小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

世間では、天才の定義、がいい加減

2019-04-19 19:06:31 | 武道・スポーツ
世間では、「天才の定義」、が、いい加減である。

というより。

世間では、どんな、ジャンルでも、いいから、何でもかんでも、ずば抜けた、人間を、安直に、「天才」、と、呼んでいる。



もし、天才の定義、を、

「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、

と定義すると。

ギネスブックに、名が乗る人間は、みな、天才、ということになる。

先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、人間は、「万引きの天才」、ということになる。

先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「女のナンパ」、を、1000回、やって、1000回とも、すべて、ナンパ、を、成功できた者は、「ナンパの天才」、ということになる。

先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、ブロック壊しゲームを、まる2日、続けられた人間は、「ブロック壊しゲームの天才」、ということになる。

しかし、これでは、あまりにも、おかしい。



天才の心理、精神構造、を、研究する学問を、(病跡学)、という。

病跡学の研究者として、ドイツの、精神科医、医学者、の、エルンスト・クレッチマー、が、有名で、彼は、大著、「天才の心理学」、を、著した。

エルンスト・クレッチマー、に限らず、多くの、天才の心理、を、研究した、病跡学者、が、「天才」の対象、として、研究した人間は、「学問」、と、「芸術」、の、分野で、偉業を成し遂げた人間だけである。

つまり、天才とは、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、であり、なおかつ、「人類にとって、今までにない、価値を産み出した者」、だけを、天才、と、定義しているのである。(←定義1)

これに、僕は、全く、同感である。

我々が、電車に乗れ、飛行機に乗れ、車を運転でき、携帯電話でどこからでも誰とでも話せ、パソコンを使え、手術によって、ガンが治るように、なったのは、(定義1)、による、天才達の、血のにじむような努力による、人類への貢献の恩恵、のみによるのである。(これは学問)

また、我々が、(何世代にもわたって)、感銘を受け、知性が向上し、精神が高揚される、音楽、絵画、彫刻、文学、戯曲、などの、再現性が無限である、(芸術)、も、「人類にとって、かけがえのない、価値の産物」、である。

なので、天才を、「学問」、と、「芸術」、の分野だけに、限定することに、僕は、同感する。



いくら、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、超人的な、行為を成し遂げた者が、いたとしても、彼は、人類に、何の貢献も、していない。



では、スポーツでは、どうかと言えば。

スポーツとは、そもそも、「遊び」、の、「高度の洗練化」、であり、学問のように、人類に、何らかの貢献をすることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。

「美」、を表現するスポーツである、「体操」、「フィギアスケート」、「アーティスティックスイミング」、なども、「芸術的な演技」、と、呼ばれることは、あっても、スポーツ自体は、「芸術」ではない、ことは、明らかである。

なので、トップアスリートは、「天才」、とは、呼べないのである。

では。頭脳を酷使する、将棋は。囲碁は。チェスは。

といったら、これも、やはり、人類に何らかの貢献を与えることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。

なので、これらも、「天才」、と、呼べるか、どうかは、疑問である。

彼らは、高度に、頭脳を使うゲームで、勝ち続ける、頭脳は持っていても、人類に寄与する価値のある何かの産物を産み出すことはない。

なので、彼らも、「天才」、とは、呼べない。

実際、ほとんどの、病跡学の研究者は、トップアスリート、や、将棋の名人、などの、精神構造、を、研究の対象としていない。

そもそも、天才、とは、人類に益する、形のある物を残した人物、と定義できる。

では。美人は、天才か、と言えば。

これも、「天才」、とは言えない。

なぜなら、美人の、「美」、は、永続的に形のある物、ではないからだ。

美人も、歳をとり、やがては、はあさん、になるからだ。

しかし、美人、を、見事に描いた絵画は、「天才の産物」、である。

レオナルドダヴィンチの、「モナリザ」、の絵画は、「天才の産物」、である。

ちなみに、芸術、は、個性の表現、であるが、学問、は、徹底的な、個性の否定、である。

ただし、学問的発見を、成し遂げるためには、その発見の方法に、優れた個性、が要求される。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇の政治利用

2019-04-19 16:16:18 | 政治
天皇の政治利用。

僕にとっては、天皇制、は、あっても、なくても、どうでもいいものである。

豪雨災害、とか、地震、とかの、被災地を、天皇は、見舞うが、そして、天皇に、慰められている、被災者は、それを、ありがたがっているが。

もし、僕が、被災者の立ち場だったとしたら、天皇に、慰められても、嬉しくも、なんともない。

慰めの言葉より、「金をくれ」、と、思うだろう。

皇族は、自分らは、国民の税金で、裕福な生活をしているのに。

しかし。

天皇制は、あっても、いいと、(否)、あった方が、少しは、いいと、思う。

それは、天皇制があることによって、日本は、他国に、戦争を、出来にくくなっている効果、と、そして、他国が日本に、戦争を、ふっかけにくい雰囲気の効果を、多少は、つくっている、と思うからだ。

しかし、それは、ほんの少しの効果しか、ないと思う。

なので、天皇制は、なくても、構わないとも思っている。



では。

逆に。

「天皇制は、絶対に、破壊してはならない」

と、熱烈に、主張する人は、多いと思うが。

そういう人の中で、天皇制が、なくなりそうな危機になった時。

自分の命をかけてまでも、天皇制を守ろうと、する人が、はたして、いるだろうか?

と、僕は、疑問に思っている。

(おそらく、いないだろう)

自分の、幼い子供が死にそうになった時、ほとんどの母親は、自分の命をかけて、子供を守ろうとするだろう。

また、辺野古の埋め立ての阻止に、命をかけて、抵抗する人は、いると僕は思う。(翁長雄志元沖縄県知事は、そうだった)

しかし、天皇制が無くなりそうになった時に、自分の命をかけて、天皇制を守ろう、と、する人は、僕は、いない、と思っている。

つまり、天皇制は、巨人ファンが、巨人が、リーグ優勝して欲しい、と思っているのと同程度の、情熱でしかないと、僕は、思っている。



また、僕は、天皇制を無くすことが、日本の伝統の破壊だとも、思っていない。

天皇制というものは、現在に至るまでの、日本の歴史の中で、厳然と存在したものであり、過去の歴史は、変えることは、不可能だからである。

だから、天皇制を、無くしても、日本には、天皇制があった、という、事実を、日本の、過去の歴史の遺産として、大切に保存しておけば、それでいいものだと思っている。

なので、僕は、天皇制は、あっても、なくても、どっちでもいいと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする