世間では、「天才の定義」、が、いい加減である。
というより。
世間では、どんな、ジャンルでも、いいから、何でもかんでも、ずば抜けた、人間を、安直に、「天才」、と、呼んでいる。
☆
もし、天才の定義、を、
「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、
と定義すると。
ギネスブックに、名が乗る人間は、みな、天才、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、人間は、「万引きの天才」、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「女のナンパ」、を、1000回、やって、1000回とも、すべて、ナンパ、を、成功できた者は、「ナンパの天才」、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、ブロック壊しゲームを、まる2日、続けられた人間は、「ブロック壊しゲームの天才」、ということになる。
しかし、これでは、あまりにも、おかしい。
☆
天才の心理、精神構造、を、研究する学問を、(病跡学)、という。
病跡学の研究者として、ドイツの、精神科医、医学者、の、エルンスト・クレッチマー、が、有名で、彼は、大著、「天才の心理学」、を、著した。
エルンスト・クレッチマー、に限らず、多くの、天才の心理、を、研究した、病跡学者、が、「天才」の対象、として、研究した人間は、「学問」、と、「芸術」、の、分野で、偉業を成し遂げた人間だけである。
つまり、天才とは、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、であり、なおかつ、「人類にとって、今までにない、価値を産み出した者」、だけを、天才、と、定義しているのである。(←定義1)
これに、僕は、全く、同感である。
我々が、電車に乗れ、飛行機に乗れ、車を運転でき、携帯電話でどこからでも誰とでも話せ、パソコンを使え、手術によって、ガンが治るように、なったのは、(定義1)、による、天才達の、血のにじむような努力による、人類への貢献の恩恵、のみによるのである。(これは学問)
また、我々が、(何世代にもわたって)、感銘を受け、知性が向上し、精神が高揚される、音楽、絵画、彫刻、文学、戯曲、などの、再現性が無限である、(芸術)、も、「人類にとって、かけがえのない、価値の産物」、である。
なので、天才を、「学問」、と、「芸術」、の分野だけに、限定することに、僕は、同感する。
☆
いくら、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、超人的な、行為を成し遂げた者が、いたとしても、彼は、人類に、何の貢献も、していない。
☆
では、スポーツでは、どうかと言えば。
スポーツとは、そもそも、「遊び」、の、「高度の洗練化」、であり、学問のように、人類に、何らかの貢献をすることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。
「美」、を表現するスポーツである、「体操」、「フィギアスケート」、「アーティスティックスイミング」、なども、「芸術的な演技」、と、呼ばれることは、あっても、スポーツ自体は、「芸術」ではない、ことは、明らかである。
なので、トップアスリートは、「天才」、とは、呼べないのである。
では。頭脳を酷使する、将棋は。囲碁は。チェスは。
といったら、これも、やはり、人類に何らかの貢献を与えることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。
なので、これらも、「天才」、と、呼べるか、どうかは、疑問である。
彼らは、高度に、頭脳を使うゲームで、勝ち続ける、頭脳は持っていても、人類に寄与する価値のある何かの産物を産み出すことはない。
なので、彼らも、「天才」、とは、呼べない。
実際、ほとんどの、病跡学の研究者は、トップアスリート、や、将棋の名人、などの、精神構造、を、研究の対象としていない。
そもそも、天才、とは、人類に益する、形のある物を残した人物、と定義できる。
では。美人は、天才か、と言えば。
これも、「天才」、とは言えない。
なぜなら、美人の、「美」、は、永続的に形のある物、ではないからだ。
美人も、歳をとり、やがては、はあさん、になるからだ。
しかし、美人、を、見事に描いた絵画は、「天才の産物」、である。
レオナルドダヴィンチの、「モナリザ」、の絵画は、「天才の産物」、である。
ちなみに、芸術、は、個性の表現、であるが、学問、は、徹底的な、個性の否定、である。
ただし、学問的発見を、成し遂げるためには、その発見の方法に、優れた個性、が要求される。
