただ、言葉もなく
「涙が流れて、悲しかった、嬉しかった。」

その次の日まで、母は、ジュノの「ヒョンヌ」の言葉と共に、家族全員の名を母の耳元で、何度も、何度も、呼び続けていたが、
「母は微かに残された力でジュノの手を握ってくれた」

精一杯の力で、ジュノにつたえようとしたのでしょう。
わずかだか、ジュノには、母がすべてあの、美しかった母に戻ってくれてジュノの手を握り締めたのだと思えるのだった。

母は次の日まで眠り続けて、ジュノの今の両親とも言葉を交わす事もなく、お別れをしたが、そのすぐあとに、静かに、美しい表情のまま、父のもとへ、旅立って行った。

長い旅を終えて
安らぎの笑顔は
もう、美しき人の心だけに
これ以上は苦しまないで
痛さを私において行って
花の道は何処までも
美しく優しく心穏やかに
美しき人に語りかけた
愛の物語をきっと伝える
いつか又めぐり逢える願い

(彷徨う心)
残酷なまでに過ぎて行く、現実、ジュノは何処かで、自分の身に起きた事として、受け止めてはいるが、この数日の混乱する精神をどう切り抜けたのだろう。
母の葬儀は、今の両親がジュノを助けて、日本の葬儀社にお願いして、火葬にしたが、参列者のいない、寂しい式だった。

ジュノは、とても、憔悴しきった状態で、今の両親の指示に従って、ソウルへもどった。
養父母と共に母の遺骨を胸に、二年ぶりの韓国への帰国だった。
あのホテルでの、大杉さんとの会話も、両親の話も、ヒマラヤ杉医院での、実母の死と、ジュノは、まるで、スローモーションの映像が何度となく、無理やり見せられている、拷問のような辛さを感じて、又、説明の出来ない、怒りと悲しみや不安が襲い、時々、体中がまるでなにかに締め付けられているような、もがき、苦しめば、苦しむほど、見えない束縛に縛り付けられて、身動きの取れないような、感覚に襲われていた。

疲れきった体は、いつの間にか、浅い眠りに入っては、突然、底知れぬ闇の中で、私を何処かへ、排除しようとする手が、払いのけても、払いのけても、ジュノを掴もうとする!

強烈な香り、花のにおいがして、ジュノの手に触れる柔らかで、あたたかで、懐かしい何かに触れた瞬間に消えてしまう恐怖が幾度もジュノに襲い掛かって来る。
そんな浅い夢の中で、幼かった寛之の姿なのか、誰なのか、わからない大人の姿が、ジュノ自身の歪んだ姿で、現われて、パパの顔が血に染まって、ジュノを呼ぶ!
苦しさと恐怖で、身動きの出来ないジュノ!

叫ぶ声は遠すぎて、ジュノに届かない、ゆがんだ顔、あの顔は誰!あの、おそろしい!
『岩場が、父と共に、崩れ落ちて行く!』

あまりにも、恐ろしくて、うずくまる、ジュノ自身の白装束の姿で横たわる暗闇の中でひとり、ジュノ自身がいるような、誰なのか!

急ぎ足で歩く、誰かの姿を見ている私がいて、驚きと恐怖で、泣いている声がして、目覚める!、
何度となく、繰り返し同じ夢を、見ていた。
ソウルに戻ってから、何日が過ぎたのだろう・・・

両親は、ジュノを気遣いながらも、亡くなった、母の事!
とても、大切な話だから、聞いて欲しいの、と話しかける!

ジュノには、とても辛い事だけれど、聴いてほしいの!と、実の母の置かれていた立場を、話し始めた。

実の父と、今の父、大杉さんの三人は、東京大学で学友だった事、実の母と、今の母は幼馴染みで、姉妹のように、育った仲であった事!
母は、声楽を学ぶ為に、日本へ留学して、父と知り合い、結婚したが、父と母の両方の家の強い反対により、
『正式な結婚が出来なかった事!』

韓国での母の実家は、とても、信仰心のあつい、キリスト教徒で、表立って活動する政治家ではなかったが、多くの面で影響力のある実力者であったけれど、ベトナム戦争への韓国がアメリカに追随して参戦する事を徹底して、反対行動をした事で、一族が、すべての活動や生活の面など、当時は、政情がとても不安定で、ある部分では、「独裁的政治がまかり通ってしまう!」

そんな、当時の政府から『軟禁状態』で常に、ジュノの祖父母は監視されていた!
不自由で、難しい立場にいた人たちだった!

ジュノの実母も、韓国へ、帰国すれば、同じ事になっていたのだと、養父母は話した。
韓国の祖父母は、誰にも知らされずに、一時期は、投獄された時期もあり、今は、韓国でジュノの実母の親族のほとんどの方が行方がわからないか、亡くなっている事さえ、確かめる事が出来ない!

今、ジュノの実母の一族の墓所が、何処にあるのか、分からないし、捜す事も出来ない状況なので、ジュノの母の遺骨をどうする事が良いのか、考えてほしいと、話して、今の両親の心情もかなり、辛く、苦しいことが、分かってはいるつもりだが、ジュノは、長くアメリカや日本での生活で、理解出来ない思いと、ジュノは何もかもが嫌で、
聞きたくない、受入れる事が出来ない。
『何も、分かりたくない!』

そんな、気持ちが強いジュノは無気力だった。
母は、声楽の勉強と共に、日本でのもうひとつの、役割もあった。
むしろ、こちらの役割が母には、一番大切な事だったと!
今の両親が話した。

在日の方々の父と母(ジュノの祖父母)の韓国での反戦運動へ、深い理解をしてくださる、支援者の方々とのパイプ役でもあった実母の役割が重要で、その為に、事故のあと、韓国での政情が大きく変化し、韓国での祖父母や実母の立場が難しい、危険な状況になってしまい、すべての活動を監視されていた。

その為に、母は、すぐに、韓国へ帰国する事が出来なかったのかも知れないと、話した、両親の、なんとなく、言葉の裏に隠された事!

養父母の真っ正直な人間の生き方から、感じてしまう罪意識のような邪心を抱いてしまう。
今、ジュノには明かせない、隠された真実があるような思いが、ジュノは、無意識の中で感じていた。

養父母の提案で、ソウル郊外にある、公園墓地を母の眠る場所に決めて、韓国での母の葬儀を行なったが、やはり、参列者もなく、寂しいお葬式だった。
ジュノは眼に見えない魔物によって、「なぶりもの」にされているような錯覚さえ感じていた。

やがて、そんなわけもなく、心痛む感情や焦燥感さえ無くした!
そのあとのジュノはまるで、ただ、自室にこもり、ぼんやりと過ごして、凛とした、外科医のジュノの姿はどこを捜してもなく!

正気を無くした廃人のように、ただ、
「ベットに横たわり時が過ぎて行った!」

あの、明るく、エネルギッシュに活躍する姿など、何処をさがしてもない、眼もうつろで、ただ、ぼんやりと、もう、誰の言葉も聞こうとせず、誰も受入れられない、呼吸しているだけの肉体がそこにある、そんなの日々だった。

心配のあまり、アメリカでの仕事をすべて投げ打って、かけつけた、加奈子の姿さえ、疎ましく、ジュノの部屋に入る事さえ、拒み、加奈子を戸惑わせて、悲しませた。

そんな日々が続いたある日、今の母の弾くピアノの調べに、ジュノは、ただ、涙が流れて、まるで、幼児のように、声を上げて、泣いた。

だれも私を忘れて
置き去りにした孤独
すべてが虚しくて
この心が何も語らず
愛さえも拒む
人は何を必要とするのか
悪魔が私を支配する
ただうつろにすごす私をすてた
心を取り戻してください
美しき人の強さを信じて
ただ待っています


つづく












残酷な歳月 4 (小説)

2015-12-03 14:02:11 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
 (四)
(自らの命さえも)
すべての感情も感覚も麻痺して、ジュノは時の歩みさえ、止まってしまっているように、音のない、よどんだ空気の中で、辛うじて、呼吸していた。
締め切った部屋は、朝なのか、夕暮れの闇が訪れているのか、なにひとつ、考えることも、体に感じることの辛さをすべて、拒否している。
『自らの命さえも、拒否してしまいたい衝動にかられた。』

だがその事さえ、いつの間にか、ジュノの思考から消えていて、すべてが、虚しく、呼吸する事さえ辛く感じた。
ジュノは誰とも会わず、ただ、空虚さから抜け出せずにいる事がむしろ楽に思えた。

もう、どのくらいの時が過ぎていたのだろう、眼だけが時折何かを求めて動く、幻がジュノを誘うように!
だが、ジュノは気づかぬ、充溢した、全身のエネルギーと血が動き出している事を!
何も見えない、現実から逃避しても、生きた若き肉体はジュノの意志とは相反した力が宿る!

少しずつ、ジュノが持つ潜在能力が内面の細胞が動かし、虚しさを取り除く!
それは、長い時をかけて刻み続けた、ジュノの中にある
「見えざる、魂の叫び!」
そんな時に、感じた、心が揺れる思い!

母が奏でるピアノの調べに、いつの間にか、ジュノは、すこしずつ、すこしずつ、心が揺れ動いている自分に気づいた時、たとえようのない、悲しみが、まるで、津波が襲い掛かるように、ジュノを包んで、子供のように泣き叫ぶように、泣いた。
『ジュノ自身ではとめようのない、悲しみと怒りの感情が、襲う!』

母が静かに、ジュノのそばに来て、ジュノを、幼児を抱きしめるように、ただ静かに抱きしめながら、そして
「すこしでも、食べましょうと、幼児に話しかけるように」
用意していた、「あわ粥」をジュノの手を取り、わたした。

ジュノは、いつの頃からか、病み上がりには、あわ粥を好んで食べるようになっていた事を母は忘れずにいてくれたのだ。

もう、両親とは十八年も離れて暮らしていて、ジュノ自身もその事を忘れていた事なのに。

十歳の時のあの事故で、生死の境を彷徨い、意識が戻った時には、すでに、今の両親が、父と母として、ジュノのそばに接していたので、混乱の中で、ジュノはその事を受け入れなくてはならず、子供ながらも実の両親の事は、聞いてはいけない事なのだと、思うようになって行った。
父と母は、とても優しく
『時にはぎこちないほどの愛情表現を』

ジュノに注いで、その事がジュノは息苦しく感じながらも、精一杯の明るさと笑顔で、交わす事をいつ頃からか、うまくなっていった。

母は、ジュノがすこしでも、食事が出来た事が嬉しかったようだ。
長く、締め切ったこの部屋のよどんだ空気を入れ替えて、ジュノが少しでも現実を受入れる事が出来るように、今の母の細やかな心遣いが、自然な振る舞いとして、現われていた。

静かに、窓のカーテンをあけ、外の光を、ジュノに感じ取ってほしくて
「すこし、窓を開けてもいいわね!」

と言ったあと、「先ほどのピアノの曲、覚えていますか?」とたずねた。
確かに、ジュノには、いつの頃からか、ソウルのこの家にいる時に、良く聴いていた曲だ。

実の母が好んで弾いていた曲で、今の母も、演奏して聴かせてくれた曲だった。
「ショパンのノクターン」だった。
時には、ジュノは、今の母の弾く、この曲を聴くことが辛かくて、怒りさえ感じた事もある。
『偽りの愛と心で、この母の奏でる調べは、矛盾に満ちた音楽!』

なぜ、僕にあてつけるように弾くのだろうかと!
「胸が痛くなった事もある!」
だが、今、母は、ジュノが思ってもいなかったことをつげた。
「ジュノがいつか、本当のお母様にお会い出来た時の為に!」
「その時まで、忘れないでいてほしいから!」
辛い事かもしれないと、思いながらも、ジュノに聴いてほしくて、覚えていてほしくて、あの曲を弾いていたのだと、話した。
母は、今までの、気丈な姿ではなく、ただ泣き崩れるような、悲しみの姿だった。
この母の姿を見て、ジュノの中で、何かが、変わって行った気がした。

自分だけが、悲しくて、辛いのではないのだと、今の両親の、苦しみと、悲しみもまた、ジュノと同じように、いつかは、現実を受け止める事を覚悟して、私を実の子供として愛情を一心に注ぎ育てながらも「何故!」の疑問を突きつけられることを覚悟した!
父と母の、あのぎこちないほどの愛情表現で、ジュノへの親子としての絆をむすびたかった!

養父母の辛すぎるあの頃の姿を思い出した。

だが、ジュノは偽りの親子として、義務のように、必要な距離間を持ち、誰でもが理解できる理性ある息子としての役を演じて接していた自分の心の狭さを、今、改まって、ジュノは思い出していた、混乱する思いの中で!

あの、お互いのぎこちなさが、時としてジュノをたまらなく、いらだたせた、十代の頃の抑えようのない、反抗心が、理由もなく、養父母を傷つけた、心のひずみを、つねに感じては、ただ、この家を離れたくて、アメリカへの留学を一方的に決めて、事後承諾させてしまっても、ただ、両親は、寂しさを隠しながら
『いつも君を愛しているよ、と父は、ひと言!』
『私たちの大切な息子だと言うことを忘れないで、と涙顔の母』

ふたりの切ないほどの寂しさを隠して、言った、困った時には、いつでも、連絡するのよと一言伝えるだけの精一杯の愛情表現で!

自分たちの感情を、押し隠して、アメリカへ送り出してくれた。
あの日から十八年の歳月を、私は、両親に対して、本当の心を見せたことがあっただろうか・・・

どこかで、裏切り続けてはいなかっただろうか!
どこかで、疑問と不信をいだきながら、欺瞞に満ちた笑顔と明るさを、誰に対しても、私の大人としての振る舞いなのだと自分に言いきかせて、自分の本心を隠していたジュノの青春の日々。

偽りの愛情と矛盾
私の笑顔が大好きだと
抱きしめる母のぬくもり
ぎこちないまでに
幼さを演じた愛を得る為の
うすっぺらな仕草
これ以上のうそを演じる事など
美しき人の心が許さない
すべてのはじまりは
愛がほしくて


虚しさと不安は相変わらず、ジュノの心は暗い闇の中をはいずるような気持ちで、今、何をすればよいのか、時々、自分は何者なのかと、今までの自分をすべて否定するしかないとさえ、思う事もある。

心と体のバランスが益々悪い日々の中、ジュノは、日本へ帰る事になり、仕事に復帰する事になった。

両親は、この際、韓国に戻って、ソウルの病院で仕事をして欲しいと強く勧めてくれたが、今のジュノには、出来れば、両親とは別れて暮らしたかった。
確かに、今までの、疑問や不安だった事が、ある程度は、分かった事、両親のジュノに対する愛情の深さも、理解出来てはいても、もうこれ以上、養父母に!
ジュノ自身にも問いかける事など出来ない!
「誰にも、事情説明を求めてはいけない!」

とも思いながら、ジュノの中では、消す事の出来ない、もやもやとした不快感が、ジュノに語りかける
『本当の事を聞きたい!』
『真実を知りたい!』

真実のすべてを知らされてはいない気がして、その事を、考えた時、どうしても、もう一度、大杉さんに、会うことが必要だと、思うのだった。

弱りきった精神と体は、時として、ジュノのを襲う悪寒や、めまい、そして、食欲もなく、口にする食べ物の味など感じる余裕もない、体のすべてが、生きる事を拒否しているように、ジュノを苦しめた。
だが、外科医としてのジュノには、どんなに体が悲鳴をあげようとも、それは、ジュノに係わるすべての人々が、又、患者さんが、許してはくれない、現実が待っていた。

今の、ジュノの事情を知るものは、ほんの一部の人間だけだから、一旦、職場に戻れば、天才的な外科医として、病院はもちろん、外科医として、世間で、そして、医学界の中でも、知名度が高い為に、わざわざ、この、病院を、頼ってくる患者も多い。

ジュノの勤務日は、多くの予約で埋め尽くされていた。
この度の事では多くの関係者に迷惑のかかる事でもあった。
どんな事情があったにせよ、
「患者さんの病状は、待ってはくれない!」

いくつもの、問題を投げ打った日々のしわ寄せは、容赦なく、体調の悪いジュノを攻め立てるように、一瞬の気休めも許されないように、次々と、仕事を進めるしかなかった。
そんな数日が過ぎたある日、突然、ジュノの部屋に
『加奈子がいた!』


つづく











残酷な歳月 5 (小説)

2015-12-03 14:01:26 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)


残酷な歳月
 (五)
ジュノには、何の連絡もなく、日本に、帰国してきた事を告げる加奈子に、ジュノは戸惑いを感じて、少し、加奈子の傲慢さに、一瞬の煩わしさを感じた事が、ジュノ自ら、戸惑う!

ソウルでの、ジュノの、あまりにも、辛い姿を見た、加奈子は、心配のあまり、アメリカでの仕事をすべて、キャンセルしての、思い切った行動は、ジュノには、理解出来ないし、理解したくない事だ。

今のジュノは、今、誰とも
「言葉を交わしたくない!」
「ひとりで過ごしたい!」

自分のいる空間を、誰にも、犯されたくない!、
そんな思いが強いのだった。

だが、加奈子は、ジュノを救えるのは自分だけ!
助けられるのは私だけだと!

心のすれ違いに、気づこうともせずに、ジュノの心に、泥靴のまま、踏み込んで来る、加奈子の無神経さがジュノには耐え難い屈辱を感じてしまう。

加奈子のジュノに対する愛の深さが加奈子のいつもの、確かな理性を狂わせて、冷静な判断が出来ない、ジュノが一番嫌いな女性の姿をさらけ出してしまっていた。
ふたりの心が張り詰めすぎた、もろさから起きた事だった。

私には触れないでください
この体は痛すぎるのです
ほんのわずかに触れても
そこには大きなあざになって
いつまでも消えることがない
今は一人にさせてください
今は幸せなど求めない
美しき人の本当の姿
私は今、心があざだらけです
体中が傷だらけです

(すれ違う想い)
どちらかと言えば、加奈子はすこし、気が強い性格、思い込みも強い、けれど、今までのジュノであったなら、ジュノはそんな加奈子が好きだったし、どこか、我儘で、幼稚さを隠したジュノの性格が、加奈子に頼って甘えられる気持ちが、自分勝手だけれど、ジュノ自身では気づいてはいない、ジュノには多面性があるのだった。

そういった、複雑な人間性を持つ、ジュノを、おおらかな性格である加奈子だったからこそ、すべてを包み込む愛情で受入れてくれる、ジュノには、居心地の良い、都合の良い事で、好ましかった。

むしろ、心が寂しい時には、母のような接し方で、包み込んでしまう不思議な安らぎを覚えていた。

だが、今のジュノは、三十六年の生きざまを、消してしまいたいほど、
『自分自身も愛せないし!』

他人を思いやる、余裕などない、張り詰めた心が砕け散ってしまいそうだった。
昔、よくみた夢の中の世界を歩いているように、心もとない不安!

雪山をひとりで歩きだした。
「かみそりの刃のような、ナイフリッジ!」
一歩前へ進む事の怖さと、緊張感の中、一瞬!足を踏み外して!
自分が、谷底へ落ちて行く姿を、よく夢で見た。

あのどうしようもない、怖さがジュノの精神を脅かしているように感じて、加奈子がいる事で、益々、息苦しさをましていた。
もはや『何処にも、ジュノ自身の居場所がない!』

悪気のない、優しさのつもりで、話しかける、加奈子のひと言が、どうしても、ジュノの心のバランスを崩してしまう。
「ごめん!ひとりにさせてほしい!」

ジュノは、簡単なメモ書きを残して、ホテルに移り、一人で暮らして、スケジュールの詰まった、手術を、次々と、こなしていた。

ジュノはやはり、外科医としての才能は、確かなものだった、ジュノ自身が、どれほどの苦しみを抱えていても、いざ、
『メスを手にした瞬間から、外科医として』

別人になっていた、むしろ、ジュノは、意識的に、別人になろうとしていたのだろう。
メスを使う技のさえは、周りの者の驚きと称賛する言葉さえ、聞こえて来る。

ジュノ自身も、いつの間にか、メスを手にした瞬間から、すべての苦しみから解放されていることに気づく、それはまるで、自分ではない
『誰かに入れ替われるような、瞬間だった。』

ホテルと病院とを行き来するだけの生活に、いつしか、ジュノは満足しているような、安心感さえ、感じているジュノ!

ひとたび、何か、ジュノに吹く風が突風であったなら、簡単にへし折れそうなほど、危うい精神状態が続いて、時が過ぎて行ったジュノの冷たすぎる行動を、理解できぬまま、加奈子は、ロスに帰って行ったが、加奈子もまた、心の中で、ジュノへの思いと、理解されない事の苛立ちを、ヨセミテの岩に、ジュノへの想いをぶつけるように、ひとり、登り続けていた。

やがてそれは、ジュノの、新たな、苦しみを生む事でもあったが、今のジュノには、加奈子を思いやる気持ちも、その事を考える余裕さえなく、日々は、虚しいままに過ぎて行った。

ジュノは、自分の部屋に戻り、仕事だけに意識を持ち、数ヶ月が過ぎて、やっと、大杉さんと連絡がとれ、会うことになった。

だが、なぜか、東池袋のある場所が、待ち合わせの場として、大杉さんは、指定して来た。

聞き覚えのあるような気がしたが、はっきりとした記憶はなく、ジュノは、その場所に出向いて、驚いた、そこは、母が最後に住んでいた。
「古アパートだった!」

もう、とっくに、取り壊されているものと、思い、ジュノは、母の最期に過ごしていた場所
を尋ねてはいなかった。

この辺を、再開発する予定の会社が、突然の倒産で、取り壊し工事は、途中で打ち切られて、十部屋ほどあった、アパートは、まるで、誰かを恨みながら、うめき声を上げているように、もとの姿でわずかに残された、三部屋のドアや、窓ガラスが、周りの超高層マンションの巻き起こす風をすべて受け止めて、悲鳴のようにうねる、
「空気を引き裂くような、耳障りな音がひびく。」

この場所を、警備する人に、何がしかの物をあげて、大杉さんの計らいで、残された部屋を見せてもらうことになって、アパートの角部屋が母のいた部屋だと、大杉さんは言って、案内してくれた。

だが、大杉さんは、母が、ここにいた時には、会うことが出来なかったとも言った。

なぜ、居場所を、知っていながら、会えなかったのですかと、問いただしたい気持ちを、なぜか、ジュノは言葉をのみ込んで抑えた。

母のぬくもりさえ消えて
無機質に吹く風
大都会の見知らぬ人々
隣にいる貴方は
誰を愛しているのですか
この胸の中で
幼児の泣く声が切ない
聖母マリアのような母
美しき人はここに立ち
見えない姿を求める

(母の居た場所)
母の住んでいたという部屋は、四畳半ほどの、昔でいう、学生アパート、昔、流行の歌「神田川」に出てくるような、四畳半に押入れが部屋に飛び出している、いかにも狭い部屋、その押入れには何もなかった。

トイレも共同、もちろん風呂などは付いていない、かなり、古い建物で、二階の角部屋だった。

小さな手鍋が一つ入るかどうかの小さな流し台が付いていたが、なべや食器など、生活用品と言われる物が、なにひとつ無い!
あまりにも異質な感じがする!
『殺風景で寒々とした部屋だった!』
布団さえも無くて、小さな旅行カバンが一つ残されていた。

この残酷なほどの空間をしばらく、動こうともせずに見ていた。
ふたりは、何を話せばよいのか、気まずい空気の中、大杉さんは唐突に、自身の事を話した。

この二十六年の歳月を、私は定職にも付かずに、ただ、君たちの母と妹の樹里ちゃんのふたりの行方を、捜し続ける歳月だったと!

やっと、居場所がわかり、訪ねて行くと、もう、そこには、母と妹の姿はなく、どこかへ、消えていて、会うことが出来ない、そんな繰り返しの歳月だった。

「私にとって、今日までの二十六年が無駄な事だったのだろうか!」
そう言った大杉さんは、後は黙ったままだった。

ジュノは、あの突然、母だと分かった時に、ここを訪ねなかったのかを、後悔した。
これほど、何もない!
残されていない事が、信じたくない!
この部屋にあるすべての物を、大切に持ち帰った。

母が掛けたかどうかも分からない、どうしても、ジュノの中にある、気高くて、清楚だった!
「母の姿とは異質なピンクのカーテンもはずした。」

あまり、話したがらない、大杉さんを、問い詰めるように、母と妹は
「なぜ!姿を隠さなければ、いけなかったのか!」

気がつくと、大杉さんにジュノは詰め寄ってしまった、とても気まず
い、重い空気が流れていた。
ジュノと大杉さんは、とにかく、ここを早く出たい思いと、母の無念さを感じて、体が動けないように、重い!

