☆眼がよく見えない私とPCことぜんぜん分からない家人の手助けで何とか載せてみました!、読んで頂ければ、うれしくて、生きる励みになります。
(1)
バロックの低い調べは狭い仕事部屋を覆い尽すように薄汚れた窓ガラスに微かに響き返して私の耳に聴こえてくるような音のずれを私、原井美紗緒は今日も感じた。
私は65歳の今の今まで生涯独り身を通して暮して来た女職人!
人形に魂をこめる仕事、人形の顔を描く「面相描師だ!」
65年前、私が生まれた東北の寒村、山深い小さな村の集落は谷あいのわずかな平坦地に寄り添うように15軒ほどの村人が住む場所だった。
私は中学を卒業したその日に3人の同級生と村の世話役のおじさんに連れられて家を離れて、東京の人形工房に連れてこられた。
私の生まれた村は先祖代々の言い伝えによると遠い昔、平家の落人で戦いに疲れてこの地に逃げて来て隠れ住みついたのがこの集落の歴史の始まりだとか、正式には分からないが私の幼い日に聞かされたまるで夢物語のような、又、現実の事のようにも思えた怖い幼児体験の記憶のような、遠い昔の時代の話だった。
今、私が勤めている、東京にある人形工房の師匠の先祖が大将で、ある平家一族を連れて、人里離れた山の中に住みついたそうだ、長い歴史の中で、今も語り継がれている言い伝えだ!
今、現在の集落は私が生まれ育った頃とは大きくかわってしまい、数軒の家が生活するだけの廃屋だけが残る寂しい集落になってしまったが、私が生まれ育った頃はどの家にも子供の泣き声や笑い声が聞こえてくる静かだか活気ある人の住む場所だった。
15軒ほどの集落は殆どの苗字が「原井」だったり、今の私は忘れてしまったが、いくつもの不思議な伝統行事があった。
そのひとつが、昔から、この集落の子供のうち、中学の卒業生の中で幾人かはこの人形工房に親と世話役の人の話し合いで、決まり事として弟子入りする。
特に私の家は親子代々、長男、長女をのぞいて、人形の面相描きの仕事を引き受けていた事で、次女である私の意志や意見など聞かれる事も、私自身もなんの考えもなく、当然のようにこの人形工房に弟子入りした。
私が家を出た日は冷たい北風がつよく吹く寒い日だった。
馬が引く荷ぞりに町まで運ぶ荷物と共に乗せられて3人の同級生は命じられるままに着古した一組の着替えを風呂敷に包んで持ち、ひざの上に置かれた母親の心づくしの梅干をひとつ入れただけの大き目のおにぎりを3つ竹のこの皮に包んだ物を大事そうにもって荷ぞりから振り落とされないように必死に耐えて乗っていた記憶!
背中に背負う風呂敷の荷物がからだの不安定さをつくり子供だったあの頃の怖さを思い出す。
ひざの上に置かれたおにぎりからまだいくらか母の手のぬくもりが伝わるような気がしていたが実際にはおにぎりもカチカチに凍っていたのだった。
温かみなども無く、おにぎりの匂いも数切れの沢庵の匂いさえ感じとる事が出来ないほどの寒さだけが今もこの老境の身によみがえる、辛い記憶だった。
あの日からもう50年の歳月が過ぎて行った。
私は昨年の春に乳がんを患い、ある病院で、乳房の摘出手術をした。
幸いな事にがんはまだ他の組織には転移してはいないために、どうにか命の危険は避けられたようだが、独り身で頼れるべき人間もいない心細さから、病気ほど不安感や孤独感を大きく感じさせられる事の辛さを死の恐怖と共に思い知らされた。
今は、体調も快復して、小さな我が家、仕事場兼、住まいとして庭付きの古い賃貸アパートはたぶん私の終の棲家になるはずだ!
畳3畳ほどの庭には仕事の手を休めて気分転換出来る私の大切な場所で小さな世界だけれど、私の感性や生きるエネルギーを感じて心休まる場所だ!
この狭い、小さな世界を丁寧にを見渡し、可愛い花に出会っては、花たちと会話する!
