大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋134

2024-12-22 18:36:10 | Weblog

「紅一点」

多くの男性の中の女性一人の場合を云うようになりましたが、元々は
ただ一つ異彩を放つもののことを云います。
その紅一点と云うに相応しいのが黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』で
雪姫役をやった上原美佐。
彼女なしでは、『風と共に去りぬ』のスカーレットを演じたビビアン・
リー同様に、異彩を放つ作品にはならなかったと云っても過言ではない。

いずれもこれはと云う女優が見つからず、やっとのことで監督自らが
原石を探り当てたわけですが、『隠し砦の三悪人』の場合は一般公募
したものの、黒澤の求める「若くてお姫様らしい気品と野性味がある」
女性が全国からの応募者4000人の中には見つからなかった。
しかし天の配剤か、名古屋の東宝系映画館に行った際、そこにいた支
配人に声をかけられたのが上原美佐。
 1981年4月4日にフジTV系列「ゴールデン洋画劇場」で『隠し砦の三
 悪人』が放送された後に黒澤監督、千秋実、藤原釜足、上原美佐が
 出演して当時を振り返った10分ちょっとの座談会があり、そこで上
 原自身がそう語った。
 作品にかかわったのは20歳前後、撮影は20歳から21歳に掛かる頃と
 語ってもいますので、(彼女の誕生日は1937年3月26日なので)おそ
 らく福岡から上京して文化女子短期大学在学中のことだと思います。
 クランクインは、後に記述しているように彼女が21歳のときですが、
 撮影に入る前には乗馬(障害を跳べるまで)の練習や姿勢を正すた
 めに剣道も習ったと云いますが、演技やセリフの稽古をみっちりや
 る余裕は無かったようで、演技指導は、上原がまるで(文楽の)人
 形のようにと語っているように、その場その場で黒澤が手取り足取
 りして教えたそうです。セリフは唖の役どころを多くして乗り切っ
 たと云います。

初々しい演技であってもピカリと輝く存在感があって、三船敏郎や千
秋実、藤原釜足など錚々たる役者達に引けを取るようなことはありま
せんでした。
僕が黒澤作品の中で一番好きなのがこの『隠し砦の三悪人』なのは、
痛快活劇であることも然ることながら、黒澤の求めた「気品と野生の
相反するもの」を彼女が巧まずして醸し出してくれたことで、凛然と
した作品に仕上がっていることにあります。特に終盤の火祭りの場面
が好きで、束の間ながらも雪姫の解き放たれた喜びが観ているこちら
にも伝わってきて嬉しくなるほど。結局は、雪姫の心ばえが苦難を共
にしてきた一党や敵将の田所兵衛までをも救うことになるのですから、
彼女こそこの物語の主役と云えるのです。それを見事に演じるという
より啓示してくれたように思うのです。

1958年5月27日に隠し砦の舞台となった兵庫県西宮市の蓬萊峡で撮影が
始まり、3度の台風のために撮影が大幅に遅れたこともあって、劇場公
開されたのはその年も押し詰まった12月28日のこと。
予算も大幅にオーバーしたものの、興行的には大成功で、1958年度の
邦画配給収入ランキングで5位、東宝配給映画の年間興行成績(58年7月
~59年6月)では1位となった。加えて第32回キネマ旬報ベスト・テンで
2位、第9回ブルーリボン賞で作品賞、海外でも第9回ベルリン国際映画
祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞をそれぞれ受賞した。

好評を博したにも拘らず、上原美佐は10本にも満たない作品に出演した
だけで、「私には才能がない」とわずか2年で引退してしまった。
上述した座談会の映像のテロップには、「その後引退。現在2児の母親
として主婦業に専念している。」とあったが、(銀行員と1962年に結婚
したまでは判明しているが、)現在どうしているか気になったので調べ
てみたところ、2003年に亡くなったとのこと。(享年66。一般人ゆえに
その詳細は分からず仕舞い。)
 公募者の中の一人、樋口年子は、雪姫役の選に漏れたものの、宿場で
 上田吉二郎演じる人買いから救われる秋月領の百姓娘役を掴んだ。
 囚われ縄を打たれた彼女が「私が雪姫です」と云う場面には思わずク
 スリとしてしまう。百姓娘なのに高札を読めるのには、首を傾げてし
 まう。
 その樋口年子も1979年に39歳の若さで亡くなっている。

黒澤他スタッフ陣も三船他俳優陣もその主だったひとは殆どが物故者と
なったが、この『隠し砦の三悪人』は辛いときや悲しいときなど凹んだ
ときに必ず観る僕にとっては紅一点の作品。

すべてに合掌。

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