大杉さんは、顔色も悪く、よろよろと、力なく、この部屋から去って行ったがジュノはもう引き止めておく事が出来なかった。

大杉さんは帰り際に、気力をふりしぼるように言った。
「とにかく、早く、君を助けたかった!」
「事故現場に行く事しか、考えられなかった!」

ジュノが大杉さんに聞きたいと思う事を何ひとつ話さずに、大杉さんは帰って行った。

しばらくは、ジュノも仕事のスケジュールが詰まっていて、どの手術もジュノの集中力を最高のものにしておかなくては行う事が出来ないほど難しい手術だった。

そのうちのひとりの患者は、山で、遭難して、奇跡的に生存して、助けられた人だ!
ソロクライマーとして、山の世界では、この人を知る者も多かったが、常にひとりでの行動であった事で、事故がおきたことを知られるのが、かなり遅く、救助されるのが
あと1日遅かったら、生きてはいなかっただろう!
「黒部、奥鐘谷」からの生還だった。

          つづく







残酷な歳月 6 (小説)

2015-12-03 14:00:27 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)


残酷な歳月
 (六)

ふつう、登山や岩のぼりをしない人間には理解出来ない、過酷過ぎる状況に自分の身を置く事を、ジュノは知りたくないが、その裏側ではなんとなく分かる気もする、不可解な気持ちがある!
長野県警からの依頼されたこの患者を診るたび!
否応なく、自分の家族の運命を変えてしまった、あの事故を思い出していた。

やはり、もう一度、大杉さんに会って、話を聞いておく事が、必要だとジュノは切実に感じた。

ジュノはソウルの養父から聞いていた、大杉さんの住まいを強引に訪ねた。
大杉さんの態度から、訪ねる許しを貰えるとは思えなかった!。

たとえ真実を話してくれなくても、もう一度、大杉さんの言葉であの事故のいきさつが聞きたかった。

大杉さんの住まいは、古い、ワンルームのマンションだった。
大杉さんもやはり、生活して行く為の最低限の物しかない!
狭く、あまりにも粗末な、大杉さんの生活!

ただ、寝起きしているだけの部屋、布団を丸めて奥に押しやって、ふたりが座る場所を作った。
たぶん、さっきまで、大杉さんは体調が悪く、寝ていたのだろう!

もう何日も、寝込んでいたようで、髪の毛が棒状によれている姿が、ジュノには、なぜか、哀れに思えた。
けれど、大杉さんは、覚悟していたように、話し始めた。
「あの時、夢中だった!」
「ふたりを何とか助けたくて!」

ジュノと伸一郎が落ちた場所へ急がなくてはと思い、お母さんと樹里ちゃんが、ショックのあまり、放心状態で動けない二人だったけれど、私は、一刻も早く、落ちた二人を助けに行く事が何よりも大事だった!
「お母さんと樹里ちゃんに、この場所から!」
「絶対に動かないように言いおいて!」

だれか、すぐに、助けを呼んでくるからと言いおいて、大杉さんは、岳沢の岳沢小屋へ向かったと、ジュノに話した。

あの事故の時は、夏の登山時期も過ぎていて、又、下山の時間も遅かったことで、大杉さんは、母と妹のふたりを連れての下山する事を諦めて、落ちた二人を助ける事だけを最優先に考えての行動だったのだ。
「母と妹を、あの場所に残して!」

動かずにいてくれたほうが、どちらも助けられる可能性があると、大杉さんは、とっさに判断した。
「大杉さんの、取った行動は正しかったと思う!」

ジュノにも、理解できる行動だが、なぜ、母と妹のその後の姿が消えてしまったのか!

又しても、ジュノには、あの時の、大杉さんの、父に詰め寄る姿が、鮮やかに、思い出された!。

実の父とこの大杉さんとは、郷里が、同じで、中学校、高校、大学までも同じ、父は医学を、大杉さんはドイツ文学を、東京大学で、学んだ、今のソウルの父は、東京大学の医学部で、父と同窓であり、あまり詳しく話されてはいないが、大杉さんの紹介で、父と母が、親しくなり、五人が一時期は、とても仲の良い友としての付き合いがあって、実の両親と、今の両親の二組のカップルが誕生した。

元々は、実の母は、大杉さんの知り合いであって、母の、もう一つの役割である、ソウルの祖父母の手助けの仕事に、大杉さんも、大きく関わりがあったのだと、ジュノは、はじめて知った事だった。

大杉さんの、どこか、ぎこちない、話の中で、いくつもの疑問が、新たに、出てきてしまったジュノは、父や母、そして、ソウルの両親の、関係の複雑さを、すぐに、理解することは出来ない!、
「いや、理解したくない!」
たかぶる感情と共にそんな思いがおきて来た。

いまだに、妹の行方が分からない事も、気がかりで、心配でたまらないが、大杉さんにも、妹の行方は、分らないのだと言った。

気がつけば、父の亡くなったという日、八月二十三日が、もうすぐ、だった!

ジュノは、昨年は、ただ、自分の心に起きた、不思議な感情から、せきたてられるような思いから穂高に登った。

あの事故以来、あまり、好んで登山や、岩登りをしなかったが、何処かで、穂高への思いはつねにあって、特に、加奈子との付き合いの中で、登山やロッククライミングをする事も時にはあったが、心から楽しいと思う事ではなかった。

昨年の穂高、滝谷を登ったあと、あまりにも、次々と、起きた出来事は、ジュノには、まるで、ながい夢の中の事のように、思えるときもある。
今年の父の命日に、吊尾根の、あの場所へ行こうと思った!

六十七歳の年齢とは思えないほど、年老いた、大杉さん、私の幼かった日、ほとんど毎日のように、我が家に来ていて、私と妹は、競い合うように、おんぶや、肩車をして、遊んでくれる、優しいおじさんであった。

物心がつくや付かずの頃から、つねに、そばにいた人だ!

そして、奥多摩や、丹沢へ家族と大杉さんはつねに一緒にハイキングや登山をした。
夏の時期は、たいていは、八ヶ岳の山々を、一緒に楽しんだ、初夏の頃の八ヶ岳、稜線を彩る「オヤマノエンドウ」の咲く、風景の美しさを教えてくれたのも、大杉さんだった!

忘れる事が出来ない、いくつもの大切な思い出が、今は、切なく、悲しみの思い出になってしまった。

時には、大杉さんとジュノ(寛之)のふたりだけで、山へ出かける事もあった、そんなときは、必ず、大杉さんは私を、肩車をするのが決まりのように、自然に、気がつくと、私は、大杉さんよりも高い世界を見ては自慢出来る幸せで、とても楽しく、嬉しい時間を大杉さんは私に与えてくれた。

あの頃の、おもかげなど、どこをさがしても、見る事が出来ないほど、大杉さんは、老いて、弱々しく病む人、今、目の前にいるのは、
「ただの老人!」
薄汚れた、顔色の悪い、一人の老人だった。

だが、どうしても、父の命日には、大杉さんもあの場所へ行って、私にあの時の事をはなしてほしいと思う。

新たなる思い
幼き日に見た姿を
ただ懐かしむのには
もう時間があまりにもながく
いくつもの思い出が
消えてしまった
あの太陽を背に
大きく描いてくれた日
美しき人の心が壊れて
もう時は戻らないのです

(父の命日)
八月に入り、ジュノは気がせいた!
まるで、何かに追い立てられるような、常に、ジュノは焦りを感じている不安感!
ジュノ自身の心の中の汚濁してしまったものを取り除きたいような気持ちの悪さがある!

ジュノ自身の自浄能力の無さが、変容した行為として現す事!
父の命日には、どうしても、大杉さんをあの事故現場、吊尾根で立ち会ってほしい、そうれば、すこしはジュノ自身が、このどうしようもない思いから、抜け出せるのではないかと考える。

あの、母がいた古アパートでの、気まずい雰囲気が、ふと、一瞬、ジュノの気持ちを躊躇させた。
そして、ジュノが、一方的に、強引に尋ねた、大杉さんの住まいでの姿は、たぶん病気だったようで、ジュノは気になってはいるが、それでも、父の命日には、大杉さんに、あの場所に立って欲しいと、意味もなく思ってしまう。

何ひとつ考えのまとまりがない、もやもやした気持ちと怖いような、緊張感が、なお、落ち着かない!

私のこうした状態から抜け出せるのは、大杉さんに、父の命日に、あの、場所!
父と私が、あの深い谷底へ落ちて行った場所!

吊尾根の岩場に、いったいどんな顔で立つ事が出来るのか!
ジュノの心の片すみに、「なんと、残酷な仕打ち!」をさせるのかと、囁く声がする。
だが、別の声もする!

「私たち家族に対して、何をしたのか、罪を犯したのなら、償いが必要なのだ!」
「あの母の無念の死を!」
「私が絶望から逃れる苦しみの日々を!」

ジュノは、大杉さんを恨みきれない、もどかしさと、あの優しかった大杉さんの笑顔を消す事が出来ない、反目する思いを持ち、心の闇を深くして行った。

そんな時、加奈子が、連絡もせずに、いきなり、ジュノの病院を訪ねてきた。
たった今、着いたばかりのようで、旅行支度のままだった。
いつもなら、ジュノの部屋に、直接行く、加奈子なのだったが、今のジュノは、仕事を優先に考えて、大学病院の近くのマンションに越したのだった。

もちろん、前の住まいはそのままにしていた、今のジュノには、自ら設けた、戒律を守る聖職者のような、自分では気づかない、異性に触れる事など、今は、極端に拒否したい気持ちだった。

あの部屋で、加奈子とジュノの濃密に過ごした後の空気さえ、今のジュノの心と体が受け入れることが出来なかった。

加奈子へは、越した事だけは知らせていたが、いつものように、加奈子へ渡す、スペアーキーは作ってはいなかった。

その事が、プライドの高い加奈子のショックは大きく、心に深い傷をつけていた。
すこし痩せていて、顔色も良くないのは、ジュノもすぐに分かって、心の中では気になってはいたが、ジュノは、なぜか、加奈子に優しい言葉をかける事が出来なかった。
「元気だった!」
「すこし、顔色が良くないけど!」
「疲れているようだけど!」
「大丈夫!」

こんな、簡単な言葉さえ、かけてやれない事が、ジュノの気持ちを暗くした。
父の命日に、加奈子は、ジュノと一緒に、事故現場へ、お参りさせて欲しいと、言った事でなお、不機嫌さがつのるジュノの我儘な思いがむき出しになった。

まだ、なんの、予定も立てられずにいる、ジュノは、その言葉を、加奈子から聞いたとき、不快で堪らなくなった。

その、すぐあとで、ジュノは、自分がまだ何も決められずにいる事への苛立ちなのだと、すぐに、反省してはみたが、素直に、加奈子の同行を喜べず、むしろ、気が重い事を、ジュノは、加奈子に、今の状況を話し、出来れば、ロスへ、帰ってほしいと、冷たすぎるほど、冷静な言葉で、伝えた。

何処で、ジュノと加奈子の、お互いを信じ、愛し合う心がすれ違ってしまったのだろうか。


                    つづく











残酷な歳月 7 (小説)

2015-12-03 13:59:45 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
 (七)

ジュノは、私生活では、元々、結婚願望はない人間だった!
加奈子も、又、以前は、同じく、結婚を望まず、お互いの仕事を優先して、一年に一度逢う事で、お互いの愛を確かめ、そして、愛し合える事の喜びを深く感じていたのだった。
その事では、ジュノの考えは今も変わってはいないはずだ!

ただ、ジュノ自身の気づかない、精神の疲れが、すべてのぬくもりを拒否してしまう、男であっても、女であっても!

突然、現われる、加奈子の行動にすこし、気が重いように、感じいる事を、ジュノは気づきはじめていた。

そんな感情を、押し隠して、ジュノは、加奈子に、日本滞在中は、ジュノの元の部屋で、一緒に過ごそうと、伝えて、追い返すように、話もろくにせずに、忙しく、仕事に戻って行った。

だが、その日から数日、ジュノは加奈子のいる部屋には戻らず、病院の近くの新しいマンションか、わざと病院の休憩室で休んだ、事実、手術のスケジュールは立て込んでいた。

そして、父の命日が近づいても、大杉さんからは同行するという連絡もないままだった!

夏の終わりにあの場所へ
再びの悲しみが
美しき人
都会の雑踏に安らぎはない
君は私を求めるけれど
今は誰も私に触れないで
この傷がうずき
消えることのない辛さ
どうかひとりにして
いつか又出逢える事を信じて


(思い出を奏でる)
いつ戻るのか、ただ待つしかない、加奈子には、あまりにも長い、残酷な時間が流れた。
加奈子はなにげなく、オーデオのスイッチを入れた!

ジュノが大すきな、アシュケナージの奏でる、
「ラフマニノフの「ピアノ協奏曲、第三番」がながれた。」

優しかったジュノの為に、以前、加奈子がプレゼントしたCDがセットされたままだった。
この部屋は、ジュノと加奈子が深い愛を交わした、あの頃と何も変わってはいない!、
加奈子は、なぜ、ジュノが、加奈子に冷たくするのか、理解出来ずに、悲しかった。

身に覚えのない罪を駆けられているような仕打ち!

この部屋は、ジュノから加奈子のすべてに愛のかたちを残してくれた、消す事の出来ない、ふたりで共につむいだ深い絆!
ラフマニノフの奏でる調べの強弱のような胸にせまる想い!

あの喜びはジュノから加奈子のすべてに刻まれた、ふたりが共に感じた、歓喜のしるしだったはずなのに!