「おはよう!今日も私をみつめていてね!可愛い、私の子供たちよ!」
そんなふうに声をかけるのが私の朝の日課だ!
私は、もう人生の終盤を迎えた初老の女だけれど、今、たぶん、私の人生の中でこれほど穏やかで、幸せな時間は無いのかも知れない・・・
この心は毎日が幸福感に満たされて、孤独ではあっても、心の平安を感じさせてくれる時、私の生きてきた道の厳しさを思う一瞬、少しだけ胸の苦しみを感じるけれど今は、とても穏やかに暮せている!
「人生は長いようで本当に短い!」
今、65年を生きて、ふと、30代はどんな時間だったか、40代はどんな生き方だったのかを振り返っても、思い出せないほど、フルスピードでただひたすら仕事に心を託して時は過ぎて行ってしまった気がする。
だが、私には忘れようとしても忘れられない20代の鮮明な記憶がある、面相描きの修行を始めて6年目だった、私は突然の腹痛で、ある病院に運び込まれた、病名は「盲腸炎」だったが、じつのところ、数日前から私は腹痛の自覚症状があったが、仕事の忙しさやまだ仕事では見習いの身で多少の腹痛など認めてはくれない事なのだと思いこんでいた、自分の我慢出来る限界まで我慢していた。
だから、病院に運ばれた時にはあと少し遅かったら手遅れだと言われた、やっと命が助かった幸運な状況だった。
緊急手術の後十日ほど入院して体が快復した私は、自分ではとても入院費を払えないので、人形工房が払ってくれた事は知らされていたが、師匠から、もし、自分の気持ちで病院へのお礼をしたい気持ちがあるのなら、仕事の休みの日に、病院の院長さんのお宅にお手づだいに行きなさいと言われた。
私がお世話になった病院の院長さんの先祖も同じ村の人間だった、言わば、私たちの郷里での出世頭であって、地域の実力者でもあった、そんな事情もあり、私は何日か病院長の自宅に手伝いに行った。
その時に病院長の一人息子である「長谷川恭介」に出会い、初対面では日常の挨拶を交わす程度の間柄だったが、恭介とは不思議な縁のめぐりあわせなのか・・・
私は珍しく仕事の休みである日曜日、大好きな画家の絵を観る為に東大の赤門の近くの小さな画廊で偶然にも「長谷川恭介」に出逢い、その後ふたりは急速に親しくなって行った!!!
(2)
私の愛する人、長谷川恭介は東大医学部の学生だったが、その頃の世の中は労働運動や大学は学生運動が激しい時代だった。
私は直接には労働運動に参加してはいなかったが親しい知人の中に数人、労働運動に心酔していた事で、私にも少しだけ、若く未熟な精神にも影響を与えていたのかもしれない。
恭介は大学に入ってから、友人のすすめもあり学生運動に参加してはいたが、いまひとつ馴染めない事と学生運動思想や恭介の考え方の違いから恭介の自分が置かれている状況にとても悩んでいて、私とのデートの時もその事の悩みをよく話しては深いため息をついていた。
その頃の私、美沙緒は恭介とはあまりにも育った環境や生活の違いの中で、身分違いの恋をしていた。
けれど、お互いが大好きな絵、画家が同じだったり、島崎藤村の文学にとても惹かれあっていた事、特に藤村の作品の中でお互いを影響し合い、精神的に高め合えた島崎藤村の小説「新生」であったりと!
恭介と私は藤村の精神世界に酔いしれて、互いの成長しきれない未熟さを補えるような気持ちを高めあえる喜びが嬉しかった。
お互いの心惹かれる藤村文学に共鳴出来る事が私を大人の女性にしてくれる、たとえ、それが錯覚であっても嬉しくて恭介の私に対しての愛情だと思いたかった。
お互いの感情が愛情で満たされていて、ふたりはお互いを想いあっていたと少なくとも私は信じていたし、事実、恭介からは大学卒業後だけれど心づもりしていてほしいと、結婚を申し込まれていたが、私には素直に喜んで、返事の出来る身分ではなかった。
恭介の家は、東京でも個人病院としてはとても有名な病院を経営している病院長の一人息子だったから、将来は間違いなくその病院の父親のあとを継ぎ、院長になるはずの人間だ!