というより。
世間では、どんな、ジャンルでも、いいから、何でもかんでも、ずば抜けた、人間を、安直に、「天才」、と、呼んでいる。
☆
もし、天才の定義、を、
「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、
と定義すると。
ギネスブックに、名が乗る人間は、みな、天才、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、人間は、「万引きの天才」、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「女のナンパ」、を、1000回、やって、1000回とも、すべて、ナンパ、を、成功できた者は、「ナンパの天才」、ということになる。
先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、ブロック壊しゲームを、まる2日、続けられた人間は、「ブロック壊しゲームの天才」、ということになる。
しかし、これでは、あまりにも、おかしい。
☆
天才の心理、精神構造、を、研究する学問を、(病跡学)、という。
病跡学の研究者として、ドイツの、精神科医、医学者、の、エルンスト・クレッチマー、が、有名で、彼は、大著、「天才の心理学」、を、著した。
エルンスト・クレッチマー、に限らず、多くの、天才の心理、を、研究した、病跡学者、が、「天才」の対象、として、研究した人間は、「学問」、と、「芸術」、の、分野で、偉業を成し遂げた人間だけである。
つまり、天才とは、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、常人では、成しえない業績を、達成した者」、であり、なおかつ、「人類にとって、今までにない、価値を産み出した者」、だけを、天才、と、定義しているのである。(←定義1)
これに、僕は、全く、同感である。
我々が、電車に乗れ、飛行機に乗れ、車を運転でき、携帯電話でどこからでも誰とでも話せ、パソコンを使え、手術によって、ガンが治るように、なったのは、(定義1)、による、天才達の、血のにじむような努力による、人類への貢献の恩恵、のみによるのである。(これは学問)
また、我々が、(何世代にもわたって)、感銘を受け、知性が向上し、精神が高揚される、音楽、絵画、彫刻、文学、戯曲、などの、再現性が無限である、(芸術)、も、「人類にとって、かけがえのない、価値の産物」、である。
なので、天才を、「学問」、と、「芸術」、の分野だけに、限定することに、僕は、同感する。
☆
いくら、「先天的な才能、と、驚異的な努力、によって、「万引き」、を、1000回、成功させ、一生、警察に捕まらなかった、超人的な、行為を成し遂げた者が、いたとしても、彼は、人類に、何の貢献も、していない。
☆
では、スポーツでは、どうかと言えば。
スポーツとは、そもそも、「遊び」、の、「高度の洗練化」、であり、学問のように、人類に、何らかの貢献をすることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。
「美」、を表現するスポーツである、「体操」、「フィギアスケート」、「アーティスティックスイミング」、なども、「芸術的な演技」、と、呼ばれることは、あっても、スポーツ自体は、「芸術」ではない、ことは、明らかである。
なので、トップアスリートは、「天才」、とは、呼べないのである。
では。頭脳を酷使する、将棋は。囲碁は。チェスは。
といったら、これも、やはり、人類に何らかの貢献を与えることも無ければ、(一時、の感動は人に与えられても)永続的な感動、を、人に与えることも出来ない。
なので、これらも、「天才」、と、呼べるか、どうかは、疑問である。
彼らは、高度に、頭脳を使うゲームで、勝ち続ける、頭脳は持っていても、人類に寄与する価値のある何かの産物を産み出すことはない。
なので、彼らも、「天才」、とは、呼べない。
実際、ほとんどの、病跡学の研究者は、トップアスリート、や、将棋の名人、などの、精神構造、を、研究の対象としていない。
そもそも、天才、とは、人類に益する、形のある物を残した人物、と定義できる。
では。美人は、天才か、と言えば。
これも、「天才」、とは言えない。
なぜなら、美人の、「美」、は、永続的に形のある物、ではないからだ。
美人も、歳をとり、やがては、はあさん、になるからだ。
しかし、美人、を、見事に描いた絵画は、「天才の産物」、である。
レオナルドダヴィンチの、「モナリザ」、の絵画は、「天才の産物」、である。
ちなみに、芸術、は、個性の表現、であるが、学問、は、徹底的な、個性の否定、である。
ただし、学問的発見を、成し遂げるためには、その発見の方法に、優れた個性、が要求される。