ふたりで良く聴いた、ラフマニノフの調べも、加奈子の傍に、ジュノがいない今は、何の感動も無い、虚しい響き!、
加奈子はただ、涙が流れて、心が冷えて行く事を実感した。
『忙しいから、帰れない!ごめん!』

その一言で、切れる、ジュノの電話が、加奈子を益々、孤独にして行って、すこしずつ、決心させて行く、別れ!
数日、ジュノのぬくもりをさがし、この部屋で、待ち続けても、悲しみが増すばかりで辛い、加奈子の決心!
「ただ、貴方を待っていたの!」

その事を、たった一行、メモに残して、加奈子は、予定していた残りの日々を諦めて、ロスへ帰って行った。

残されていたのは、ジュノが好きな、シーフードのお料理が、冷蔵庫の中でラップがかかったまま、ここで、ジュノを待ち続けた、加奈子の姿をあらわすように、冷たくひえたまま、入っていた。

『あす、岳沢ヒュッテで待つ!』

何の前ぶれもなく、この一言を、ジュノの部屋の電話に留守電を残して、どうやら、大杉さんは、もう、出かけたようだった。

だが、確か、今、「岳沢ヒユッテは休業中のはずだ!」と、ジュノは独り言を言いながら、明日のあさの列車で、出かけようと、やっと、確かな決心がついた。
松本から、タクシーで、上高地へ入った。

やはり、八月も二十日が過ぎて、登山者は、少ないようだ、登山センターで、登山カードを出し、ひとりでジュノは、岳沢に向けて歩き出した。
すこし歩いた所で
「ジュノ!寛之!」と呼ぶ、大杉さんの声がした。

やはり、岳沢ヒュッテは、休業中だった、きのう、上高地に着いた、大杉さんは、上高地の宿に泊まり、ジュノが着くのを待っていたのだ。

岳沢ヒュッテが営業していない事は、あす一日で、あの事故の場所まで、ピストンすることは、ジュノひとりでもきびしい!

ましてや、今の、大杉さんの姿を見ていたら、とても難しい事は、すぐに分かったが、ジュノは素直な気持ちで、ここ、上高地で待っていて下さいとは言えない、大杉さんに対しての不信感が深くあった。
そんな時、ひとりの老ガイドを、大杉さんは、ジュノに紹介した。

今夜は、ここで泊まり、明日の朝早くに発ち、事故のあった場所まで、この人が案内してくれるからと言った、大杉さんは、この前、会った時よりも、かなり体調が悪い事は、ジュノにも分かったが、どうしても、素直な気持ちで、「大丈夫ですか」と、優しい言葉をかけて上げられない、いこじさが、ジュノ自身の気分を重くした。

翌朝、まだ、夜明け前の三時に、宿を発ち、岳沢に向かって歩き出したが、苦しそうに喘ぎながら歩く、大杉さんの様子を見ていて、とても、吊尾根の事故現場まで行くのは、無理な事だと改めて思うのだったが、素直に言葉に出来なかった。

なぜ、私は、大杉さんを、あの場所に立たせたいのだろうと、自問自答しながら、歩いている事に気づいた。

大杉さんには佐高さんが(ガイド)付いている事もあり、先が長いのだからと、ジュノは、ひとりで、岳沢を、重太郎新道を登り、十歳のあの時以来、はじめて、自分が落ちて行った場所をさがしながら、歩いたが!

記憶という物は、あいまいなもので、ましてや、逆の方向から、あの場所をさがすことは、そう簡単なことではなかった。

十歳のあの時から、すべての運命を変えてしまった事の、恐ろしさが、ジュノの足が掴むような全身を緊張感に襲われて、ジュノの体は自分の意志が伝わらない硬直したような感覚と、全身から血が引いて行くような怖さを感じた。

夜明け前の薄闇
私を通り過ぎて行った
いくつもの疑問
いくつもの不安
いま夜明けと共に
本当の私をつれてくる
美しき人は震える心で
この瞬間を待った
もう悲しみもない
苦痛も無い私になりたくて


(吊尾根、忌まわしい場所)
二十六年、いや、二十七年の歳月が過ぎようとしている、ジュノには、今の両親の愛情に包まれた日々ではあったが、ぎこちないほどの両親の気遣いが、ジュノをいらだたせる事も多かった。

十歳までの寛之としての自分をどうすれば、良いのかわからずに、自分の心の奥に閉じ込めておいても、突然、ジュノとしての自分を受け入れたくない感情で、心が爆発しそうになる。

十代の頃は、何もかもが信じられない、自分が誰なのかと、思い悩んだ日々が恨めしかった。

ソウルの母の、細やかな心遣いは、そんなジュノの苦しみや激しい怒りも、少しずつ静まり、今、おかれている自分の立場を気づかせてくれた。

「重太郎新道の細い岩道を歩く」苦しさの中で、何度となく、現われる。

『あの忌まわしい姿!』

ジュノにはどうしても、大杉さんが、父を突き落としたとしか、見えなかったあの時!!


つづく







残酷な歳月 8 (小説)

2015-12-03 13:58:48 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
(八)

だが、その瞬間に、ジュノ自身も父の後を追うように、あの暗い谷へ、一緒に落ちて行ったのだと、おぼろげな記憶が、まるで、スローモーションの映像のように現れて!
又、早回しする、恐ろしい映像、今、目の前に、いくつもの大きな手が揺れる!

又、何か、別の映画のワンシーンのように、二十七年間のジュノの人生の、一瞬、一瞬が、幻だったように、現われては、ジュノを、混乱させた。

喘ぎながら、いつの間にか、たどり着いていたジュノの前に現れた、紀美子平の傾斜のきつい、斜めに切り込まれた細い岩尾根は、まるでジュノの体を切る刻む刃物のように、恐ろしげな、鈍い光が射し、岩からしみ出した湿り気のある、滑りやすい岩道は、踏み出す一歩さえ、恐々とジュノの気力を奪い取った。

混乱するジュノを見透かすように、一瞬、心が散漫になった思いから足を滑らせて、体の半分が岩場から空中に飛び出して、冷たい風に舞っていた。

とっさの無意識の行動で、手に触れた岩角に全身の力を振り絞り、渾身の力でしがみつき、ジュノは運よく奈落の谷へ落ちずに助かった。

しばらく、しゃがみこんだまま動けないほど、ジュノの体のすべての
「エネルギーや気力が抜けて行ってしまったようだ!」

『大丈夫だよ!寛之には、えらいお坊さんが、ついているからね~』
何処からか、大杉さんの声が聞えた!
ジュノは、まわりを見渡しても、誰もいなかった。
「ふと、思い出した!」
あの事故にあう、すこし前に、大杉さんとふたりで、谷川岳の西黒尾根を歩いている時に、私は、楽しくて、はしゃぎすぎて、今回のように岩尾根のナイフリッチで足を滑らせて、四~五mほど岩場から滑落した、その時もちょっとしたテラスに必死で乗り移り、止ったことで私は助かり、谷底には落ちなくてすんだ。

ショックのあまり、息も出来ないほどの私を助けあげて、大杉さんは、優しく言った言葉! 『大丈夫なのだよ!』
『寛之には、偉いお坊さんがいつも、付いていて下さる!』
『ジュノをいつも、守って下さるからね!』

だから、今も、ちゃんと、助かっただろう、と言った、あの時を、ぼんやりとした、記憶で、思い出していた。

あの谷川岳から帰って、その日の出来事を、母に話した時・・・
あの母の一言は
『貴方には、偉大な聖人が、いつも、寛之を守って下さっているの』

だから、ママは心配はしないのよ!
『寛之は、大切なパパとママの子供だけれど!』
『神様から、お預かりしている子供でもあるの!』

二十七年前の出来事と今、目の前にある景色が、ジュノの中で、ごちゃ混ぜになっているように、しばらくは、自らを見失い、やっと、這うようにして、すこし動き、又、よろけるように、這うように、歩き出した。
気がつくと、前穂高と吊尾根の分岐まで来ていた。

ひどく体が重いような、力なく、倒れ込むように、しゃがみこんだ時、ジュノの眼から光が消えて行くように、闇の中で、ジュノはただひとりになった。
「なにも聴こえず、意識が薄れて行く」

ジュノは必死で、何かを掴もうとしているが、手を伸ばす方には何もない!
「ただ、赤ちゃんの鳴き声する!」

母のような、父のような、誰かが、呼んでいるのか、泣いている姿は、どしゃ降りの血色に染まった雨!洪水の中でもがく!
誰かをよぶ声が遠くから、幾度となく聴こえていたように、ジュノは意識の中で、感じていた。 「寛之さん!、ジュノさん!、寛之さん!」

寒くて、震えながら、心が彷徨い歩いていたジュノは、何か分からない、人のぬくもりを感じて、すがりつくように!
「その人肌のぬくもりが嬉しかった」

その、暖かいものが、ジュノの名前を呼んでいる!
「ジュノ!寛之!ジュノ!寛之!と」
「全身の力で、呼び声に、答えようとして!」

見えぬ目を見開き、暗闇から、かすかに光がさし、体が暖かさを感じる方へ、すこし、体を動かそうと静かに眼を開けた。
ジュノの眼の前に、あの谷川で、助けてくれた。
『若い日の大杉さんがいた!』
ジュノは、なぜか、そう思えたのだった。

だが、今、眼の前にいる人!
その人は、あの、老ガイドの佐高さんだった。

陽に焼けて浅黒い厳つい顔
霧深い山中で私をみつめる
つよい瞳がいくつもの
魂を助けて
長い年月をもの静かに
あの嶺を背負い
美しき人を導き
美しき人をなぐさめ
山の偉大さを語り
真実を語り伝える山男

闇の中を彷徨い歩いていたジュノ!
冷えきった肉体は動けない、氷の中に埋もれたまま、無限の苦痛、その闇を柔らかな陽射しがジュノの肉体を暖めてくれるように、見えない閉ざされた扉をこじ開けてくれる!

何か偉大な力にすがるような思いで、静かに眼をあけた。
「寛之さん、ジュノ!」と呼ぶ声が、幼児のままのジュノを呼ぶ、ママの声、そして優しい母の声が聴こえたようにジュノは思った。

いつの間にか、意識をなくしていたようで、目の前にいるのは、あの老ガイドの佐高さんだった。
大杉さんは、とても具合が悪く、歩ける状態ではないので、岳沢小屋のテラスで、休んで貰って、私だけが来ましたと、言って、ジュノを抱き起こしていた。

熱い紅茶をジュノに手渡して、一口でも飲んで下さいと、強引なまでにすすめた、
ジュノの意識をはっきりさせる為に、佐高さんはジュノの手をとり、口もとに運んで、呑むように促しながら、言葉で確認するようにジュノの肩を叩いた。

『あまり時間がないので、出来るだけ、急ぎましょう!』
『今の時期は、日暮れが早く、陽のあるうちに、下山したいので!』
『ジュノさんも、ここからは素早く行動してください!』
と、ガイドの佐高さんは、ジュノに改めて言った。

どのくらいの時間、ジュノはここに、倒れこんでいたのか、霧に包まれているこの場所を時々さす陽ざしの暖かさが冷えた体に力を与えて、頼りない感情を取り戻しながら、ジュノは、今、自分がいる場所を確認した。

冷静さを取り戻したジュノに、ガイドの佐高さんは、ここから、事故のあった場所まではすぐですからと言って!
『大杉さんから、私が最初に、事故があった事!』
『貴方たちが吊尾根で滑落した事を、知らされた!』

二十七年前、私がお父上とあんたが落ちた場所へ行ったんだよ!

助けを呼んで欲しいと、言われた時は、すでに、真夜中だったし、あの時は、岳沢の小屋に、私ひとりしかいなくて、どうする事も出来ないので、とにかく、警察へ無線で連絡してから、私だけで、大杉さんから伝えられた場所へ急いだよ!

私が向かっている、途中で、大杉さんが、あんたを背負って、下りて来たんだよ!
『この子だけは、助かる!』
『どうしても、助けなくては!』 
と言ってね・・・
私の話す事など、何も聞こうともせずに、ただ、がむしゃらに急ぎ足で、山を下りて行ったんだ。

そして私は、とにかく、お父上を、助けなくてはと、思い、駆けつけて、お父上を発見した時には、もう、亡くなられていて・・・
ながい間、ジュノが、追い求めていた!
『疑問!不信感!混乱する思い!』

の答えの一つだというのに、なぜか、他人事!
絵空事のように、何一つ、ジュノの中の感情が動こうとはしない。

前穂高の分岐から、吊尾根をすこし歩いた場所、大岩が切れ込んだ、岩状をトラバースする、細い登山道で、ガイドの佐高さんは、
『ここが、事故のあった、場所です』 と言った。

足元が不安定で、上からは落石がつねにありそうな、とても、立ち止まって、話が出来る場所ではなかった。

ガイドの佐高さんも、普通はこんな所は、誰でも急いで歩き、
『立ち止まらない、場所なんだがね~』

「よほどの事があったのか!」
それに、確か、あの年は、夏のはじめに、かなり大きな地震があって、この辺の岩場が、だいぶ、不安定になっていたはずだしと、独り言のように、説明して、ジュノの気持ちを、落ち着かせようとの、気遣いなのだろう!

あまり長く、この場所にいられないので、落石を気にしながら、さっき来た登山道を、戻ろうとした時、奥穂高の方から、見知らぬ誰かが、歩いてくるのが見えた。
『一人の若い男性が足音もさせずに近づいてきた。』

前穂高の分岐まで、何も話さず、三人は一緒に歩いた。
前穂の分岐点で、もう一度、休んでから、下りましょうと、佐高さんが言い、ジュノのすぐ後ろを歩いていた男性も、一緒に、腰を下ろして、休んだ。
『ジュノは、なぜか、この青年がとても気になった。』


つづく



残酷な歳月 9 (小説)

2015-12-03 13:57:57 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)
残酷な歳月
 (九)

今頃の時期、たった一人で、登山するくらいだから、よほど、山がすきなのだろうと、思ったりして、なんとなく、言葉を交わした。
岡山から来たそうで、何度か、このコースを歩いているとも話した。

ジュノは、この青年の優しい美しさに、すこし、心が騒ぎ、鼓動がなぜか、不規則に早まるのをおぼえた。
『ドキ!とするような?不思議な、親しみを感じた。』

なんでも、昔、家族で、穂高を登山した、思い出があり、今は、両親もいないので、ある意味、
『慰霊登山をしているのかも知れないと言って!』
寂しげな笑顔が、ジュノには、とても気になる姿だった!

この青年は、先を急ぐからと言って、足早におりて行ったが、ジュノはひどく疲れていた。
日暮れが早い事を気にしながらも、体が動いてくれない!

焦る気持ちとは裏腹に、中々、歩き出せず、やっと、体を上げて、ながい、急な足場の悪い、下山道は、ジュノの足元をふらつかせて、何度も、ガイドの佐高さんに、注意を受けた。

岳沢小屋の見える安全圏にたどり着いた時は、もう陽がとっぷりと落ちて、闇が足元を隠していた、何がこの心をせきたてたのだろうか、あの場所で、ジュノは何を見て、何を感じたのか、ジュノの心を晴やかにはしてくれる事などのない、虚しさとひどく疲れた体を、自ら拷問させただけの惨めさが、ジュノの心に深い傷を又ひとつ増やしていた。

闇の向こうに見た世界
穏やかな思いを求めたのに
残酷なまでの現実
見えない吹雪が
絶え間の無い苦痛
体が凍りつく悲しみ
美しき人に今何が
新たなる運命
新たなる出会い
いくつもの苦しみは
もう喜びに変わるのだろうか
闇を照らすひとすじの光

(ただ虚しくて)
ながい一日が、まだ、終わってはいない!
だが、ジュノの体も感情も、ひどく疲れていた、事故の現場だと、案内された場所は、ジュノが二十七年近い歳月を恐怖と不信感を深くしていた、情景とは全くちがう、ジュノの中にある、記憶の場所はいったい、どこだったのだろう。

少しずつ、話される、ガイドの佐高さんの真実だと言う、二十七年前、あの事故の時は、佐高さんが、岳沢小屋のアルバイト従業員だった頃の事で、とまり客もなく、ひとりで小屋の仕事を切り上げて、寝ようとしていたところへ、大杉さんが、飛び込んで来て!
「滑落事故が起きた事!」

救援を至急頼みたい事を、ひどく焦っている中でも、冷静に、事故の場所をつたえ、走るように、
「ふたりが落ちた、場所へ行く!」

そう、言って、大杉さんは出て行ったのだとジュノに話した。
佐高さんは警察や救援の為の人員を手配して、お父上のいる場所へ向かう途中で、ジュノ(寛之)を背負い、急ぎ足で、下りてくる大杉さんに出会ったのだとも話した。

大杉さんは、とにかく、「君を」助けたい!」その事だけを、考えていたようで、私との話す時間すら、惜しい、そんなふうに、言って、上高地に向けて下りて行ったのだと、あの時のようすを話してくれた。

佐高さんが、父を発見できた時には、もう、まわりが薄明るくなり夜明けだった、だが、お父上は、すでに、亡くなられていて、佐高さん一人では、どうする事も出来ず、一旦、小屋へ戻り、警察と救援隊の着くのを待って、私は、大杉さんから、頼まれていた!
「お母上と妹さん」

を助ける為に、事故の起きた場所へ向かったが、事故現場には、誰もいなくて、助ける事が出来なかったのだと話した。

あの時、かなり、大掛かりな、捜索をしたけれど、母と妹は、発見出来なかった、事故現場が、落石など、危険だった事や、そのあと、何日も雨や雪が降り、天候が悪く、二重遭難の危険もあった事で、捜索は、打ち切られたのだと話した。

佐高さんは、そのあとも、何度か、個人的に、捜してくれたそうだが、何の手がかりもつかめなかったと、ジュノに話した。

あの事故のあと、大杉さんは、長い間、警察に、事情聴取を受けて、一時期は、父と私の、殺人の容疑をかけられ、連日、マスコミが大騒ぎをした、だか、殺人ではない事が認められて、大杉さんは、解放されたのだとも、話してくれた。

そのような話を、佐高さんが、話している中でも、大杉さんは、横になったままで、体の具合がとても悪く、夜道を歩く事が難しいからと、佐高さんは、今夜は、この小屋に泊まりましょうと言って、今は、ここ、岳沢小屋は、休業中だが、大杉さんの為に、一部屋をあけてくれていたので、そのまま、夜明けを待った。

あの事故の時、連日のマスコミ報道は、当然、助かった寛之(ジュノ)をも、追いかけて、寛之が入院していた病院へも、押しかけ、注目の的になっていた!

そんなある日、突然、寛之の姿が、病院から消えて、いなくなったのだと、佐高さんは、話して、あとで、知ったことだが、大杉さんと、ソウルの今の両親の計らいで、寛之(ジュノ)が、静かに、治療が出来る場所へ、移された事を知ったとも、話した。

一部の報道では、寛之も、亡くなったと報道されたのだと話した。
その頃の事は、ジュノには、何も分からない、微かな記憶の中で、ママなのか、母なのか、誰なのか、
『ジュノ、ジュノ、と、呼ぶ声がかすかに聴こえていた!』

丁度その頃、十年ぶりに、韓国に帰国した。
今の両親の事が、ソウルの新聞の片隅に小さく、目立たない記事が載っていた。
『国の宝、神の宿る手を持つ、外科医、イ教授、帰国!』と!

その同じ頃、ソウルのある病院の特別室には、ただ、眠りつづける、
十歳の男の子が、今、眼ざめの苦しみに耐えていた。

あの日あの時私は
何を見たのですか
闇の中を走る山靴の音
あの山靴の音は運命
とどまる事の出来ない
真っ赤に染まる世界を
時空をこえて
美しき人は受け止めた
運命の悪戯
真実を隠した愛にそまる


(目覚めぬ夢)
ジュノは浅い眠りの中で何度も夢を見た、一歩踏み出すと、一瞬に、落ちていく、暗闇の底知れぬ深い谷へ!

幻の中で冷たい氷の壁が幾重にも続く、ジュノの全身が寒さで凍りつき束縛されて、身動きの出来ない苦しみにもがく!

氷柱が絶え間なく、崩れ落ちる中を逃げ惑う誰かの姿に、大声で
叫ぶが、届かない悲しみ!
そして又、別の夢を見る!
うしろに誰かがいて、ジュノに叫ぶ!
「どこかにつかまれ~、早く、つかまるんだ~」

あの声は父!、それとも!大杉さん!なのか?、夢の中で助けてと叫びながら、泣きながら、目覚める!

全身の痛みが、ジュノ(寛之)を混乱させて、十歳の目覚めは、見覚えのない場所、誰なのか分からない女性が、母のふりをして、優しさを、大げさなまでに、ジュノに微笑み、戸惑わせた。

体中がぐるぐる巻きにされた、痛みが、絶え間なくつづいて、やがて、ふかい眠りにつき、また夢をみる。

ピアノの調べと、共に、美しい声でうたう、母の姿、野山をかけて、さわやかな風を感じて、振り向くと、やさしい笑顔の
『大杉さんがゆっくりと歩いてくる!』


つづく







残酷な歳月 10 (小説)

2015-12-03 13:56:58 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
 (十)

私を抱きかかえて、高く、高く、天に向けて、放り出すような、瞬間で、私は夢の中で、泣きながら、消えて行くすべての姿を追う、ジュノはやがて、私は、誰なのかさえ、疑うほど、混乱して、目覚める。

やがて、体の回復と共に、ジュノに精神的な落ちつきをもたらせ、今、自分が置かれている立場を、持ち前の賢さで、自覚して、寛之である事を、
『自ら封印して』
今、目の前にいる、ふたりを、両親だと思うように、自分に言い聞かせた。

そんなある日、何気なく、聴いてしまった噂話で、ジュノは、今の父が、ジュノの主治医で、とても、助からないと、誰もが思っていた、
『私に難しい手術を施して、奇跡的に助けた!』
『誰もが不可能と言った、脳の損傷を修復!』

今の父は「神のやどる手」と、称賛されている、脳外科の名医だという事を知った!

しかも、驚くことに、ジュノに対して、施した手術は、ある意味、今の父の、これまでの研究のすべてを注いで、すばらしい成果を得た事を知った。

ジュノは三十七歳の今でも、あの衝撃的な事実を知った時の気持ちを忘れられない!
これからも、「あのような、凄い手術を」出来る外科医は出てこないだろう!

子供だった私は、あの人が、父で、私を助ける為の冒険的な、大手術をしてくれた事を、喜ぶべきなのか?、だが、あの時は、不安や疑惑のほうが大きかった。

『なぜ!私はここにいるのか?、私は誰なのか?、』
『意識の中にある自分は、何処に行ってしまったのか!』
『幸せな日々、私は日本で生まれた、日本人のはずだ!』
『私の家族は何処に消えてしまったのだろう?』
『私を優しく、愛してくれた人たちは、何処に行ったのか?』

そんな疑問と恐怖、不安と不信、そんな思いが繰り返し、浮かんで来る事を、ジュノと寛之の中でせめぎあいながら、少しずつ、心と精神を入れ替えて、ジュノが目覚める。

ソウルでの生活は、今の両親との、どこか、かみ合わない、親子関係のぎこちなさを、お互い隠すように、又、実の両親、妹の事、あの事故までの、ジュノ(寛之)の生きてきた日常を、話す事は、暗黙のうちに、タブーなのだと、子供心に思い、一言の、問いも、又、大杉さんは、なぜ、ここには、来ないのかを、深い疑念を抱きながらも、二十六年が過ぎて行った。

そして、昨年の夏の終わり、何かに、導かれるような思いから、加奈子を誘って、穂高の滝谷を登ってからの、この一年は、ジュノの生きる歯車がまるで、狂ってしまったように、二十六年の歳月を、誰もがひた隠しにして来た事が、もう、苦しさのマグマを抑える事が出来なくなったように狂い、動き出した。

岳沢小屋での一夜は、ジュノにとって、夢と現実の中を彷徨いながら、いい知れぬ,もののけか、悪魔のささやきのように、闇の中で描く、絵を観る思いだった。

その恐怖感は、暗闇の中で、見る壁のしみさえも、私の疲れた精神をなぶりものにして、もてあそぶ、魔物の揺れ動く姿が見えた気がする。

昨夜から一言も、話すことなく、押し黙って、寝ている大杉さんを、佐高さんが、責任を持って、お送りいたしますとの、言葉に、頼って、ジュノは、上高地へ急ぎ下山した。

ここをすこしでも早く、離れたい、背中から襲う、見えない恐怖、そんな思いが強かった。

山小屋の一夜
闇は壁のシミさえも
悪魔の囁き
吹く風が恐怖を招く
夜明けが待ちどうしくて
偽りの夜明けを見る
美しき人の歪んだ記憶
それは貴女が愛おしくて
去って行った君を思う
美しき人の後悔

理不尽な運命に、細く、もろい、精神力になってしまった、この一年の過酷なまでのジュノへの仕打ちは、悪魔の存在を思うほど、ジュノは痛めつけられて、自分を愛し、心から求めてくる者の存在を、すべて拒否した。
どんなに心を通わせ、愛を交わした人でさえ、この体に触れられる事が恐怖に感じた
自滅して行く感情を、辛うじて、冷静さを保つ事が出来るのは、外科医としての誇りと意識だけがジュノを生きさせていた。