その事を知りながら、私は、ただ、お互いに愛していると言うだけで、結婚できるはずもなく、恭介に対しての劣等感のような不安感を常に抱きながらも幸福感に酔う、小さな混乱した気持ちの中で、あの日を迎えた。
あの頃の若者は、現在ほど多様な遊びが無い時代だった事で、登山を楽しむ者も多く、私も同郷の先輩に連れられて、何度か登山の経験があった。
その頃の恭介は精神的にとても追い詰められている事が、そばで恭介の姿を見ている私が胸が詰まるほど彼は生き方に深く悩み、苦悩していた。
労働運動や学生運動は、益々、恭介の思いや考えからかけ離れた過激さを益して行き、それはまるで、暴力的な組織に変貌して行く事の恐怖が恭介には耐え難いものになって行き、だが、その中から抜け出そうと、もがいては、もがくほど学生運動の仲間や恭介の心をがんじがらめにして行き恭介の精神を痛め続けていた。
ある日、恭介は苦しみから逃れるように言った!!!
「みさちゃん、僕と一緒に何処かへ逃げてくれないか!」
「僕を知る人のいない場所へ・・・」
「もう、このまま、生きて行く事など出来ないから、逃げ出すしかない!」
「確かに僕は卑怯者だが、どうしても、僕の考えとは違いすぎて!」
「もう、あの中では僕は無力すぎる人間だ!」
「けれど、もう、限界なんだよ、耐えられないのだよ!」
「だから、何処かでふたりで静かに暮そう・・・」
恭介はもうその時は冷静な判断の出来ないほど精神的に追い詰められていたのだった、けれど私は若さゆえの未熟さが、その時の恭介の心を見抜けずに、単純な答えしか出来ずに、恭介の心を傷つけてしまったのだろうか・・・
私は安易に軽い気持ちで聞いてしまった、むしろ、恭介が私を頼ってくれる事が嬉しかったから、気持ちが浮ついてしまい、ふかい思慮に欠けていたのかもしれない!!!
「恭ちゃんは、何処に行きたいの!」
「私は何処でも良いけれど、ご両親は?」
「恭ちゃんが出かける事を許して下さってるの?」
恭介に対して、私は、本当につまらない質問をしてしまった。
無神経にも、恭介の一番気がかりな事を平気で言ってしまった!
長い時間が過ぎて、大人としての判断が出来る今は、あの時の恭介の気持ちを理解も出来るけれど、あの頃の私は幼さと無恥な世間知らずで、人の心を理解できるほどの賢さも持ち合わせてはいなかった。
ただ、恭介をとても愛してる、その心や想いだけで、あまりにも幼かった、愚かな人間だった。
恭介に乞われるままに、私は、仕事場の先輩に連れて行ってもらっていた登山では馴染みのある私の大好きな山をいくつか考えて、何度か行った事のある山、「谷川岳」にふたりは登山する事になった。
恭介は始めての登山体験だった、だから、私は恭介の登山の装備も一緒にふたりの荷物を用意して、私の手持ちのリックに恭介の装備をパッキングして、恭介に渡して背負って貰った。
その頃は、恭介は私の部屋に時々来ては泊まって行く男と女の間がらになっていたから、私は何の躊躇もなく、恭介の愛情を疑う事もなく、うわべだけは仲の良い恋人同士の姿だった。
私は登山がはじめての恭介の事をもっと良く考えるべきだった!
少なくとも恭介の背負うリックの中身を彼に見せて、どんな時に必要な物なのかを知らせておく事が必要だったが、そのちょっとした注意を怠った事によって、私の人生を大きく狂わせたのかも知れない!!!
私はその事を、40年が過ぎた今も胸がえぐられるほど痛い思いで後悔する気持ちになる!!!