ジュノの中の、あの事故の記憶はなぜ、現実と違いすぎるのか、幼かった頃の父母、妹の、姿さえ、ジュノの中の曖昧さが、増幅して、苦しめてくる。

心のやすらぎを求めてきたはずの、父の命日に、あの穂高の吊尾根も、ジュノには、混乱を大きくするだけの辛い場所で、残酷なだけの場所だった。

いつの間にか、ふりだした雨にうたれて、山道を急ぎ足で、上高地へ向かう、たったひとりのジュノに、説明の出来ない感情と誰かの存在を感じて、何度も、悪寒と恐怖感を振り払いながら、重い体で気ばかりがあせる。

実の母の葬儀のあと、前にもまして、ソウルの両親との、距離感、気まずさがましてしまったと、ジュノは勝手に思ってしまい、連絡も、遠慮がちになる。
『ジュノは、孤独だった!』
『誰ひとり、信じられる人がいない、寂しさと孤独!』

見渡せば、ジュノのまわりには誰もいなかった。
孤独はジュノの人格さえ変えてしまうように、ひどく、無口になっていた。
誰からも、忘れられた存在のように、ジュノ自身が思ってしまう。

だが、ジュノは、以前にもして、多くの仕事をこなし、外科医としての腕の冴えは、とぎすまされて行った。
『それは、まるで、別人のジュノの存在を示すように!』

日常の苦しみの姿を隠した、ジュノの姿!
それはまるで、すべての事を、ジュノの中から消してしまいたい!
怒りが医師としての『魂の叫びだった』

二十七年の押し隠していた、悔恨の怒りをあらわすように。
何も、あきらかにされてはいない現実が、ジュノを苦しめて行く耐え難い孤独にたえる日々が続き、過ぎて行く時間は、かわりなく過ぎて行った。

しばらく、音信不通だった、アメリカに住む、加奈子とジュノの共通の友人である、言わば、アメリカ時代の悪友でもあるマークから、突然の連絡を受けた。

今の、ジュノにとっては加奈子の近況を聞く事は、気分の好いものではない、聞きたくないこと!
たとえどんな好意的な話でも、不快で疑念に満ちた言葉に、ジュノには聞えてしまう。
加奈子に新しい恋人、ロイの出現!

ジュノとも、アメリカ時代は、加奈子は、ロッククライミングに行きたがったが、ジュノは、あの事故以来、出来れば、登山や岩登りは避けたい事!

けれど、加奈子が大好きな岩場、ヨセミテ、エルキャピタンへ、ジュノは加奈子の希望を叶えたいと思う時に、何度か、ふたりで登った。
その同じ場所に通う姿!
ふたりの不自然な交際が気になると伝えて来た。

君は今何に怒り
私を許さないで
気に添わぬ恋に
自らを隠してはしゃぐ
孤独だけが包む
美しき人の懺悔も
届かない心の叫び
美しき人の寂しさに
君はあの時から
心のすべてを残して

(心療内科医として)
ジュノの心の痛みや精神の混乱がどうであれ、日常は否応なく過ぎて行く、私の内部が混乱と不安に満ちていても、その事が、かえって、ジュノには少しだけ楽なように思える。

岳沢から帰っても、大杉さんからは、何の連絡もないまま、幾日もすぎて、ジュノの中で、どこか、いらだつ思いと執拗に迫る不安感が、定まらない心が、まるで誰かに追い回されているような感覚で、時には、パニック状態になる事もあるが、それとて、ジュノは外科医としての揺ぎない、芸術的とまで言われる仕事には、支障をきたすことはなかった。

しいて言えば、心療内科医としてのジュノは、むしろ、患者さんと向き合い、交わす言葉の中で、ジュノ自身が
『ふと、心が楽になる瞬間がある。』

ある女性のカウンセリングでの表情が、とても、
『印象的で、ジュノとの共通点があるように感じた。』

なぜか、そんな感情になる事で、親しみを感じるのだろうか!


      つづく



残酷な歳月 11 (小説)

2015-12-03 13:56:09 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)


残酷な歳月
 (十一)

知らず、知らずに、ジュノはこのご婦人と自分の心情を重ね合わせていたのかもしれない!
もう、十数年、うつの病に苦しみながらも、前向きに生きる事に、一生懸命に頑張るのだが、時として、あまりにも、美しい物に、憧れが強すぎて、自分の精神状態が壊れてしまう事の怖さに怯え、又、極端に嫌いな人間には、近づく事さえ出来ず、その事で心が乱れて言葉さえ、失い、忘れてしまう!

簡単な、挨拶の言葉さえ、確信が持てない不安が、極端に他人を避けて暮らす日常がつづき、だが、心のどこかで、家族に迷惑をかけている事の負担や苦しさに耐えかねて、自分を見失う悲しみ!

やがて、生きる事さえ虚しく思えて、死に場所を捜す!
だが、自ら命を絶つことの勇気がない事に混乱して!
このような状態の繰り返しが、ある、症状になって、現われる!

この、ご婦人の何歳ごろの事か分からないが、幼児体験としてある、夢なのか、現実の事なのか!

ジュノの前で、その話が始まると、決まって、幼児のように泣きじゃくりながら、この女性の訴える言葉だ!

「かずちゃんが死んじゃう!」
「かずちゃんがいなくなっちゃう!」
「かずちゃんが泣いてる!」

そう、言いながら、もう、五十歳を過ぎた女性が時には号泣して、ジュノに訴えるのだ、まるで、哀願するように!

「かずちゃんは、六年生の遠足の日に出かけたまま!」
「いなくなっちゃったでしょう!」

みんなで一生懸命に、かずちゃんを、さがして、さがして、やっと、見つけたら、お城の崖下にいたんだよね。
もう、私に笑いかけて、悪戯っぽく、私の背中におんぶする真似をして、甘えて来る事が出来ない!

「よ~ちゃん、ね~ちゃん!」
「かずちゃんはね、お腹痛いんだよ!」
と言いながら、私の食べかけの、とうもろこしを取って食べていた、かずちゃんの姿ではなかったんだよね!

親戚のみんなが私を、かずちゃんにあわせてはくれなかったから、かずちゃんのおばさんが、わざと、私に意地悪してるのだとばかり思ってたんだよ!

このご婦人の幼時体験はおそらく、狂おしいまでに悲しい出来事だったのかもしれない、消し去る事のできない情景が浮かぶような気がした。
『ジュノは、この女性の話が好きだった。』

だからと言って、心療内科医としての、カウンセリングをいい加減な事として、おろそかにしたり、患者さんを選り好みしたり、誰かをひいき眼で診たりは、決してしないけれど、どうしても気に留めてしまう、もうひとりの患者がいた!

その女性はまだ、女性と呼ぶには幼すぎる十五歳の無就学の、普通に成長していれば、中学三年生になっていたはずだった。

この子をジュノの診療している「ヒマラヤ杉医院」に連れてきたのは、母方の祖母に当たる人だった。

この子の母親は、二十三歳の時、近所に住む男に乱暴されて、その男の家がある程度、資産家で田舎での事、地主の立場を利用して、強引にふたりを結婚させたが、女の子がお腹にいる事を知りながら、夫は幾人も愛人を作り遊び歩く、そんな男に、少女の母親は、必死でつくして、夫である人の、家の仕事を手伝い、義理の父と母に尽して、突然帰ってくる夫に殴られ続けて、ある日、少女が七歳になった時、少女の目の前から、消えてしまった。

いまだに、生死さえも、祖母も、この少女も分からず!
時折、この少女の父親が現われては、狂乱したような、この子へ仕打ち!

それはまるで、この子の母を追い求めるように、叫び、わめき、暴れて、祖母と少女を恐怖のどん底に追いやっていた。

十五歳になる今も、少女は母を失った悲しみと父の暴力が元で、心の成長が七歳で止まってしまった!

孫の生きて行く、この先の不安から、やつれ果て、心労がつのり、老いた体に無理させて、働くこの老婆の姿!

老婆の嘆き、苦しみを聞きながら、ジュノはいつしか、わが身におきた事のような錯覚に囚われた。
どこか、ジュノの母の最期の姿を思い出させて、切なく、辛い診療になっていた。

このふたりの女性の心の奥にある、苦しみや悲しみを、どう、アドバイスすれば、心を楽にしてあげられるのか・・・

この平和だと思える現代の日本で、これほどの残酷な事が起きている事に、改めて、辛く悲しい思いにさせられる。

ジュノは自身の心の苦しみの答えが、このご婦人と共通したものがあるようにおもえた。
そんな時、又しても、アメリカの友人、マークからの電話!

加奈子の新しい恋人、ロイが、ジュノと何処か雰囲気の似た、少年のような面差しで、実際に、加奈子とは十歳も違う、年下の男でロック・クライミングしか頭の中に無い、頼りない人間なのだと言いマークはいかにも、ロイに嫉妬心をむき出しに話す。

加奈子はジュノを忘れられずに、子供みたいな男を求めて、まるで、年若いロイを、同じおもちゃのすきな者同士で愛玩しあうような、生活をしてるのだと訴える。

マークはジュノが、聞きたくもない事を、得意げと嫉妬のいり混じった感情で伝えてくる。
毎週のように、ふたりは、ヨセミテに通う生活!

だが、加奈子の様子が、冷静なはずの加奈子の姿ではない事が不安なのだとマークは言った。
どこか、生きる事に投げやりな、緊張感が足りない!

精神の統一が出来ていない事が、とても、気になると、マークは付け加えた。
あれほど、深く、愛し合っていた、ジュノと加奈子の長い歳月を知っていればこそ、マークは、ふたりの心のすれ違いが気になる複雑さが、マークに不安をつのらせているのだろう。

あれいは、ジュノの一方的な、冷たさから、うまれた事なのかもしれないが、今のジュノには、加奈子を思いやるゆとりがない事も事実だった。

だが、心が痛む思いと、どこか投げやりにしたい思いとが、ジュノの中で攻めぎあっている事が、仕事から解放された時のジュノのやすらぎを奪って行く。
人は誰でもが裏側にある人生をみつめる事を避けたい!

ジュノは加奈子を愛していても何かが足りなくて、心の隙間をうずめる努力を捨ててしまったのだろうか。

過ちと煩悩の狭間に
遥かに遠い君を思う
官能的な幻影
美しき人はもがき苦しむ
生きるための力を
僕の為に無駄にしないで
青空の中の君と
涙さえつめたい僕の
気づかない背信
気づかない嫉妬


    つづく



残酷な歳月 12 (小説)

2015-12-03 13:55:01 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)


残酷な歳月
 (十二)

(愛する人は)
加奈子がどんな男とつきあおうが、年下だから,どうだと言うのだ!、
加奈子はもう立派な大人だ!
ましてや、物事の分別をわきまえている人間だ!

ジュノの中で、マークへの反発さえ感じた。
昔から、マークは何かと、加奈子に興味を抱いていたではないか!

ふと、そんな事さえ、思い出して、あらぬ邪心まで抱く、ジュノには、マークの好意は、ありがたいが、もう今は、沈黙して、見てみぬ振りが、友としての、友情ではないかと心の中で、反発していた。

無意識の中でつけていたテレビに映る、バレーダンサーの舞う姿、
「ラヴェルの、ボレロ」
のリズムに、ジュノは言い知れぬやすらぎを感じて、引き込まれるように観ていた。

そういえば、いつだったか、加奈子とニューヨークを旅した時、加奈子がこのバレー公演を観たがったが、ジュノは、別の、今では何のミュ―ジカルだったかさえ思い出せないが、お互いの欲から、ふたりで軽いけんかになった。

だが、結局は、ジュノの希望する、ミュージカルを観たのだったと、「ボレロ」を舞うダンサーの姿に、加奈子への思慕なの、懐かしさなのか、判別のつかない感情に、ジュノは苦しいような心が揺れる事に違和感を抱いていた。
「そんな、ジュノ自身に戸惑いながら!」

そんな思いがよぎる中で、いつも、気になり、心が痛む事、妹は今何処で、どうしているのだろうと思うだけで、いたたまれない思いに駆られてしまう。

どうしても、大杉さんにもう一度会う必要があると、以前訪ねた場所には、もう住んではいなかった。
ソウルの両親に聞き、その場所を尋ねても、大杉さんは、そこにも大杉さんは住んではいなかった。

穂高のガイド、佐高さんは、大杉さんと、あの事故以来、何度も会っていて、時には一緒に事故現場を訪れては、母と妹の手がかりをさがし歩いたと聞いていたので、ジュノは、佐高さんにも、大杉さんの居場所を問い合わせたが、おしえられた場所には、やはり大杉さんは住んではいなかった。

ジュノの周りにいる人間は、誰も、今の大杉さんを知る者がいない事になる!
ふと、ソウルの両親は、まだ、ジュノに対して、すべての事!
『真実を話してはくれていない!』

あの優しい、養父母にまでも、不信感を持ってしまう事が、ジュノは悲しかった。
誰も信じられない、そんな思いが、ジュノを不安にして、疑問を抱かせてしまう!