40年前のあの日、恭介と私は夜行列車に揺られて、谷川岳の登山口の駅、土合駅へ向かった。
私は、夜行列車には、ふるさとに帰るときも、又こうした登山などで出かける時などに、たいていは夜行列車を利用する為に慣れていたが、恭介は育ち方の違いもあり、夜行列車にはあまり乗った事がなくて、相当の苦痛を感じていたようだった。
あの頃は本当に登山ブームだった、しかも、殆どが若者の独壇場であった、だから、夜行列車も上野から乗り込む時は、通勤の乗客も乗っている為に遠慮がちにリックを積み上げて座る場所をつくり、だんだん、通勤客が降りて行き、前橋を過ぎた頃には軽く飲むビールや酒の酔いも手伝い、男性は列車のイスの下に新聞などを敷き寝る、女性は固いイスの上に座って眠るのが暗黙の決まり事のようにそれぞれの場所を見つけては休んだ。
私は恭介を自分が座るイスの下の場所を列車に乗ると直ぐに確保しておいた、新聞紙をしいて恭介の寝る場所にふたりのリックなど荷物を置き、その上に恭介に座ってもらった。
周りの乗客が落ちつくまではただ座って待つしかなかったが、恭介はこういった場所や状況に慣れていないために、ぎこちなく、居心地の悪そうな表情をして、眼をとじたり、時々、大きく深呼吸するようにため息をついていた。
恭介は眠れずに、息苦しさも手伝って、何度も咳込んで苦しそうにしては寝返りをする、狭い座席の下で耐えているようだった。
私は恭介とふたりで谷川岳に登れる事が嬉しくて、心が小躍りするほど興奮してしまっていたから、恭介が、何を思い考えての行動なのか、察する事も出来ない、恋心だけがあつくなるばかりだった。
(3)
乗り合わせた夜行列車は、周りの山男や山女の手馴れた手順でもう各グループごとに酒盛りを始めてるから、つい、はしゃぎだして、遠慮がちながらいつしか、大きな笑い声や話し声を出してしまう!、立ったままの通勤客は不愉快そうな顔の表情をしていて、時には・・・
「あいつら、うるさいな~」
「いいかげんにしてくれよ!」
「ほかの乗客の迷惑を考えろよ!」
そんなふうに言って、怒り出す乗客もいたが、たいていはその時の雰囲気が険悪に瞬間的になったとしても不思議と、言い争いや喧嘩になる事はなかった。一時的に嫌な空気になっても、誰かが、一言、「すみません、ごめんなさい」と素直に誤ったりして、自然に落ちついた雰囲気になっていく・・・
いつしか、列車の中は男はイスの下や通路に寝て、女は固いイスに座り、眠りについて行く・・・
けれど、恭介はこのような雰囲気に、体験も無い事で、馴染めずに、苦しそうに何度も寝がえりして、落ちつかない様子で深いため息に気づきながらも、私は少しだけ飲んだアルコールの酔いに誘われて、やがて軽い眠りについてしまい、いつしか、水上の駅を過ぎて、土合の駅についてしまった。
たいていの乗客、登山者はここ土合駅で降りてしまうのであわてる事もないが、大きな荷物を背負っている山やさんたちは、怒鳴り声のように大声で連絡しあっていることが、恭介には驚きと恐怖を感じたようだった。
土合駅は地下深くに列車の下りホームがあり、『486段』の階段を登って、地上駅に出なくては、谷川岳登山は始まらない!!!
これまで、私は、何度か谷川岳へ登ったけれど、列車の中で、ある程度の睡眠を取る事が出来た時はこの長い階段はさほど苦しくないのだけれど、列車で睡眠を取れなかった時は決まって、登山は苦しいものだった。
この486段の階段の登り方で、その時の体調を計る、バロメーターのように、登山者は、それぞれの登り方で地上の駅を目指すのだった。
今回、私は列車の中で浅い眠りが出来ていたので、階段を登る事はさほど苦しいものではなかったが、恭介は、何も、かもが初めての体験で、戸惑う事も多く、列車の中では、私の座るイスの下の床に横になっていても体の痛さに耐えられずに起きて床に座っていても全く眠れずに苦しんだと恭介は私に辛さを訴えて、ひどく疲れた表情をしていたので、私は恭介のリックを自分のリックの上に乗せて担いで階段を登った。
恭介は青白い顔をして、喘ぎながら、長い階段を一段一段、足をあげる事さえ辛そうで、何度も聞いてくる!