ふと、ジュノは子供の頃、まだ、寛之だった頃に、一度も父の故郷、岡山へ連れて行ってもらった事も、父から自分の故郷の話を聞いた事がない!
『父の両親!、祖父母に、逢ってみたいと思った!』

このような、とても大切な事に今まで、なぜ、気づかなかったのだろうと、ジュノは思った。
寛之は祖父母に会ったことがなく、何も、祖父母の事を話してはくれない父だった。

大杉さんから、岡山に「おじいさま、おばあさま」がいると、何かの話の中で聞いた事がある、そんな程度だった事が、今になって、ジュノは、とても不思議に思える事だ!
写真すら見せてもらえず、岡山の祖父母の、又、母の韓国の両親!

ジュノには、祖父母に当たる人がいることさえ、十歳まで、ソウルで暮らすまで、はっきりとは知らされていなかったのだ。

ジュノの韓国の祖父母にも、十歳までの寛之の頃も、今も、会う事も、話を聞くこともなく、だが、その頃は、母は、おそらく、韓国の両親とは頻繁に連絡を取り合っていたことは、今のジュノにも想像がつくのだが。

なぜ! 事故を境に、すべての関係を断ち切らなくては、生きて行く事が出来ないほどの事があったのかが理解出来ない、その事がジュノには、疑問と不安をつのらせた。

穏やかで、優しい母と、無口で音楽を愛していた父、暖かな家庭として、大人になってからのジュノは、寛之として育った頃が何よりも大切な事として、記憶していた事が、もろく、くずれて行く恐しさを感じていた。

そして、母と大杉さんの関係が、どのような事で、繋がっていたのか、実の父と今の父と大杉さんの三人、親友としての、信頼さえも、断ち切る事ほどの出来事があったとは!

あの奥穂高山荘で、いったいどんな話が、父と大杉さんの間であったのだろうか?
たとえ、どのような事があろうとも、すべての事を、明らかにして、妹の行方をさがさなくてはと、心あらたに、ジュノは思うのだった。

たとえ、どんな真実があったとしても、父と母のあの優しい笑顔!

そして、大杉さんの大きな背中を思い出しながら、なぜ、母は、日本人である、大杉さんを知っていたのだろうと、漠然とした思いがよぎった。

遠い過去が今そこに来る
美しき人の知らない歴史
それは避けようのない決まり事
どんなに逃れようとしても
つきまとう運命のいたずら
いく千の時が過ぎても
美しき人の力を超えた
愛の大きさを物語る
今はじまる道は夢想のごとく
醜さとぎまんにみちて

今のジュノには、人を恋する想いが苦痛になってしまったのだろうか、それでいて、心の虚しさがますばかりだ。

大杉さんに会わなくては、何も解決できないと、思いながらも、一向に大杉さんの居所がわからず、ジュノは、焦る気持ちと、疑念だけが膨らむ。

そんなある日、穂高のガイド、佐高さんがジュノの勤める病院に訪ねて来た。
なんでも、ガイド協会の集まりがあるので、上京して来たのだと!、
大杉さんの行方の事も気になるし!

今回は、ジュノさんにお願いしたい、大事なことがあるので、夜にでも、時間をつくってほしいと、言って、ふたりは一旦は別れて、その夜に、佐高さんの泊まっているホテルにジュノが出向いた。

待ち合わせの時間よりすこし早かったので、ジュノは久しぶりに、ひとり、このホテルの、スカイラウンジでワインを飲んで、気持ちを落ちつかせていると、ジュノのいる席からすこし離れた場所にひとりの女性がいた。
ジュノはあの女性をどこかで見覚えがあった!

なん度か、ちらっと、見て、目をそらせては、思い出そうとしたが、その時は、思い出せなかった。

だが、佐高さんの「個人的な話なので部屋」で、会いたいと言う事で、ジュノは部屋を訪ねて、驚いた、さっきのあの女性がいるのだ。

佐高さんの紹介した、この女性は、信州、安曇野で、実家は観光事業などを手広くやっている。
佐高さんのごく親しい友人の娘さんで、ご自身は今、養護施設の仕事をしているのだと言った。

だが、今、胃がんにおかされて、地元の病院で、早急に手術する事になったのだが、出来れば、ジュノにお願いできないだろうかとの、相談であった。
三人で話しながら、この女性には、何処で会っているのだろうと、思い出そうとして・・・
そうだ、確か、アメリカの大学時代に、学部こそ、ちがうが、一年先輩にいた!

しかも、加奈子とは、親しかったように、思い出された。
同じ、日本人同士と言う事で、学部が違っていても、この女性
「田神りつ子は」

自分から親しげに、加奈子に近づいて来たと、そんなふうに聞いていた。
今、目の前にいる雰囲気とは違う、いつも振る舞いが横柄で、男子学生に囲まれて、マドンナ的存在のすこし、派手な目立つ存在の女性だった。


  つづく


残酷な歳月 13 (小説)

2015-12-03 13:53:47 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
 (十三)

あるときは、真面目に勉強に励む、日本人留学生を、その気も無いくせに、さも、気があるようなそぶりを見せては、軽く誘惑する、そんな言わば自堕落的な生き方をしていた。

正義感の強かった、ジュノには許しがたい人間であった!

そして、その内のひとりの男子学生が、本当の理由は、分からないが自殺にまで、追いやったとも、聞いた事がある。

そんな良くない噂を、加奈子から聞かされて、ジュノは、いつもその度に、言い知れぬ、腹立たしさを感じたものだった。

あれ以来、二十年近い歳月がすぎて、今、目の前にいるこの人は、あの頃の雰囲気がまるでなく、四十歳を迎える女、病気のせいもあるのだろうが、歳よりは老けて見える、生活に疲れた感のある、
「ただのおばさんだった。」

今、ジュノは、アメリカでの事、加奈子の事を話すべきか、ためらいを感じていたが、りつ子の方から、
「加奈子は元気なの!」
「貴方たち、結婚しなかったのね!」
「ちょっと、がっかりだわ~、かげながら、気にしていたのに!」
とあっさりと言うのだった。

そして、りつ子はいつだったか、マークからメールが来て、知ったけど、加奈子は今、若いパートナーと、「しっかり、楽しんでるようじゃないの!」と、言って、ジュノを驚かせた!

なんでも、アメリカ時代からの、ボーイフレンドとして、マークとは今も、つきあいがあるのだと言って、ジュノをおどろかせた。

マークがあの頃の、彼女の取り巻きのひとりだった事も、ジュノには、はじめて知る事だった。
友人としてマークを信じていた気持ちが、なんとなく、軽いものになった気がした!

佐高さんからは、大杉さんのその後の消息は何も新しいことが分からず、ジュノは、やはり、ソウルの両親には辛い事なのかもしれないが、会って、まだ、話されていない事があるのだろう、真実を、聞かなくては、妹の事も、実の父の事も、何も、分からないままでは、ジュノにはやはり、辛い現実のままだった。

だが、今日、この「田神りつ子」に出会った事が、ジュノの運命に大きく係わって来る事など、今、目の前にいる、彼女からは、想像も出来ない事が、この女性「田神りつ子」にはあった。

古い友の悪戯な囁き
忘れかけてる想いが痛い
平凡な女の裏側
それはあくぎなのか
友情とは名ばかりの軽さ
誰でもがうらやむ幸せなど
美しき人は望まない
より苦しみが真実をあばく
美しき人の姿を際立たせて
誰もが憧れる芸術がうまれる
医術と言う芸術は
誰でもがまねの出来ない力


(古い友人の話)

考えもつかない、女性との再会は、少なからず、ジュノは加奈子を否応なく思い出させた。

孤独感で、ジュノ自身が押しつぶされそうな状況の時、ジュノの唯一の甘えられる存在だった事から、ジュノの苦しみや苦悩を一方的に加奈子へ向けた仕打ちだった。

ジュノは切なさと、心のどこかで、加奈子のぬくもりを求めているジュノの自分自身の心の動きの不安定さ、戸惑いからさせた行為だったが、気まずく、心がすれ違ったまま、別れてしまった加奈子だった。

佐高さんは、どうしても今日のうちに仕事上で会う人がいるといい「りっちゃん」とは、友達だったのなら、つもる話もあるだろうと、ジュノとりつ子をホテルの部屋に残して、急ぎ、出かけてしまい、なんとなく、ふたりの間で気まずい空気が流れたが、りつ子は、持ち
前の人なつこさで、りつ子自身から話し出した。

「どうして、加奈子と別れたのよ!」
「あんないい女は、そうはいないのに!」
私がつき合っていた人の中では、
「とても信頼のできる人よ!」

少なくても、私の知っている女性の中で、私の一番信頼できると思って、いつも、見ていたのよ、加奈子をね!
「ほんとにもったいない!」

このままじゃ、マークが狙っちゃうかも!
それでもいいの?

やはり、あの頃の、りつ子だった!、どこか、ジュノの心の奥底をのぞき込むように、そして、容赦なく相手の痛い部分を、攻めるような、いたぶるような、面白がるような・・・

ジュノは、人間は、そんなには、変われないものなのだと,思いながら、もう、加奈子の事には触れて欲しくなかったので、話を、無理に、りつ子の病気の事に触れた。
りつ子は「私、もう、長くないらしいのよ!」

でも、ジュノの手で、終わりにして貰えれば、すこしは、気持ちが楽になれるかと、思ったの!
それよりさあ~、私、「貴方が好きだったの、知ってたあ~!」
「知るわけないかあ~、知らないよね!」

「ジュノは、加奈子ひとすじ!」
と言うより、加奈子のジュノに対するガードが、凄かったもんね!
又しても、りつ子は、あの頃の事の話に戻して来た。

ジュノは、覚悟した!言いたい事があるのなら、今のうちに言ってしまえ!

これから、おそらく、毎日顔をあわせるのだから、くだらない話は、ここで、聞いてしまったほうが良いと判断した。
「貴方さあ~一時期、ひどく痩せた時期があったよね!」
「なんとなく、顔の表情がきつくて!」

怖いほどに、だけど、わけのわからない、憂いがあって!」
「凄く、素敵で、凛とした姿がいいんだよね!」

「ひどく、落ち込んでそうでいても、笑顔がきれいでさあ~」
「でも、すこし、体に肉がついて、顔がちょっとだけ、丸くなってた時は、本当に色っぽくて、その姿がたまらなく、良かった!」

「まるで、金太郎さんを、かっこよくして、走り回ってるようで、少年のような、しぐさが、可愛くてね!」

つい、手を出したくなって、加奈子を通して、ジュノを見てたのよ、私!
ジュノ、知ってた!
でも、どこか、本気で、手を出す事が出来ない!、
大げさに言えば、気高さが、怖かったような雰囲気があってさ!

むりやり何とか出来ない、不思議な、キレイさがあってね、いつも、貴方の姿を見ると、自分の中の空虚な感情と女としての誇りのようなものが、わたし自身の中で喧嘩をしてるんだよね!

そんな、同じような話を並べ立てて、話が尽きたのか、ジュノは、聞き手一方だったから、さすがにりつ子も、恥ずかしくなったようだ。
佐高のおんじーから、ジュノの事をきく前から、貴方の外科医としての優秀さは、知っていたのよ!

本当は、私が、直接、会いに行って、お願いしたかったけれど、佐高のおんじーが、ジュノと親しいから、私の手術をお願いしてくれると、言ってくれたのよ!
もっとも、私が直接尋ねても、会ってもくれなかったかしらね!

あの頃の私はたぶん、ジュノに嫌われていたんでしょう!
そのくらいは、私も分かっているんだけれど、いくら、「馬鹿!」
やっていても、ここは(胸)熱かったんだ!


 
             つづく




残酷な歳月 14 (小説)

2015-12-03 13:52:57 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)

残酷な歳月
 (十四)

りつ子は照れながらも、自分の心は、まるで、清らかだといわんばかりに、ジュノに話し続けた!
佐高のおんじーから、お母さんと、妹さんの事、聞いてるわよ!

私ね、はじめは、そういえば、子供の頃、父親が、貴方達の事故の時、捜索隊の一人として、何日も山へ出かけていたのを思い出したのよ!。

それと、あの事故の年か、もっと、あとだったか、よく覚えていないけど、たぶん、ジュノのおかあさんと妹さんに、
『会ってるかもしれないのよ!』

けどね、穂高ではないけれど、別の場所にある山小屋で、会っていると思うの!

親戚の山小屋を手伝いに行った、夏休みの頃か、それより前なのか、後かな~、山に凄く雪が降ってね、季節はずれの、大雪が降って、親戚中の人が、借り出された時にね!!

それと、はっきりとした、自信の持てる事ではないのですけれど!

十五年くらい前になるかな、私の住んでいる信州、安曇野でね、たぶん、ジュノのお母さんだと思うけれど、あの山小屋にいた女の人に会っているんだよ!