「まだつづくの?」
「まだ、つかないのかな~」
そんなふうに私に聞いて来る、その度に、私は・・・
「もう少しだから、頑張って!」
そう言って励ますしかなかった。
恭介は本当に体調が悪いようで、何度も、気分が悪くなり、吐くような仕草をしても、昨夜から何も食べていないし、水さえも飲んでいなかった事を思い出して、私は、水を飲むようにすすめた。
それで少しは気分の悪い状態が良くなってほしかったし、元気になってほしい!
私が登山中にばてた時の対処方法だから、恭介も良いほうに変わり、体調が快復してほしいと思いながら、アルミの水筒を恭介に手渡して・・・
「水を一口でも飲んでみて!」
「きっと吐くのにも楽になって!」
「胃の中にある物全部を吐き出してしまうと」、
「気分がすっきりして楽になるから・・・」
「体調も良くなると思うの!」
何度も、何度も、長い階段がつづいて、もう、殆どの乗客は、周りのはいなくなっていた。
恭介はどんなにか、惨めな思いだったろうか、それでも私が言ったことを素直にそうするしか苦痛から逃れようがないのだと信じて、誠に忠実に繰り返し、吐く行為をやった事で、少し、気分が楽になったようで、又、階段を一段ずつ、何度も休憩を取りながら登って、やっと、土合駅の地上に出た。
けれど、恭介のようすを見ていて、私は、恭介がこれから、とても谷川岳に登山できる状態ではないと思い、どうしたらよいのか、このまま、帰るべきだろうかと考えあぐねていると、恭介はいきなり言った!
「この辺に泊まれる宿はないの?」
「泊まれるところがあれば、今日は僕、ゆっくり休みたいから!」
「宿をさがして、連れて行ってくれないか?」
「みさちゃん、僕、とても辛いんだよ!」
「まるで、体が動いてくれないだ!」
いかにも辛そうに、喘ぎながら、私に訴えて、恭介はそこにへたり込むように座り込んでしまった。
私はふと思い出した、確か、土合の駅から少し下ったところに「山の家」があったはず、あの小屋に頼み込んで今日は恭介を休ませてもらおうと、座り込んでいる恭介の手を取りゆっくりと歩いて貰って、やっとの思いで「土合山の家」にたどりついた。
さすがの私も自分のリックと恭介のリックを担ぎ、恭介の手を取り支えながら歩くのは大変で、小屋についたときは、ほっとした気がして張りつめていた気持ちが楽になったように思えた。
小屋の管理人に事情を話しても不思議な顔をされて、小さな小屋だが、今は午前中の早い時間でもあり周りには泊まり客も無い殺風景な空間に薄暗い土間があるだけの場所はいかにも山小屋の空間だった。
小屋番のおじさんも私たちの様子を見て、どんな風に思ったのかは分からないが、ちょっとの間をおいてから、今日はここに泊めてもらう事を許されて、宿代を先払いして、ふたりは奥の畳が敷かれている10畳ほどの広間に休んで良いと言われて、私はリックをそのままにして、恭介を支えて歩いて行き、指定された場所に布団を敷き、恭介を寝かせた。
私はなるべく音を立てずにそっと荷物を運びながら恭介の様子を見ながら、整理してから、恭介の今後を考えていた。
あす、体調が快復したら、とにかく、東京へ戻ろうと思った。
恭介の最初の望みは、「何処か、遠くに行きたい!」と言う事・・・
今、置かれている恭介の身の置き所も無い、精神的に追い詰められた状況から逃げ出したい思いだけだったが、どういうわけか、ふたりで家出の相談をしていて、「谷川岳」登る事に話が決まったが、恭介は登山の経験が全くなかったが、なぜか、恭介は「谷川岳」にこだわっていて、どうしても登りたいから、連れて行ってと言い、決まった事だった。
丸一日、山の家で休んでも、恭介の体調は良くはなかったが、けれど、次の日の朝、恭介はそんな状態の中でも、みように我をはり、谷川岳に登りたいと言い張った。
私の仕事の休みは今日だけしかないから、普通に考えれば、明日帰っても無断で仕事を休む事になる。
けれど、このときの私の心境は不思議なほど、常識的なことは忘れていた。
こんな心境を「惚れた、弱み」とでも言う事なのだろうか、私は、恭介が、谷川岳に登りたいと言えば、その希望を叶えてあげたいと素直に思えたし、そうするべきだとも思えたのだった。
その時の私は、恭介の心の中を読み取れるほど、大人でもなく、むしろ恭介をただ夢中で愛している恋人でいたかったのだろう。
(4)
恭介が、今まで、登山どころか、軽いハイキングをもした事も無い、山に入った経験が全くない、ましてや、今回の旅で体調をわるくして、谷川岳に登れるほどの体力が快復してはいなかった事さえも考え付かないほど、私は恋に溺れた愚かな女になっていたのだった。
むしろ、私が支えてあげれば、恭介は男性なのだし登山の苦しさくらいには耐えられると簡単に考えていた、あの時の私自身が登山者として過信しすぎていたのだろう。
恭介は一晩ゆっくりと休んだのだから、もう、睡眠不足による、体調不良も快復しているだろうと、軽く考えてしまっていた。
夏の登山シーズンとしては少し早い6月のはじめの今、谷川岳は新緑が美しい季節だ、まだ夜も明けきらぬ早朝の5時前に恭介の体調を少しだけ気なりながらも、私の気持ちは逸っていた。
何事においても恭介と知り合って、恋人同士になってからも、どうしても私は自分でも気づかないうちに気後れしている部分が多かった気がしていた。
今の時代であったならば、身分が違いすぎるなどと言う事の偏見を持つ必要も無いのだけれど、あの頃は、恭介と私では学歴も家柄も違いすぎた、したがって、恭介と私の知識の違いも多い気がして、たとえ、知っている事でさえ、口ごもったり、物事を知らぬふりをして、ぎこちないそぶりが可笑しくもあったけれど、恭介の素敵さが、私を不安な気持ちにする時も多くあった。
けれど、私には、登山、山の事だけは唯一、恭介に堂々と話せる事であって、自信のもてる事でもあった。
恭介がなぜか、谷川岳に登ろうと言った時、恭介の心のうちを知らずに、私はとても嬉しかった。
私の大好きな山である谷川岳を、職場の先輩に連れられて登山した時など、その時の楽しさや登山の苦しみも、たとえようない喜びや幸福感に変わる瞬間がある事を、私は得意げによく恭介に話していた、その事を恭介が覚えていてくれた事が私はただ嬉しかった。
昨日から宿泊していた、土合山の家を私はふたりの荷物を手早くまとめて、恭介が背負うリックには軽い物をまとめて、私が背負うリックには食料や水など重いものをまとめて背負い、車道を歩き、昨日、恭介が苦しみながら階段を登った、土合駅を右に見ながら、西黒尾根の登山口を目指して、ゆっくりと恭介の様子を見ながらふたりは歩いた。
今日もやはり歩き始めてすぐに、恭介は苦しそうな息づかいに耐えて、無言で歩いている事が気になりながらも、どうしても谷川岳に登ってみたいと言う恭介を励ましながら歩いた。
西黒尾根の登山口へ向かう少し手前にある登山センターはいつ来ても背中をこそ寒い感覚になる不思議で緊張させられる不安な気分になる場所だ!
なぜか、別世界の存在を感じるような感覚になる、だがそれは決して怖いとか恐怖を感じる事ではなく、眼に見えない存在とでも言おうか、大げさに言えば、何かこの眼に見えない存在を意識させられる場所だ!