確かなことではないので、今まで誰にも話してないけど、ずーと、気になっているのよ、なぜか、わからないけどね!

突然の訪問者は言う
きっと叶う夢だと
その口が真実を言うのか
君はいつだって軽く
誰かを誘い惑わす
美しき人はただ信じて
もう何度この胸弾ませて
夢を見た美しき人の願い
誰も私を騙さないで
あの山の彼方に母の姿を

 
りつ子は確かな記憶ではないけれど、母と妹に会っている!
その後にも、母には十五年ほど前にも、信州、安曇野で、出会っていると言う!

りつ子の、あまりにも簡単に話す事が信じられず、疑念さえ覚えた。
だが、今は、どんな小さな情報であっても、ジュノにはありがたくて、大切な事で信じたい情報だった。

ましてや、今のりつ子はアメリカ時代のような、小悪魔的で退廃的な生き方ではないようで、あの頃のりつ子を知らなければ、誰でもが、信頼する人物に見えるだろうし、雰囲気的にも、セレブなご婦人!、社会的に認められた女性の姿だった!

現に、りつ子はアメリカから帰国してすぐに、一人娘だったこともあり、親の仕事を継ぐ為に、親の進めで、地元の事業家と、極めて平凡な結婚をしたと、ジュノは、りつ子の一方的な、自分のこれまでの生活や、今の仕事の事などを長々と話して聞かせた。

ジュノが驚きと戸惑いの中で、一番聞きたい、母と妹の事も、なんの戸惑いもなく、簡単に話す、りつ子の姿に、ジュノはどう、反応すればよいのか。
定かではないが、あの事故にあった頃の事なのだろうか!

りつ子は、さも、もったいぶるように、ジュノの戸惑いを楽しむように、あの頃のりつ子の嫌な部分を見ているようで、りつ子の口元だけ派手に動く、得体の知れない、生き物に見えて来た!

ジュノの心がオドオドしている姿を垣間見て、喜んでいるかのような意地悪さが見え隠れする。

りつ子はやはり、魔者で、人の心をもてあそぶ悪魔的人間だった!!

「でもね!本当に、あの事故の後なのか、十一歳の頃でしょう!」
「あまり、はっきりした、記憶じゃないのよ!」
「それに、嫌々手伝されていたし!、寒かったし!」
と、気だるい、口調ではなした。

今思うと、たぶん、あの事故の事を、ニュースや父親が何日も捜索に出ていたから、覚えていたのかもね~

そう思えば、なんだか繋がった記憶になるのよ!。
親戚の山小屋はね!「槍ヶ岳へ向かう途中の小屋」なのよ!
登山客は誰もいなかったのよ!
私も最初は、誰かが、いるなんて、知らなかったのね!

大雪が降り、予定より早く山小屋を閉める事になり、親戚中の者が借り出されて、小屋じめの仕事をしていて、お布団を片付ける為に薄暗い、「普通はあまり使わない個室」に入ったら、ふたりでうずくまっていて!、驚いたわ~本当に!
まるで、「幽霊か、お化けがそこにいた!」

そんなふうに見えたのよ、私は怖くて、足がすくんで歩けないほど、おどろいたのよ!

小屋の人達も、誰も、無断で入っている人があるなんて、思わないから、いつもいる小屋番の人も知らないみたいだったから、急いで、おじさんたちに知らせたわよ。

ふたりとも、かなり体が弱っていて、動けない状態だったので、あすにでも、小屋番の男の人を一緒に下山させるからと、伯父はそのふたりに話して、その夜は、ゆっくりと休んで貰うことになったのよ!

けれど、朝になったら、ふたりとも、消えて、いなかったのよ。大雪が降って大変な状況の中、いなくなってしまったので、とてもみんな心配したわ!

そのあと、小屋の人たちとみんなでがずい分さがしたけど、見つからなかったのだと話した。
私はその後、どうしたかは分からなかったわ~
子供だったし、その後は山には入らなかったしね!

それがね!、今から十五年くらい前だと思うけれど、安曇野の、ある、養護施設で、あの時の女性!、たぶん、ジュノのお母さんだと思う女の人に会ったのよ!。

私が所属している、キリスト教会が運営している福祉施設を、うちの会社が手助けをする事になって、私は、そこの代表者になる事で、うち合わせの為に何度か、施設に伺った時に、二~三度、姿を見ているのよ!
「ジュノのお母さんだと思う女性にね!」

とても、不思議な気もちがしたわ!
あの山小屋で会った時の、表情がとても印象深かったので!

安曇野でお会いした時、言葉は交わしてはいないけれど、あの時の人だと、すぐに、思い出したのよ!

その時の、福祉施設の関係者にお聞きしたら!
教会の牧師様からお頼まれしている方で
「施設のお手伝いをして頂いている方です。」とはなされていたわ!

私が正式に、そこの代表者になった時にはもう
「ジュノのお母さんらしい女の人は」
そこの施設には、いなかったのよ。

ジュノは、りつ子の話す事が、本当の話なのか、信じられない思いもするが、全くの作り話でもない事だと!、ありえる事だと!、
何かしらの手がかりがつかめた気がした。

だが、一方では、そのような事があったのなら、りつ子はなぜ!佐高さんに話さなかったのだろうと、りつ子の話しに疑問を感じた。

季節はずれの雪は
どれほどの苦しみを
恐怖と闇に閉じ込められて
寒さに震えながらヒョンヌ
母の呼ぶ声は届かない
心の中のすべてを父へ
むねが張り裂けるほど
美しき人は叫びつづけて
近づけない影を求めて
今日も涙する美しき人


     つづく


残酷な歳月 15 (小説)

2015-12-03 13:52:06 | 小説、残酷な歳月(1話~15話話)


残酷な歳月
 (十五)

(幻の母)
ジュノはりつ子の話を信じたかった!!
けれど、あれからもう長い歳月が過ぎて、あまりにも、孤独な時間を強いられているジュノは、母や妹の事になると、異常なほど、心が騒ぎ、時には、怒りにも似た感情を抑えることが出来なかった。

りつ子のジュノに対するいわば悪戯にも似た行為が、ジュノには耐え難い行為におもえて来て、今にも、りつ子に対して、反撃的な言葉を発する思いを必死で抑えていた。

そんなジュノを、りつ子はさすがに心が痛んだのか・・・
「あの方は、きっと!ジュノのお母様だったのよ!」

「美しい人で、今、思うと、なんとなく、ジュノに顔立ちが似ていたように、思えるけど!」
もし、なんだったら・・・

「あの時、お話した、牧師様にその後の事を、お尋ねしてみましょうか?」と!
なんとなく、取ってつけたような言葉で、ジュノに擦り寄ってきた!

りつ子のその態度が、又しても、ジュノの気持ちを逆なでしていて、益々、りつ子の事が信じられずに、ジュノを混乱させた!

部屋の空気が重苦しくて、におうはずのない、鼻を突く、悪臭を感じて、窓の外の風景もきらびやかな激しい色あいの新宿の街はジュノにはただそれだけで、嫌悪感を覚える。

そして、又しても、りつ子は、ジュノにはあまりにも、とっぴ過ぎる事を口にして、平然としているばかりか、むしろ、得意げに話した!
「ジュノは、知ってるの?」
「加奈子があかちゃんを生んだのよ!」
「男の子だったそうよ!」

ロスのマークから、聞いたのですけれど!
ジュノの子供なの? それとも、あの今の若い恋人ロイの子供なのかしらね!
そんなとんでもない話を聞かされても、ジュノは、誰の事なのか、ただ聞き流しているばかりだった。

それもそのはずで、ジュノには確かな記憶ではないが、身に覚えのない事だと思いたい。

だか、本当のところ、ジュノの記憶の中で、全く、違うのだと、言い切れるほどの、確かな記憶がない、抜け落ちたあの頃の事!
ジュノの心はかすかな反応する!

気がかりではあっても、どこか、他人事のような、絵空事にしか感じていなかった。
この時期のジュノの精神の異常さを誰も気づいてはいなかった!

どうしても、この狭いホテルの部屋に、りつ子とふたりで居る事に、耐えられず、ジュノはりつ子の名刺を受け取り、病院での診察日を連絡することにして、早く、この場を立ち去りたいと思い、必要な事だけをりつ子に告げて、急ぎ足で、ホテルの部屋を出た。

りつ子の話を信じたい思いと、ジュノに対してみせるりつ子の軽薄な言葉や態度に怒りの感情がりつ子との接触を拒みたい衝動に駆られた。

だが、今は、りつ子のもたらす、情報しかない事が、ジュノには辛い事だった!
相変わらず大杉さんの居場所が分からずジュノはこれから、妹をさがす事をどうすればよいのかが、思いつかずに時間だけが虚しく過ぎて行く事に耐えている。

ジュノの心にいつも刺さったままの棘のような痛さで、妹の行方が気になって心配な事だ。

そんな思いの時、突然、実の父の実家、
『岡山の家は今、どうなっているのだろうか!』
と、今まで、ジュノは、実の父の故郷を考えた事がなかった事が不思議だった。

確か、父はひとり息子だったと聞いた記憶があった。
実の両親は、ジュノ(寛之)にお互いの、祖父母の事や実家の事を何も話さなかった。
むしろ、どんな事だったか、思い出せないほどの、些細な話しを、大杉さんから、ジュノは聞いた気がする。

父や母が、どのような事情があって、自分達の生れ、育った、家や場所、そして、どんな環境なのかを、子供だった、寛之や妹の樹里に話す事が出来なかったのか、今となっては、確かめる事さえ出来ない。

ジュノは、父の生れ、育った、岡山の家を訪ねてみようとの、思いが強くなって行った。
ソウルの父から、住所だけは、聞くことが出来た、今の両親も、住所だけしか分からない、写真の一枚さえない事が、とても、不思議さと言い知れぬ不安をジュノは感じた。

季節は何度も変わり通り過ぎても
この重苦しいほどの怒り
恋しい気持ちなのか
愛しい想いなのか
まだ見ぬ世界に
強く引き寄せられて
美しき人は心がさわぐ
誰が私を呼ぶのか
この世でただひとりの妹
美しき人の心の声をうけとめて

ジュノの心はひどく混乱し、目に見えない恐怖なのか、喜びなのか、判断のつかない実の父の故郷への憧れを抱き、乱れる思いが苦しかった。

そして、あまりにもとっぴで、信じがたい、りつ子の話した事をふと、突然、思い出した。
『加奈子が子供を生んだ!』

その事が、ジュノの心情をかき乱すけれど、加奈子に対して、どのような態度をとれば良いのか、今のジュノには思いつかない。

心の中に、重石を抱えたような、苦しさがあるけれど、ふと、加奈子の姿を思い浮かべては、ジュノは心が華やぎ、加奈子に触れたあの柔らか胸のふくらみ、弾むように、ジュノの少し大きめな手で包み込む、加奈子の乳房は、いつも小刻みに震えて、喜びを
伝えてくれた。

ジュノとの、その幸せを共に、何度も加奈子とのくちびるをあわせてはこの上もなく、深い、ふたりの愛を確かめ合っていた。

あの、なにものにも変えがたい、ふたりの交わりは、ジュノが今までに感じた事のない、特別な幸福感であったはずなのに、ジュノが、加奈子に与えた苦痛を思うとき、ジュノは今、どうすれば良いのか、迷いだけが、一人歩きしていた。

加奈子の生んだ子、どんな赤ちゃんなのだろうと、思うだけで、逢ってみたい衝動なのか、確かな、現実の事なのか!

まだ、すべてを受け止められずに、ジュノ自身の心は小刻みに乱れて、戸惑いを感じる、だが、加奈子からは、何も、連絡もなかった!

ジュノと加奈子がはっきりとした、別れの言葉を交わしてはいないが、お互いの感情のすれ違いを埋める事は出来ずに、ジュノのもとを去って行った加奈子だった。

だが、ジュノも、加奈子も、心の奥深いところに、お互いへの思慕を感じながらも、もう終わった事なのだと、自分に言い聞かせていたのだ!

今の加奈子にはロイという新しい恋人との生活がある事で、ジュノは加奈子への連絡をかたくななまでに、絶っていた。
「子供が生れたとしても、かかわらない事だ!」

ジュノ自身の揺らぐ思いや定まらぬ気持ちを伝える事など、これまで加奈子に対して、ジュノが与えた苦しみを思えば、どんな些細な好意であっても、見せてはいけない事なのだと、ジュノ自身を納得させていた。

ジュノが今、行動すべき事は、妹の「樹里」をさがす事が大切!大杉さんの行方をさがして、まだ、明らかにされていない、ジュノの中にある疑問や不安を取り除かなくては、ジュノはこれからの生き方や人としての喜びを得る事が出来ない!

さっそく、りつ子は、ジュノのいる病院へやって来て、必要な診察と検査を済ませて、今、正式な病状の診断結果待ちだった!


つづく