とにかく、湿気と生温かい空気がよどむ、そんな不思議な感覚の中で、私は恭介とふたりで、これから登る谷川岳のコースを記入した登山届けを出して、西黒尾根の登山口に向かった。
少し急な登りを恭介は喘ぎ苦しみながら、時々深いガスが行く手を阻むように、すべての風景を覆い隠して、うす闇の中でふたりは緊張と足場の不安定な岩場と格闘してもがきながら、突然闇はひらけて、雲間から射す、光の帯はまるで、クリスタルの氷柱のように煌き、まばゆく眼の中を焼き尽くすように走る、一瞬の光線が体を突き抜けて行く、冷えた体を暖めてくれる光だ、そんな中でふたりは必死で歩いていた。
そんな恭介の姿を見ていて私はむしろ頼もしく思えて、いい知れぬ喜びと幸福感さえも恭介に感じて嬉しかった、これでやっと恭介と私は同じ立場に慣れたような気がしていた。
いくつもの難所を無事通過して、何度も深い霧に包まれ、手探りの登山を強いられて、恭介と私は苦しさの中を喘ぎながらケイセツ小屋跡をいつの間にか通り過ぎていた。
ごくまれに突然深い霧が晴れて太陽の光がふたりだけに射してまるでスポットライトのように、薄い色の虹をを見た時、なぜか私は苦しいほど切ない思いになり涙が流れてとまらずに何度も手でぬぐいながら歩いた。
ふと、雲の切れ間から見えた、マチガ沢の風景は恐ろしいほどの迫力で私に迫って来るようで思わず私は緊張して体が硬直する!
最後の岩場を恭介はよろけるように、危なげな足取りで、岩場をよじ登りながら、なぜか、恭介も涙を流しているようにみえた姿に、私はわけの分からない不安を感じて、鼓動が苦しくなるような気持ちが乱れて落ちつけない!
「恭介さん、少し先に、避難小屋があるけど、休んで行く?」
「少し、風が強いから、風を避けて、小屋で休んだほうがいいわ~」
「体を休めようよ!」
「朝から、何も食べていないから、少し何か、小屋で食べましょうよ!」
「何か、食べたほうが、体も温かくなると思うの!」
そう言って、恭介に何とか休んでほしいと思うけれど、恭介は、どうしても、谷川岳の頂上に早く行きたいと言って、私の話を聞こうとしない。
「恭介さん!」
「そんなに、急がなくても、大丈夫よ!」
「下山は天神平まで下りて、ロープウェイに乗って行けば良いし」
「下山はもっと楽に歩けるから・・・」
「足は辛いかもしれないけど、胸は苦しくないからね!」
「ゆっくり歩いても、夕方までには下りれるから・・・」
「少し、休みましょうよ!」
「とにかく、何か食べて、体力をつけなくては、ダメよ!」
恭介を少しでも休ませてあげたい、体を楽にして、疲労をやわらげてあげたいと思い、こんな言葉を並べて、恭介を非難小屋で休ませたかったが、私自身もふと、心の中になぜか不安感があった。
確かに、今は谷川岳の頂上がはっきりと見えるつかの間晴天だが、いつ、天候が変わるか分からないこの谷川岳!
この山は天候の変化をいち早くよみとる事が難しい山だと、私の頭の片すみをよぎった。
そう、思いながらも、雲一つ無い、深い青い空が谷川岳を太陽の光が照らしている、あんなに深い霧に覆われていたさっきまでの風景が嘘のように美しい青い空が見えていた。
けれど気温は低い、確かに吹く風が冷たく体を休めると直ぐに冷えて寒くなって来る事を避けなくては・・・
ここからはもう一呼吸で登れる、眼の前が谷川岳頂上トマの耳がはっきりと見えていた。
恭介は休むと歩き出しが辛いからと言いながら、よろけるように、私の前を歩いて行く!
その姿がとても辛そうで、私は手をとり、支えてあげたかったけれど、恭介に触れる事さえ今は許されないような拒絶感を感じて恭介の一歩後ろを歩きながら、恭介がなぜここまで谷川岳を登る事にこだわったのだろうとふと思った。
喘ぎながら、やっと、恭介と私は谷川岳の頂上、トマの耳にたどり付いた!!!
恭介は頂上に着いたと同時に、狭い頂上によろけて、座り込んでしまった!!!
私はリックから雨具の上着を出して恭介にかけてあげながら・・・
「風が冷たいから、風を避けられる場所に移りましょう、恭介さん!」
「恭介さん、お願いだから、私の話を聞いて!」